2010年7月9日金曜日

 ― フィクションの狭間 ―


 
 二つの映画を観た。ひとつはドキュメンタリー、もうひとつはフィクション。手法は違うが、それぞれに打ちのめされる、としか言えない。何かを伝える、ということについて、どちらも、考えさせられる映画だ。

 『ビルマVJ 消された革命』(2008 原題:BURMA VJ:REPORTER  I ET LUKKET LAND)は、長編ドキュメンタリー映画だが、ところどころ再現映像が挿入されている。この作品の公式サイトには以下のようにある。

 本作は、その映像の多くが現地に潜入したVJ(Video Journalistの略)たちによって実際に撮影された素材によって構成されている。また、いくつかの再現映像も使用されている。なぜなら、実名や地名、実際に起きた出来事の詳細を公表することは、関係者たちの身に危険を及ぼすことになりかねないからである。それらの再現映像は、実際の現場を直接体験した当事者たちとの緊密な協力関係によって撮影されたものである。

 つまり、この悲劇はまだ続いている。今も、ここに映っている犠牲となったジャーナリストのように、危険を顧みず、同じように映像を撮り続けている人々が、そこに存在するということを、この解説は語っている。その事実の前に、一部がフィクションであること、それがどの部分か、といった詮索は、平和な立ち位置から観る側の、傲慢さでしかない。そして、実際にこの映画の監督が語っていたのは、ある部分にフィクションを採用することで、より鮮明に伝わる事実がある、といった言葉だった。

 もうひとつの映画『闇の列車、光の旅』(2009 原題:SIN NOMBRE/WITHOUT NAME)は、日系移民3世の米国人監督による、フィクションである。監督自身が、実際の不法移民たちと貨車の吹きさらしの荷台に乗って旅をし、想を得て脚本を書いている。物語と知りながら、描き出される南米の現実に、観ている私は押しつぶされる。公式プログラムからの転載を禁じる、とあるので残念ながら引用することが出来ないのだが、「ドキュメンタリー風のリアリズム」を追求せず、「フィクションの叙情的時空を介在」することで、逆に真摯に伝わるものがあるということに、今更ながら、衝撃を受ける。実際に、本物のギャングメンバーを使って撮影しているシーンがあり、そこは自由に彼らに動いてもらった、と観終えた後に知っても、そういえばカメラが多少そのシーンはルーズだった、としか思い浮かばない。

 先日読んだ、以下の文章が、これらの映画とフラッシュバックしながら、頭の中を駆けめぐる。何かを描き出すということ、読みとること、文章であれ、映像であれ、その行為に関わる側の意識を、常に考えながら

 危ういことでもある。素朴な経験主義から生まれた歌に強く感銘を受けることは。少なくとも、ことばを表現の糧に選んだ者には、危うい。想像世界に意識を解き放ち、修辞の海から数多のことばを回収して鮮やかに構築する作業が、詩作の根本だろう。その作業を経ず、素朴なリアリズムのみに貫かれた作物は、別の次元で評価しなくてはならない。
 (『現代詩手帖』6月号 歌の周圏⑥ーゼロ年代短歌展望「わたしは人を殺しましたか」 田中綾氏の文章から )


 
  或る朝のプールに映りたる機影       青山茂根

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