2011年6月3日金曜日

 ― はさみ ―



 白い衣装をまとっているこの女神たちは、クロノスのむすめでも、妖精でもなく、夜から生まれてきた姉妹だった。ときどき、彼女たちはやせた手をのばし、とがった指先で前にあるふしぎな道具をなでた。それはつむぎ車と、ものさし、そしてはさみだった。
      (『ギリシア神話物語』 リアン・ガーフィールド&エドワード・ブリッシェン 小野章訳 講談社 1975)

 ギリシャ神話に登場する、運命をつかさどる三人の女神。盲目で、やせぎすな、無表情のまま人々の命の糸を操る女神たち。そのうちのひとり、アトロポスは、運命の糸を断つ。そのはさみは、ずっと和鋏、握り鋏の形をしていると思っていた。一枚の鋼鉄をU字型に曲げて、両端についた刃を合わせて使う、あの鋏である。切るときに一度指を開くというアクションのいらない、冷酷無比に人間の運命を断ち切ることの出来る女神のはさみ。古代の鋏は、そもそも握り鋏の形であったそうで、今日常に用いられている洋鋏のほうが後に出来たということだから、ギリシャ神話の時代設定には、握り鋏の形が正しいのかもしれない。幼い頃、母が多少の縫い物をするときの、小さなフェルトや糸を切るときの握り鋏のあの歯切れのいい音、それが何か運命の糸を断ち切る音のように思えたのか。大きな布を裁つときに使うのは、ラシャ鋏と呼ばれていた洋鋏で、子供にはよく切れて危ないのと布以外のものを切ると切れ味が鈍るからと触らせてもらえなかったが、時折母の目を盗んで工作をきれいに仕上げたいときなどにこっそり使っていた。(今さらながらごめんなさい、である。)
  
 その母の針箱の中に、といっても木製の大きな裁縫箱はほとんどいつも押し入れに仕舞われたままで、普段手元で何やかや繕ったりに使われていたのは、小さな籠や、お菓子の空き缶などだったが、そんなクッキーやゴーフルの缶の模様や籠の手触りを今もよく覚えている。その中に、ごく小さな、市松人形の手には少しあまる位のサイズの和鋏、つまり握り鋏があった。他にも、全長10センチや15センチくらいの、黒イブシやみがきの和鋏もあったのだが、最も小さい、全長6センチにも満たないほどのその和鋏が私は好きで、よくいじらせてもらっていた。母が何かしているそばで、ちょっと糸を切らせてもらったりするくらいだが。子供の小さい手によくなじみ、また、極端に小さいものは何か収集癖を刺激するせいか。割と大きな、母の手には使いづらかったのか、あるときねだったらすんなりそれを私の針箱に移してくれた。以来ずっと、糸切りにはその鋏でないと何か落ち着かなくて、実際、片手に糸を通したままの針を持ちながらもう一方の手でさっと取り上げて糸を切るには、この和鋏、握り鋏の形状のほうが指を通して持ち上げるという手間がなくてスムーズなのだ。その、極小の、握り鋏があまりに使いやすいので、なくしたときのためにもうひとつ、と思って店などをのぞいたときに探してみるのだが、全長6センチ以下、刃の部分が2センチというものはなかなか見つからない。思い立って、その黒イブシの小さな鋏に刻印してある店の名、木屋へも出かけて聞いたことはあるのだが、今はもうその大きさは作っていないそうだ。その少し上の、全長7.5センチというものが現在は最小らしい。手になじんだ道具は、ほんの1センチの違いが随分使い勝手に影響するのだが。ふと、自分が今これを無くしたら、ずっとずっと探し回るのだろう、という気がした。



  ゆくへ、ゆくへ、ゆくへ、六月、雨、ゆくて     青山茂根



0 件のコメント:

コメントを投稿