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2011年7月22日金曜日

 ― てのひら ―

 

  掌の釘の孔もてみづからをイエスは支ふ 風の雁来紅(かまつか)
    
塚本邦雄 『星餐図』


 『短歌』誌七月号<技術・方法論「限定・飛躍・異化」>特集の吉川宏志氏「言葉の枠組みを揺さぶる」の中に挙げられていた歌。この震災後に、塚本邦雄の<日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも>(『日本人霊歌』 四季書房 1958)の歌をやりきれない思いとともに脳裏に浮かべた人も多いだろう。ある面、戦後日本の敗戦国としての閉塞感をあらわした歌といわれるが、他にも何か現代への予兆めいた歌をいくつも塚本邦雄は残しているようで、読み返さねば、と思いながら、まだ心の落ち着きが取り戻せていないようでためらう。 

 …十字架の像を詠んでいるのだが、私たちは普通、イエスの受難の場面としかそれを見ることができない。ところが塚本は、逆にイエスが自分の身体を釘によって支えているのだと歌う。まるで体操の選手が吊り輪で自分の身体を支えているように。ここに塚本のキリスト教に対する痛烈な皮肉が込められているのだが、そこまで考えなくても十分におもしろい歌である。
       (『短歌』2011七月号 吉川宏志氏「言葉の枠組みを揺さぶる」より 角川学芸出版)

 自分の身体をこの世に吊り支える、というこの記述に、先日web上で見かけた報道記事が頭の中に蘇って愕然とした。現実は、創作を超える。それを見通すものが、詩歌にある座標軸のひとつだと。


 流された2階で水に漬かりながら壁づたいに外へ出た。つかまる場所を探して、屋根の方を見ると、くぎが1本、柱のようなところから出ている。右手で屋根を抱えるようにして、左の手のひらを押しつけるようにしてくぎに刺し、抜けないようにした。

「そのまま手を下に曲げてさ、手にくぎがひっかかるようによ。つかまるところがないのだもの。流されると思ったからねえ。(攻略)」
     (「産経新聞」 2011/5/20の記事より)











  

2011年7月8日金曜日

 ― らふ ―

 


          らふ               青山茂根


  夏館にも乱れたるひとところ

  逝く人へ水中花ありつたけ咲かせ

  闇知りてより泉への道さがす

  水の皺あり夏の灯を哀しめり

  裸族増えゆくらふそくを揺らしつつ





  





  

2011年6月17日金曜日

 ― 難破した猫も ―

 海綿状の生物にでもなってしまったような日々が続いて、被災したわけでもないのに、沸き起こった無力感と罪悪感にぼーっとしていた。どこかから喝が飛んできそうだが、きっと、そんな人が多かったのだと思う。ふと、手にした古い一冊の写真集は、モノクロの写真と、その場所についての文章が交互に綴られていて、海綿を満たす水のように、様々な報道で疲れた脳裏にじわじわと浸み込んでいくものがあった。

 そのときに思い出したのは、窪田空穂先生がかつて大和に旅してここに立ち寄られ、立派な歌を残しておられたことである。(中略)

 浄見原宮の帝の勅もちて立てし御堂の三つ立てる見つ

 これを表装して床の間にかけ、前に座って眺めていると、私の頭の中には明らかに当麻寺の景がうかび出て来る。
                 (『日本の寺』 「当麻寺の記憶」水原秋桜子 より)

 隆起なくして庭すれすれの石はまだ他にもある。七、五、三の七の5の両側の2である。これも石の数に入れないとすれば、竜安寺の石は3:2:3:2:2となる。目を移して石組にリズムの感ぜられるのはこの数の関係から来るのであろう。

 それに、私は携えて行った縮図に物指をあてがって見た。五つの石群は二つの不等辺三角形をなしているが、五つの石群の距離を左からa・b・c・dとしてあらわすと、a/b=d/cという等値式がなり立つ。石組の配置の美しさはこの数の関係から来るのであろう。
                 (同上 「西芳寺 竜安寺」 山口誓子)

