変わらないって何だろう?俳句も文楽も、その発祥は江戸時代の町人文化から。しかし、文楽の近松作品など、世話物の心中話について、現代ではあまりにもボロボロに言われている気がする。そういえば、最近の心中は、親子や家族であることのほうが、実際の事件として多いのだろうか。「感情移入できない」、「主人公は三阿呆の一人」などと言われる『冥途の飛脚』、こんな風にも。
恋の虜となった青年が、思慮の浅さから短絡的な行為を引き起こし、それが周囲の人々を、一気に悲劇に引きずりこむ。すべて忠兵衛に発し、彼は誰をも幸福にできません。愚かさゆえに理不尽な人生を展開させる結末から、人間のある本質を捉えることもできそうです。
(『文楽にアクセス』 松平盟子著 淡交社 h15)
お金もなくて、意気地もなくて、ついついいらない見栄を張り、愛する彼女と理不尽に死んでいく、そんな情けない男が主人公で、・・・。
(『文楽に連れてって!』 田中マリコ著 青弓社 2001)
梅川と忠兵衛が死への旅路を急ぐ様をみても(冥途の飛脚)、心のどこかに冷静な自分がいて「なにも死ななくても、ほかに道はあったろうに・・・」と思ってしまう。
(『熱烈文楽』 中本千晶著 三一書房 2008)
で、先日劇場にて。物語が進行し、たしかに道行になるまでは、心の中で「あ、そこでそれやっちゃまずいでしょ」「わかってるなら、なぜそれを」などと突っ込みつつ自分も見ていた。しかし、道行になると、一転して「あ、仕方ないかもしれない」と思わされてしまう、不思議に。それは、太夫と三味線が道行から増えることによる、音響的な効果によるのかもしれない。この道行を美しくするために、前半までの情けないお話がある、という構造でもあるんだろう。そして、道行を見ることによって、それまでの物語が生き生きと現実味のあるものとして蘇ってくる。とにかく、「出会ってしまった」二人、なのだ。「絶対この人でなくては駄目」「誰にも渡したくない」という唯一無二の心情が、耳から入ってくる語りの情報と、太棹の音色と、眼前に進行する人形たちの姿によって、見ている自分の中で像をむすぶ。忘れていた何かを思い出したように。
というわけで、心中物から現代に通じる精神を探る、現代の俳句シリーズ。
ゆめにみる女はひとり星祭 石川桂郎
恋びとは土竜のやうにぬれてゐる 富澤赤黄男
恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 飯島晴子
くじらじやくなま温かき愛の際 攝津幸彦
黒髪の簪ふかし愛されて 長岡裕一郎
きみ帰すゆうべうすらに星組まれ 長岡裕一郎
後朝や掃きて空蝉崩れざり 小林貴子
手袋も靴下も相手をさがす 小林貴子
ひらがなのやうに男がやってくる 大西泰世
娘あらば遊び女にせむ梨の花 高山れおな
お湯入れて5分の麿と死なないか? 高山れおな
接吻のまま導かれ蝌蚪の国 田島健一
愛かなしつめたき目玉舐めたれば 榮猿丸
ストローを愛したように私を愛す 小野裕三
常闇やまづもつれあふ髪と髪 山田耕司
ダブルベッドてふアメリカや昭和の日 柴田千晶
秋風や汝の臍に何植ゑん 藤田哲史
濃姫の脚のあいだの春の川 中村安伸
自己レスすみません。
返信削除時代物の句ヴァージョン。
夏芝居監物某(けんもつなにがし)出てすぐ死 小澤實
殺(あや)めては拭きとる京の秋の暮 攝津幸彦
などがあります。
青山茂根様
返信削除いつもtwitterでリツイートをしていただき大変感謝しております。ご連絡とりたくお手数ですが、sengohaiku@gmail.comまでメールアドレスの通知をしていただけたらと思います。よろしくお願いいたします。コメント欄に書かせていただきます。 北川美美