下記のブログを読んで、古い角川『俳句』を引っぱりだした。
夢の帆柱「眺めて、おもう」
『俳句』平成16年1月号から17年6月号まで、18回にわたり連載された千野帽子の「先生、ここがわかりません!」。
リアルタイムでは、まったくノーマークだった。タイトルを見て「初心者向けのハウツーものか」と思ってスルーしていたのだった。
第1回目は、こんな文章から始まる。
俳句初心者には二種類ある。「素人」と「弟子」だ。
これは、師匠を持つとか持たないということではなく、「体質」だという。で、句会にハマった「素人」である千野帽子は入門書を五十冊読んだ。しかし、「弟子」体質ではない千野には俳句に関する素朴な疑問は解消せず、謎が深まるばかりだった。そうした「素人」に俳句の世界がどう見えるか、ということをストレートに書きつづっている。すべてではないけれど、かなりの部分で、ふだん僕が感じていることとダブっていて、たいへんおもしろかった。いくつか紹介したい。
第17回「俳句は「大衆化」してよかったのか」では、伊藤園の「お〜いお茶」のペットボトルや缶に印刷されている「新俳句大賞」を取り上げている。
考えてみればいかに俳句人口が多くとも、投稿している人よりも俳句を作らずにいる人間のほうが圧倒的に多いはずで、そういう人の大半は伊藤園の俳句を見てもなんとも思っていないか、ヘタすれば「つまんねー」と思ってるかもしれないのだ。俳句の世界において真に待たれるべきなのは、伊藤園の俳句を読んで「こんなのが俳句なら自分は俳句やらなくていいや」と思える感覚の持主たちなのではないか。
私は「お〜いお茶」ひとり不買運動を行っているが、それは、もちろん「新俳句大賞」を見ると落ち込むからだ。なぜかといえば、千野さんが述べているように、「こんなのが俳句なら自分は俳句やらなくていいや」と思われるのがくやしいし、なさけないからである。
それを敢えて「ふつうの感覚」の持主と呼ぶならば、俳句の世界には、伊藤園を含む投稿俳句をおもしろいと思っちゃう「特殊な感覚」の持主ばかりが大挙して押し寄せていることになる。
第12回「『新しい俳句』はほんとうに新しいか」は、次の文章ではじまる。
いくつかの句会に参加してみて気づいたことのひとつ。四十歳代の女性参加者には「ポエマー」率がひときわ高い。
これは僕も以前ミクシィの日記で少し書いたことがあるのだけれど、今は亡き「俳句朝日」で若手俳人特集を行ったことがあって、結社推薦の若手俳人数百人の俳句が三句ずつ掲載された。そのときの、アラフォー俳人たちのメルヘンチックな「詩的表現」に辟易したのを覚えている。「ポエム」なのである。70年代の少女漫画、80年代の歌謡曲、シティ・ポップスのセンスなのである。「レモン色の月」云々という句があったりして、おいおい、結社推薦なんだろう、とびっくりしたもんだった。
老主宰が彼女たちのメルヘンな俳句になんと「新しさ」を見て取って称揚しているという可能性はないのか。
(中略)
はっきりしたことは言えないがもしそうなら俳句の世界の言語感覚の一部は、ジャンルとして特殊に進化したものではなくたんに世間より「遅れている」だけなのかもしれない。
(中略)
ド素人から見れば彼女たちのポエム信仰は時間が四半世紀ほど止まっている。
これは「ポエム」だけにとどまらない気がする。たとえば、寺山修司や塚本邦雄的レトリックをまんま使用した若手の俳句が主宰クラスの俳人に受けているのを最近よく目にする。そういうのも、俳句の「素人」が見たら、ほんと恥ずかしい。俳句をやらない友人に見せられない。馬鹿にされるだけだもの。
最終回は「俳句は大衆化してよかったのか」
本文の中に、唯一ゴチック体になっている文がある。
俳句がだれにでもできてたまるものか。
これが一番言いたかったことなのだろう。つづけて
俳句人口が多いのに出版不況なのは俳句人口の大半が本来なら俳句をやらなくていいはずの「(碌な)本を読まない人たち」で占められているからである。これが俳句の「大衆化」というものの実態だ。
このあとにもっと過激なことが書いてあるのだけど、引用はやめておく。引用した文も素直に首肯しがたいのだけど、要は、先に紹介したブログの執筆者が述べている「俳句のなかだけではなく、文学のなかで輝きを放つためには、知らなきゃならないこと、考えなきゃならないこと、視野に入れなきゃいけないことがたくさんあると思う」ということなのだろう。これが、「素人」=「ふつうの感覚」の持主の率直な声なのだ。
私は師匠についているが、体質は「素人」である。で、師匠についていなくても、体質が「弟子」の人はたくさんいる。というか、「素人」体質の俳人って、ほんと少ない。
こういうこと書いて、自分の俳句載せるのって、ハードル高すぎるわ。
みのはちのすせんまいぎあら春愁 榮 猿丸
興味深く拝読、最後の「ハードル高過ぎ」発言に
返信削除笑っちゃいました。
伊藤園の新俳句は、俳句と無縁の人にとっては
「あれが俳句」なんですよね、残念ながら…。
私は自分では結構「弟子」体質だと思うのですが、
師匠にも創作上の刺激を与えられる存在で
ありたいと思っています。
千野帽子の「向上句会」の選評は、すさまじかった。(安伸さんはよくご存じですよね)
返信削除http://www.onlysky.info/poet/kojo/
人が殺せるw
春休さま
返信削除>私は自分では結構「弟子」体質だと思うのですが、