 『日本の寺』撮影・土門拳・藤本四八・入江泰吉・渡辺義雄・佐藤辰三:二川幸夫 美術出版社 昭和44年。目次から<法隆寺・薬師寺・東大寺・唐招提寺・当麻寺・室生寺・平等院・中尊寺・浄瑠璃時・神護寺 高山寺・建長寺 円覚寺・西芳寺 竜安寺・金閣寺 銀閣寺・大徳寺>の写真に、それぞれ先に揚げた水原秋桜子・山口誓子や、井上靖、野間宏、吉井勇、中野重治、佐多稲子などの文章が添えられている。カラーの写真も各寺に一枚ずつ添えられているのだが、なんといってもモノクロの物言わぬ力に圧倒されてしまう。日本人というか、日本に居住している人なら、8割方の寺に一度は、恋人との旅や修学旅行のほんの30分であろうとも、足を運んでいるレベルの有名な寺ばかり。だが、その写し撮られた風景は、ああ、ここ知ってる、という訳知り顔を次のページではっとさせるような、様々なある細部の切り取りが並ぶ。90%シルエットとして捕らえられた法隆寺五重塔の相輪、東大寺大仏殿前の銅灯籠に火の入った夕景、高山寺文覚墓跡の礎盤の溝が切り込まれた石のアップ、大徳寺孤蓬庵門前の石橋を股座から見上げたようなショットなど。カラーの美しさに打たれたのは参道の苔(西芳寺)という、その塀の白さと樹木の陰のコントラストの一枚だった。仏像と寺など建造物の写真は、思いもかけずこういうときの癒しになるのだと改めて感じ入る。自分でその地へ足を運ぶのがベストだが、現代ならそのまわりの無秩序さや猥雑さが目に入らない行程はありえない。過敏になっている神経に、旅先でのちょっとした不都合や人との関わりがいつもより痛手となって響くこともあって。ずしりとした、大きな版型の本だが、紙媒体で残す、ということを考えさせられた一冊だった。なんだかぼんやりしていて、という方にお勧め。最後に、猫好きなら見逃せない一文を。

 あらしのあとの由比ガ浜の砂の中から、そのころのシナから船が運んで来た宋の青磁の破片が今でもおびただしく輝き出ることや、横浜の金沢区に三艘(サンゾウ)と言う名の唐船が三艘来た場所の地名が残り、昔、宋の船が来たころに、渡って来た猫が「かねざわ猫」と名付けられて、現代のシャム猫のように珍重された話など、六世紀も七世紀も昔の古いことだから面白いのである。 
                  (同上 「山内雑感」 大佛次郎)




  まなうらの都市蟻塚は流されず      青山茂根



2011年6月3日金曜日

 ― はさみ ―



 白い衣装をまとっているこの女神たちは、クロノスのむすめでも、妖精でもなく、夜から生まれてきた姉妹だった。ときどき、彼女たちはやせた手をのばし、とがった指先で前にあるふしぎな道具をなでた。それはつむぎ車と、ものさし、そしてはさみだった。
      (『ギリシア神話物語』 リアン・ガーフィールド&エドワード・ブリッシェン 小野章訳 講談社 1975)

 ギリシャ神話に登場する、運命をつかさどる三人の女神。盲目で、やせぎすな、無表情のまま人々の命の糸を操る女神たち。そのうちのひとり、アトロポスは、運命の糸を断つ。そのはさみは、ずっと和鋏、握り鋏の形をしていると思っていた。一枚の鋼鉄をU字型に曲げて、両端についた刃を合わせて使う、あの鋏である。切るときに一度指を開くというアクションのいらない、冷酷無比に人間の運命を断ち切ることの出来る女神のはさみ。古代の鋏は、そもそも握り鋏の形であったそうで、今日常に用いられている洋鋏のほうが後に出来たということだから、ギリシャ神話の時代設定には、握り鋏の形が正しいのかもしれない。幼い頃、母が多少の縫い物をするときの、小さなフェルトや糸を切るときの握り鋏のあの歯切れのいい音、それが何か運命の糸を断ち切る音のように思えたのか。大きな布を裁つときに使うのは、ラシャ鋏と呼ばれていた洋鋏で、子供にはよく切れて危ないのと布以外のものを切ると切れ味が鈍るからと触らせてもらえなかったが、時折母の目を盗んで工作をきれいに仕上げたいときなどにこっそり使っていた。(今さらながらごめんなさい、である。)
  
