映画館を出て、陽の光のなかを歩き始める。と、自分の歩調が周囲と違うことに気づき、可笑しくなることがある。映画の世界を引きずりながら、雑踏へ踏み出していて。長閑な春の昼下がり、ゆったりと歩く買い物客や親子連れ、ランチ帰りのOLたちの間を、険しい表情で行き過ぎる自分に気づき、ショウウインドウを覗いて顔を通常に戻す。そんなときは、いつもの街が、違う印象で迫ってくるようで、街角の客引きが妙に眼について、ビルのガラスの壁面が不穏な色彩に感じられるのだ。
産土やしくしく泉湧くことも 斉田 仁
『塵風』第二号より(或る方からお送り頂きました。ありがとうございます)。この号の特集は「風景」。様々な方が映画や、詩の舞台や、戦後の建築物、漫画に登場する風景などに焦点をあてながらそれを語っていて面白かった。俳句雑誌として、ここ最近読んだもの(といってもあまり手にとっていないのだが)のなかで一番心に残る特集だったとも言える。掲句は、巻頭のまさしく特集「風景」という掲載句の中にあったものではないのだが、最も印象的な風景の句。「しくしく」のオノマトペは、地中から湧く水音でありつつ、上五の「産土や」の切れから女性の下腹痛、それが出産に伴うものであってもなくても、を想起させる。それはさらに、泉のそばで泣いている女の姿にも。土俗的な信仰の匂いもして。いいさしでの終わり方も、読者の様々な記憶の中の風景を呼び覚ます効果へつながっている。
ゆつくりと落ちるものある秋の庭 雪我狂流
レプリカの巨鯨春風駘蕩区 烏鷺坊
緑陰に置かれて蓋のない薬缶 唖々砂
老人も砥石も乾く南風 長谷川裕
吊り橋のある短夜の眠りかな 村田 篠
風景は、潜在的な意識とともに、知覚されるものなのだろう。ときに、恣意的に、それは記憶される。たった今見たばかりの、映画の残像が街の風景に重なるように。
花辛夷とは降伏のための旗 青山茂根
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