>師匠にも創作上の刺激を与えられる存在で
>ありたいと思っています。
それが一番理想かもしれないですね。千野さんは、結社制度が持ちやすい権威主義やヒエラルキー、先生を盲目的に崇めてしまうという弊害を「弟子」体質にみているのだと思います。
そういえば、古い「俳句」を見ていたら、春休さんの作品とお写真が。イケメン!ですね。
信治さま
人が殺せるって……。そういう句会いいな。
>信治さま
返信削除向上句会の記録、まだ残ってたとは。なつかしいです。
千野さんとは青山俳句工場の徹夜句会でもご一緒させていただいてましたが、いま思えばかなり熱く議論してましたね。一つの句についてしつこく論じるスタイルでした。
sarumaruさま
返信削除面白く拝読しました。
ただ、こういうう話はとても難しい。
俳句にはそういう「特殊な感覚」の持主たちを惹きつける、という側面があることは認めるべきではないかと思います。
自分もそういう人たちの中にいて俳句を作ってるわけですから。
ダサい人たちの中に入って行って、「オマエら、みんなダサいな。」と言ってもしょうがないじゃないか、という気がするのです。
ならば、句会とも結社とも俳壇とも関係ないところで作ればよいのではないかと。
お邪魔します。
返信削除私、この千野帽子の連載、リアルタイムで読んでいましたよ。
平成16年、ちょうど俳句を始めた(結社に入った)ばかりの頃だったので
「こういう感覚の世界に飛び込んじゃって大丈夫かー!?」と心配になったのをありありと覚えています。
まあ、今のところは大丈夫そうです。
さるまるさまはご自分を素人体質とおっしゃいますが、
私はそもそも「素人」=「ふつうの感覚」の持主の言語感覚とも、ズレている人間なのだろうと自覚しています。
世の中でベストセラーになる小説、大ヒットする歌の歌詞、ピンと来ないことが多いですもん。
それでいていわゆる俳句界の「特殊な感覚」も持つことが出来ないでいるのですが。
思えば……。
こういうのが売れ線なんでしょ。
或いは、こういうのが今の俳句の世界では「受ける」んでしょ。
……といった、形だけ小奇麗に整っている物が嫌なのかも知れません。何ごとにつけても。
(いや、単に自分がセンス悪いだけか……?)
弟子体質と素人体質って、対比的に書かれていたけれど、もう一歩踏み込むと、要は「おのれの言語感覚を研ぎ続けているかどうか」と言うことになって来るのでしょうかね~。
懐かしい文章が引用されていたので、つい長くなりました。
ロケツさま
返信削除コメントありがとうございます。
まあ、ふつうはこういうこと言わないんでしょうけどね。でも、僕は俳壇の中から言っていかなきゃいかんと思っています。ほんとダサいわ。
桂さま
結局、お〜いお茶俳句って、「詩的表現」のレベルの低さという問題に行き着くんですよ。擦り切れた腐りきった「ポエム」を持ち込もうとするんですよ。だから千野さんが「『(碌な)本を読まない人たち』で占められている」という発言をしているんですよ。べつに読まなくてもいいんだけど、そう言いたくなるんだよ。
で、この詩的表現のレベルの低さってのは、お〜いお茶にとどまらず、俳句全般を覆っていて、具体例は避けますけど、「新鮮な詩的表現である」みたいな評が付いた俳句をみると、「おいおい、堀口大學訳の世界じゃねえか」というのが多くてびっくりするわけよ。このびっくりする感覚が「素人」=ふつうの感覚なわけですよ。
さるまるさま
返信削除お返事ありがとうございます。
「びっくりする感覚=ふつうの感覚」、たいへんよくわかりました。
ただ、そうすると「素人」とは俳句業界に対して「素人」であるだけで、文学的経験値は高めな方ですよね。
千野さん(さるまるさんも)は意識していないかも知れないけれど、現代においては「ふつうの感覚」が既にレベル高い!!のではないでしょうか。
とはいえ、俳句業界で先生と呼ばれる方々、賞の選者をなさる方々にはぜひとも持っておいて頂きたい感覚ではありますね……。
榮さま
返信削除埋もれてしまった文章なので、取りあげていただき感謝しています。
ロケツさま
>自分もそういう人たちの中にいて俳句を作ってるわけですから。
>ならば、句会とも結社とも俳壇とも関係ないところで作ればよいのではないかと。
句会はともかく結社とも俳壇とも関係なく作ってました。いまは俳句自体作る機会がありません。作らなくなってからのほうがちゃんと論じられるようになった気がします。
中村さん
長いことお目にかかってませんが、機会があればぜひカラオケでも。
千野さま
返信削除>作らなくなってからのほうがちゃんと論じられるようになった気がします。
作者でありながら論じるということの難しさを感じることは多いです。
>機会があればぜひカラオケでも。
ぜひまたお目にかかりたいです。ご連絡させていただきます。
千野さま
返信削除ご本人様からコメントいただき、恐縮です。ありがとうございます。
単行本化されなかったのが残念です。
しかし、『俳句』にこんなに面白くて過激な連載があったなんて、びっくりしました。4,5年前だから、そんなに古いわけではないんですが、今の『俳句』ではちょっと考えられないです。当時の読者の反応はどうだったのか、気になります。
>作らなくなってからのほうがちゃんと論じられるようになった気がします。
ぜひ拝読したいです。機会があればhaiku&meにも(笑)。
今後ともよろしくお願いします。