 その母の針箱の中に、といっても木製の大きな裁縫箱はほとんどいつも押し入れに仕舞われたままで、普段手元で何やかや繕ったりに使われていたのは、小さな籠や、お菓子の空き缶などだったが、そんなクッキーやゴーフルの缶の模様や籠の手触りを今もよく覚えている。その中に、ごく小さな、市松人形の手には少しあまる位のサイズの和鋏、つまり握り鋏があった。他にも、全長10センチや15センチくらいの、黒イブシやみがきの和鋏もあったのだが、最も小さい、全長6センチにも満たないほどのその和鋏が私は好きで、よくいじらせてもらっていた。母が何かしているそばで、ちょっと糸を切らせてもらったりするくらいだが。子供の小さい手によくなじみ、また、極端に小さいものは何か収集癖を刺激するせいか。割と大きな、母の手には使いづらかったのか、あるときねだったらすんなりそれを私の針箱に移してくれた。以来ずっと、糸切りにはその鋏でないと何か落ち着かなくて、実際、片手に糸を通したままの針を持ちながらもう一方の手でさっと取り上げて糸を切るには、この和鋏、握り鋏の形状のほうが指を通して持ち上げるという手間がなくてスムーズなのだ。その、極小の、握り鋏があまりに使いやすいので、なくしたときのためにもうひとつ、と思って店などをのぞいたときに探してみるのだが、全長6センチ以下、刃の部分が2センチというものはなかなか見つからない。思い立って、その黒イブシの小さな鋏に刻印してある店の名、木屋へも出かけて聞いたことはあるのだが、今はもうその大きさは作っていないそうだ。その少し上の、全長7.5センチというものが現在は最小らしい。手になじんだ道具は、ほんの1センチの違いが随分使い勝手に影響するのだが。ふと、自分が今これを無くしたら、ずっとずっと探し回るのだろう、という気がした。



  ゆくへ、ゆくへ、ゆくへ、六月、雨、ゆくて     青山茂根



2011年5月27日金曜日

 ― 檜物町 ―



  袋掛済みたる木々へ泣きにゆく       青山茂根



 小村雪岱の随筆、『日本橋檜物町』のこれは初版だろうか、元は和綴じだったものを洋綴じに仕立て直した、原稿用紙様の縦罫に印刷された一面をそのまま折にして綴じてある、いわゆる袋綴じを切らない体裁のものを図書館で見つけた。頁をめくると、和綴じの丁寧な目打ちの跡がそのまま、奥付には、「昭和十七年十一月二十日發行」とあり、定価は三円八十銭。発行所は東京市本郷区切通坂町十二の、「髙見澤木版社」とある。

 扉の次には、多色刷り木版の女の絵が一枚。これだけの年月を経ていても、みずみずしく引き込まれる美しさで。随筆も、東京の、ところどころの、古い町並みや人々や風俗の描写が鮮やかで、しばしその時代の水の匂いにタイムスリップしてしまう。その中の『春の女』という一文、初出の掲載は、「東京日々新聞 昭和九年四月」ながら、ふと、現代にも変わらぬ情が描かれていてはっとする。

 ・・・御堂の縁に若い女が寝てゐるのです。こちらへ背を向けて襟足を長く出して前屈みに倒れた様に。薄色の着物に白地の帯が眼につきました。病気か、泣いてゐるのか、前へ廻つてそれとなく見ますと頬を縁へつける様にして指の先で縁板へ何か書いて居る様子でありましたが私を見ると顔はそのまゝにして眉を顰めて眼だけ笑ひました。
 逃げる様にしてまた本堂の方へ廻る、年は二十か一位、非常に色の白い切れの長い大きな眼に締つた小さな唇が眞紅に見えた。咄嗟に埃及古畫の女の顔に似てゐると思ひました。(中略)・・・何時帰つたか姿はありません。気は咎めましたが何が書いてあるか見度くなりましたので縁へ近寄ると古びた板に錯落たる爪の跡が見えます。文字の様でありますから更に近く寄つてよくよく見れば
   靑天白日覓亡子
   白日靑天覓亡子
   靑天白日覓亡子
        (『日本橋檜物町』 小村雪岱 髙見澤木版社 昭和17年)一部旧字体が出なかった部分あり。

