2011年11月17日木曜日

― 木の根へ帰る ―

「シノワ?」「チーノ?」と旅先で聞かれると、速攻で否定するくせに(そういうときだけ「no!」ってはっきり言えるのは何故)、現地料理に疲れた胃を抱えて、チャイニーズレストランの看板を見かけると吸い寄せられるように店へ入ってしまう。自分もそんな失敬な一人である。他にアジア料理の選択肢がある場合には、「中華よりはタイだな。」とか「ここはベトナム料理だろう。」などと自分内ランクを動かしまくる、失礼千万な態度。そのくせ、まだ一度もその国には足を踏み入れたことがない、各国の都市にある中華街へはついつい迷いこんでしまうのだが。だって面白いのだ、様々な現地様式に迎合しない、その暮らしぶりが。世界中どこにでも中国人は暮らしている、とは誰が言ったか、本当に南米をバスで旅していても、意外なところで遭遇するらしい。残念ながら南米大陸へも未だ、旅したことがない。

 『風の唐橋』伊藤径氏の第二句集より(角川書店 H18)

  冬ふかし人に木の根の匂ひして   伊藤径

  漢方の根のもの匂ふ雪の果      

  食卓にじやらりと鎖鳥雲に

  老鶯や扇にのこる木の匂ひ

  琵琶売と風の唐橋渡りけり

  七夕や母船へ帰る手漕ぎ舟

  謝謝と身をよぢりたる良夜かな

 木の、根の匂い。日本に暮らす私たちにはあまり日常的に感じられることはないが、あとがきにはこのように書かれている。

 仕事の関係で一年の半分を中国で過ごす日々が続き、生活者として中国の風土と文化に直に接することが出来た。(中略)日本を詠んでもいつ知らず中国が溶け込んでいる句もある。それらは特に区別しない。
                  (『風の唐橋』 著者あとがきより)

 そういえば、自分の家の近所に漢方の専門店らしきものがある。所謂薬局やドラッグストアにありがちな看板やノボリ、広告ポスターといったものが一切ないのではっきりとは言えないのだが、ガラス張りの店の正面の棚には、根っこや何か干からびた物体が入った大きなガラス瓶がいくつも並べられていて、その店が視野に入るか入らないかのうちにあの、独特の煎じる匂いが鼻を捕らえる。どこの国の中華街を訪れても、真っ先に目に付くのはものを温める湯気、そして匂いだ。そこに暮らしてみると、生活に根ざした漢方の、より強い木の根の匂い、を最も強く感じるのだろう。

 「食卓に」の句のように、脚韻が印象に残る句も。その舌に残る音、にぶい響きや言いよどむような趣きは、異文化の中に暮らす人々が持つ些細な違和感や、日常に伝えきれない言葉たちの、澱のようにも感じられる。

 柿本人麻呂の月の舟の歌を想起させる「七夕や」の句には、異国へ向かった移民たちの姿も投影されているようで、その港での様子や、黄河の大きさをも天に映し出しているかと。

  仄かにも栗鼠の尾渡る若井かな

  なまはげのやうな声してお晩です

  雪しろに荼毘の薪舟着きにけり

  ものがたり忘れてさくら咲きにけり

  ちちいろの雲のひろがるかたつむり
 
  靴擦れを草に冷せる日傘かな

  福耳に風ふいてゐる心太

  水鳥の飛び立つ硯洗ひけり

  屋上にドリブルをして月の人

  みんな手をつないで秋のゆふぐれは

  炬燵寝の人はいたこで在らせられ

 中国文化にも文学にも疎い自分には、様々に見え隠れするその風土を読み取りきれず、こうして紹介させていただくのも申し訳ない気がして。しかし、上に挙げたような、日本で詠まれたらしき句にも、異国に暮らしてきたものの眼がどこかに感じられるのだ。他の風土に身をおいてみて初めて、見えてくる差異。新たな目で見る故国。口語的な語り口の句のユーモアと伸びやかな明るさ。「秋のゆふぐれ」の句は、大陸の風景のようで、皆が胸の中に持っている懐かしい日本のようで。伸びてゆく影とともに地球は回る。日は西へ。大陸へ。

  

  

2 件のコメント:

  1. 12月2日号の「詩客」サイトに、10句載せていただいています。
    http://shiika.sakura.ne.jp/works/dec-2-2011/2011-12-02-4242.html

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  2. 現在、紀伊国屋書店新宿店で開催中のブックフェアにて、
    『新撰21』『超新撰21』および『BABYLON』を並べて頂いているそうです。
    文学と俳句、通常語られることの少ない設定で興味深いですね。機会がございましたらお立ち寄りください。
    http://www.kinokuniya.co.jp/store/Shinjuku-Main-Store/20111202100235.html

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