「ごんぎつね」の話を、皆覚えているもので、知らない間に何か贈り物が置かれていたりすると、ついその名が口をついて出る。Twitterの中で、私だけでなく他の人も別の話でそうつぶやいているのを見て、少し驚いた。それだけ、記憶に残る話なのか。すっかり忘れていたが、どのようなストーリーであったか、おぼろげながらだが次第にはっきりと蘇ってくる。
俳句をやっている人の中にも、宮沢賢治のファンは多いらしく、その話題は時折見かけるのだが、新美南吉の話はなかなか出ない。地味な、農村を題材にした、あまり舞台設定に変化のない話が多いためか。どちらかといえば、私は新美南吉や小川未明の童話のほうが好みで、あまり宮沢賢治を手に取ることがないが、それはきっと現在では少数派なのだろう。「おじいさんのランプ」は確か教科書に載っていたか何かで、やはり皆が知っている話だが、吊るしたランプを割るシーンの哀しみは、その向こうの夜空を想起させて印象深い。「ごんごろ鐘」の中の、白椿の花の描写、ふいご、「和太郎さんと牛」のお母さんが目を悪くしたのは田草取りのためであったこと、昔はこの田草取りの折に稲の葉先で目をやられる人が多かったとは何かの歳時記で読んだ。「牛をつないだつばきの木」の話は主人公の出征で終わるのだが、その時代の口調でありつつも礼賛も美化もしない、ただ運命をそのままに受け止めている静かな語り口だ。「耳」は、もっと象徴的に終わる。その後の日本の有り様を、暗示しているように。季節の描写があちこちに出てくるのも、俳句を始めてから読み返して気づく。実は東京外国語学校(現在の東京外語大)で、英米文学を学んでいたというのが、その残された創作から全く感じられないのがむしろ興味深い。外国の物語を吸収した上で、純粋に風土に根ざした童話を書き、しかしそこには、確かな日々の暮らしの機微の描写がある。年月を経て、「ごんぎつね」は、「LE PETIT RENARD GON」という題で、フランスで出版されているそうだ。向こうの子供達の眼には、この話はどのように映るのだろう。
籐椅子の陰に泣き疲れて眠る 青山茂根
茂根さま
返信削除あまりたいしたコメントにならないので、ひっそり時を稼いでいました。新美南吉がフランス語に訳されているとのと。探して読んでみたいと思いましたが、日本の童話?それはこちらの出版界においてものすごくマイナーな世界で、私の周りで目にした人はいません。読んだという子供に会ったこともありません・・・の世界です。ドラゴンボールを知らない子供はいないでしょうが。
逆に、私は自分の子供に日本語を教えるのにマルセル・エメの「おにごっこ物語」使ったことがありますが、(子供がフランス語で読みそれを一行づつ日本語に訳していくと言うやり方で)私が種本として持っていたのは井伏鱒二訳で、原作より面白い!と感心したの覚えています。つまるところ、翻訳文学は原作を生かすも殺すも翻訳者の母国語の力量です。新美南吉がどのように訳されているか、フランスの子供たちの目にどのように映るか、それは翻訳のされ方次第でしょうね。
匿名さま
返信削除そちらではマイナーなのですね、教えてくださりありがとうございました。
『熊の敷石』という堀江敏幸さんの書かれた話のなかに、
熊にまつわるフランスの寓話が出てくるのですが、
それを思い出しました。
このごんぎつねの裏になるような話なのです。
『ごんぎつね』の仏語訳の本については、新美南吉記念館のサイトからの情報です。