   
  

2011年4月29日金曜日

 ― vol.2 ―

 風化しなくて残れば詩だと思いますけどね。例えば、HIP・HOPで言うと、POPに寄り添って沢山売れた人をセルアウトといって批判する傾向があります。それは僻み根性と見られがちなのですが、違うと思います。すごく売れてても叩かれない人もいるからです。
   (「佐藤雄一 ロングインタビュー6000字 あなたを詩人に」 から 詩人佐藤雄一氏の発言)

 『傘(karakasa)』vol.2は「特集 ライト・ヴァース」。なんといっても、この佐藤雄一氏のインタビューに啓発されるものが大きかった。詩(の必然性)を、思い出させてくれたものとして。<自分の言葉が不確定性にさらされつつも、あなたの記憶に残る手ごたえがえられたときは、それは、自分が消えた世界でも残るかもしれない物質性なのかもしれないですね。> 先人たちの積み上げてきた言葉、俳句たちが無数にフラッシュバックする。中表紙の白い壁の背景に抜ける青空のように。

 中山奈々氏のエッセイ「傷談義」も、いい位置に挿入されて効果的。はるか彼方から近づいてきた何かが、見事な着地を見せる文になっている。こうしたやわらかな把握から真実に近づく俳句の周辺も、楽しい。

 越智友亮氏の総論「俳句におけるライト・ヴァース」はなかなかの力作だが、私も上田信治氏の投げかけ<俳句から、季語のコノテーションと文語的言い回しを切り離して、浮力を得るつもりらしい「傘」の中の人に、感想を聞いてみたい。>に大きく頷いてしまう。俳句におけるライト・ヴァースの定義付けには、もう少し口語俳句を歴史的に広範囲にさかのぼった裏づけも必要かもしれない。<季語を言葉として捉えなおす(中略)それが現在のライト・ヴァース>、と述べられているが、むしろ言葉の不連続性、言葉が歴史的に背負ってきた記憶を一度消し去って現代に構築しなおす試みがライト・ヴァースなのでは、と私はおぼろげながら思う。俳句甲子園以後の俳句の様相にライト・ヴァースを見るというよりは、それを語る越智氏自身の句がもっともライト・ヴァース的光彩を放っている、とも。<ひまわりや腕にギブスがあって邪魔><挙手つまり猫背ではない秋の空><新緑のホースの巻きかたに迷う>(『セレクション俳人 新撰21』 越智友亮「18歳」100句より 邑書林 2009)。 言葉に負荷をかけない、意味内容が軽いというよりは無重力性の俳句、それを牽引していく先陣に立つ一人は、恐らく越智氏だろうと。一方、藤田哲史氏の句はライト・ヴァース的でないところに惹かれるのだが。

 ただ、白泉の戦争俳句は文語でもつくられていたのであり、本来はむしろ文語・口語という振り幅のなかで形成されていった白泉の戦争俳句群に通低する精神をこそ見るべきであろう。さらにいえば、戦争を詠むときに文語と口語を使いこなしていたという白泉の柔軟な表現力を見るべきであろう。

 外山一機氏「白泉のライト・ヴァース」から。<文語・口語の領域を行き来することのできる白泉のライト・ヴァース>、ちょうど更新されていた『千堀の投句教室575・別館 飛び込め!かわずくん』 の文語・口語俳句の定義と脳内リンクして、俳人たちの習性に思わずにやりとしながら、共感するところが多かった。現在の、震災俳句と呼ばれるものとも、少し絡めあわせつつ。『傘(karakasa)』という俳句誌自体も非常にライト・ヴァースな立ち位置だなあ、などと羨ましく。

