2010年9月17日金曜日

 ― Moussaka ―



  錨より雫馬鈴薯引く、拾ふ      青山茂根


 横浜の、黄金町あたりから根岸線をくぐっていく、N川沿いの夕暮れの道の物悲しさと、新山下から本牧へかけての、沖縄を始め様々な、しかし小さな料理屋ばかりの灯りが点在する道の深夜の風景を、ときどき見たくなる。なんてことない町の、しかし少し脇道を入ると危なっかしい店も息づいていながら、川べりの灯りの柔らかな光が、不思議な釣り合いを保っていて。それでも、ああ、港町なんだなあ、と感じ入ったのは、ギリシャ料理店の多さだった。現在は閉店してしまった老舗もあるのだが、私が学生の頃は、そのN川沿いや、山下町の裏道あたりにも、ギリシャ人オーナーが開いていた店がいくつもあった。古くから、港に入港する船にギリシャ人船員が多く、彼らが上陸したときに羽を休め、祖国の味を懐かしむ場所として、ギリシャの酒を専門に置いているバーや、レストランが繁盛していたのだという。今は、日本の海運業にギリシャの船が関わらなくなってきたのか、次第に店が減って、もともとのギリシャ人オーナーから、日本人経営の店に変わってしまったところもあるらしい。ゼミの教授を囲んだ会も、確かそうしたギリシャ料理店のひとつで行われ、それもその教授のお気に入りの店とかで、堅い、という印象しかなかった師の、意外な一面を見た気がした。


 「Moussaka(ムサカ)」という料理も、確かそのときテーブルに登場したはずだ。初めて食べたのは、もう少し前、N川沿いのどこかの店だったように記憶するが、その名前の音の響きは、ある小説を、専攻ではない英文学の授業で読んだときに知った。


 数年前に別れた男女が、当時よく食事をした店で偶然再会するという英国の女流作家の書いたストーリーで、普段の自分たちからするとまず入らないタイプの店の、少し庶民的なレストランの描写、それに重ねて女性のほうの心理が、屈折を引き戻すように提示される。


 誰にも見つかりそうにない、どちらかの知り合いが行くようなことはないにきまっている店だったからで、それでいて不便で話にならないというほどではなく、ホーボーンからあまり遠くはない所で、ホーボーンなら二人ともときどき行っても不自然ではなかったのだ。(中略)

 そこに座ると、赤い縞が入った合成樹脂のテーブルの表面と、ごちゃごちゃ置いてある塩、こしょう、マスタード、ソースなどの容器と灰皿を見た。塩の容器が、太いギザギザの線が入ったアクリル製で、口の周りが帆立貝の形になっている安っぽさは忘れようもなかった。

(「再会」 マーガレット・ドラブル著 小野寺健編訳『20世紀イギリス短編選(下)』より 岩波文庫 1987)


 心のどこかで期待している、自分の行動を自己否定しつつ、眠らせてあった本当の感情に次第に肯定的になっていく女性の葛藤が、見事に読者の前にあきらかにされていく筆致は、英国の女流作家の小説に特徴的なものだろう、読んでいる自分も、極小のカメラで胸の内から頭の中まで画面に映し出されている気分になってくる。日本のこの手のテレビドラマの安易な設定とは大違いだ。そして、いつも男性が頼んでいたムサカ!女性のほうは、常にチーズオムレツ。手早く食べられる一品料理であり、どこで食べてもあまり外れが無いから、と書かれているのは、つまり、その男女が、外でゆっくり、特別な食事を楽しむにははばかられる関係であることを指す。そして食事の内容よりも、そのあとの行為のほうに重点がおかれていた、という二人の結びつきの濃さを表して。偶然再会したその店で、<「で、お子さんたちは元気?」>などという会話を交わしながら、後から運ばれてきた彼のムサカから、話は急展開する「・・・まるでプルーストの記憶の世界じゃないか。・・・ムサカの味はきみだ。」>という方向に。


 残念ながらムサカにまつわるそんな思い出のない私は、その、茄子とジャガイモと挽肉、ペシャメルソースの層に、焦げ目のついたチーズの織り成す味を、どこか懐かしく、たまらなく食べたいものとして思い起こすだけだ。<忘れてしまう人間は忘れる>、そんなものかもしれないと思いつつ。(原題:The Reunion) 

2 件のコメント:

  1. ムサカ。それほど好きではありませんが、
    こんな時間なのに急におなかがすいてきました。
    どうしましょ。

    マーガレット・ドラブルで動揺してしまって…。
    大学時代の教材で「滝」を読んで以来、
    けっこうはまっていました。
    しゃれた描写が気に入ってたんだと思います。
    そう、茂根さんが抽いたあたりとか。
    気づいたら、しばらく読んでいませんでした。
    老人の読む小説ではないのかも。

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  2. 麻禰さま

    食欲の秋ですね。おいしいもの、どんどん食べましょう。

    M.ドラブル、私は当時読んだときはムサカしか記憶に残ってなくて(食い気しか…)、今読み返したらじーん、という感じです。
    情け容赦のない描写なんですが、どこかに希望があるのです。この取り上げた話は、そのあとの泥沼が連想されますけど。
    英文学、カズオ・イシグロなども面白いですね。

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