2011年4月8日金曜日

 ― うろくづと海 ―



 歌人である高木佳子氏の個人誌『壜 #02』から。


  すきとほるうつはにみづは充ちてゐて泡のひとつのひかりしろがね    高木佳子


  いちまいの花びら咬みて小鳥あそびそのはなびらのあまたなる傷


 「こゑ」9首から。シンプルながら瀟洒な作りの個人誌。なかなか俳句では見かけない気がするのは私が知らないだけだろうか。表記の美しさと、調べのなめらかさに和む。地震の前に発刊準備が進められていたという、次は「poule au pot 鶏のポトフ」10首。ポトフの作り方を歌の調べに載せつつ展開していく世界。


  鶏はおお、雌鶏だった、藁のうへたまごを想つてゐるはずだつた


  にんじんは芦毛の馬が駆けるときひづめの音を聴くはずだつた


 予定調和ではあり得ない世界の悲しみが浮かび上がり、静かな言葉の裏にほんの少し覗くシュールな現実。311、を過ぎた今読むと、様々な思いが「鶏」や、「たまご」や、「にんじん」、「馬」といった言葉に付随してしまう。意図せずにして詠まれた歌であるのに、ページをめくるとき読んでいる我々の周りには被災地の現実はないのに。得られた情報によって言葉も、いかに痛手を負っているか。ただ読み手の頭の中でのみ起きていることかもしれないけれど。


 実際にいわき市在住で、被災されライフライン復旧後も、日々屋内退避圏に近い地で事故の推移を見つめている著者の言葉が、別紙にて添えられている。その、「見よ」7首のうちから一首。


  うろくづはまなこ見開きいつの日かわれらが立ちて歩むまでを 見よ


 巻末の一首。共感と愛惜と。その海を臨む丘の景色。自分が幼い頃に見ていた海はいま。


  海を見にゆかないのですか ゆふぐれを搬び了へたる貨車がさういふ      


2011年3月25日金曜日

― 食べる ―

 

  語らないこともれくいえむのひとつ。

   

 さて、加藤静夫氏の句集『中肉中背』より。

  水飲むに起出す闇や桂郎忌        加藤静夫

  炬燵より出てねこは猫ひとは人

  歌舞伎座が目の前にある暑さかな

  めしちやんと食つてぽんぽんだりあかな

  日の丸の突き出してゐる道の秋

  怪獣の背中が割れて汗の人

  電球にかるくしびれて冬はじまる

  雛の家とは天井の低き家

  歴史には残らぬ仕事着ぶくれて

  世直しの如く撒水車が行くよ

  食つてから泣け八月のさるすべり

                    (以上、「中肉」篇より)

  石鹸玉消えたる電波込み合へる

  持たされし汗の携帯電話かな

  質問がなければ飯や雲の峰

  ごきぶりの畳の上の死なりけり

  差込を抜いて聖樹を黙らせよ

  五十音順にプールへ放り込む

  乗り換へて乗り換へて太宰忌のふたり

  始祖鳥のこゑを思へばしぐれけり

  万歳を三唱したる暑さかな

  春もやうやう机と机くつつけて
                    (「中背」篇より)
         (『中肉中背』 加藤静夫 角川書店 平成二十年)

 ユーモアの中に、言いようのない悲しみが。どこかに、戦後の匂いがして。「水飲むに起出す闇」に何を見るか。「めしちやんと食つて」の句に、今現在起きていることに通じる何かが。「食つてから泣け」の世界も。八月のあの記憶を呼び覚ましつつ、レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』と同じ悲しみ。「万歳を三唱したる」は言うまでもなく。現実を見つめる冷めた視線と、流れ落ちる汗。刹那と、彼岸と此岸。

 ・・・「何か召し上がらなくちゃいけませんよ」とパン屋は言った。「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べてください。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、物を食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」と彼は言った。
 (中略)彼は二人がそれぞれに大皿からひとつずつパンを取って口に運ぶのを待った。「何かを食べるって、いいことなんです」と彼は二人を見ながら言った。
     (『ささやかだけれど、役にたつこと』 レイモンド・カーヴァー著 村上春樹訳 中央公論社 1989)
  

    

  

2011年2月25日金曜日

 ― 鏡花の匂い ―

 

 
 『塵風』第3号より。

  柿むきし僧のその嘘子規向きか    井口吾郎      (回文俳句!)

  整然と脳より大き菊の花         井口 栞 

  修道院すんでのところまで十薬     笠井亞子

  石ころに小鳥の温みありにけり     小林苑を   

  厳冬の聖書獣のごと臭う         斉田 仁

  巨大なる国旗そのほか驟雨来る    長谷川裕


  寫樂づら下げて大川梅雨深し      閒村俊一

  サルビアと国旗と暮れてゆく椅子と  村田 篠

  鯉のぼり厠の窓で目が合いし     桃 児  

 -カバット ・・・ドナルド・キーンがどこかで、泉鏡花の文章を分析していて、非常に難解な文章で、と説明したとき、ある人に、じゃあ、泉鏡花の文章がいやですか、と訊かれて、いや、嫌いじゃない、そのために日本語を勉強してきたんですよ、と答えたんです。だからといって、ドナルド・キーンが翻訳している泉鏡花の文章なんて、ひとつもない(爆笑)。

 「アダム・カバット インタビュー 日本語・英語・翻訳・文体―泉鏡花その魅力」の記事、アダム・カバット氏の発言より。俳句雑誌に突然の泉鏡花出現におおっ!となる。とにかく面白いインタビューだった。この「芸術新潮」小村雪岱特集号、図書館でチェックしたあと買おうと思って忘れてた、バックナンバーあるかなあ、などと多方面に。そういえば、以前泉鏡花にはまって多少読んでいた(全部ではない)。読んだ内容は大方忘却の彼方だが、蜂蜜漬けのまま数千年を経てきたエジプトの赤ん坊のミイラのように、ねっとりとその文体と言葉に浸るあの感覚。今までことあるごとになぜ自分が俳句やっているのか不思議だったのだが(だって詩も俳句もほとんど読んだ事なかった)、そうか、鏡花好きだったからか、とようやく合点がいった。アクロバティックな比喩や、マトリョーシカ状になった話の構造、結論が出たんだか出ないんだかはっきりしない終わり方など、確かにある種の俳句、的な要素が泉鏡花の小説にはある。自分が好きなタイプの俳句にもある同じ匂い。人が多く集まる席で、同じ匂いのする誰かをいつも探しているように。

 泉鏡花原作の映画といえば、なんと言っても(リンク先、ネタバレ注意)『夜叉ヶ池』(監督 篠田正浩、1979年)を挙げたい。主演が坂東玉三郎、ちょうど男盛り(女形盛り?)の芸にも女形っぷりにも油ののっている時代に撮られた映画だ。原作を先に読んでしまうと、映画化された作品にはどうしてもけちをつけたくなってしまうが、この映画はまた少し違う。シーンによってはB級と言える場面もあるが、原作が突拍子もない部分なので仕方ないか。玉三郎の役も、歌舞伎の舞台と違ってやはりスクリーンだと完全な女とはいかないが、見終わっても映画の世界にがっつりと身も心も奪われていて、なかなか席を立てなかった覚えがある。もちろん、私がそのころ歌舞伎の玉さまに入れ込んでいたためもあるけれど。鷺娘の妖艶さともまた少し違う、むしろどこか中性的な雰囲気がかえって鏡花作品に合っている印象だった。訳あってDVD化が難しい作品になっているらしいので、名画座かフィルムセンターかどこかでかかっていれば。とか書いていたらまたむずむずと鏡花を読みたくてたまらなくなってきた。とろりとした、壷の中へ。










   (参考までに『Yashagaike(Demon Pond)』で検索すると一部映像が探せます。)

2011年2月18日金曜日

 ― 『新撰21』と『超新撰21』から <1> ―

 スロウペースながら、これから時折、一昨年末刊行された『新撰21』と、昨年末世に出た『超新撰21』から、それぞれ一作家づつをピックアップして、読んでみたい。特に何か共通項を探すとか、比較対照するわけではなくて、ただそのときの気分で。その日見上げた雲の行方のように、どこへ向かうかわからないけれど、何かその句たちの持つ空間を、少しでも誰かに伝えられれば。

 今回は偶然、どちらも天為という結社に所属する方たち。このお二方とは本でお名前を拝見したのが初めてだが、まだ俳句を始めて数年といった頃に、結社を超えて人が集まっていた句会で、よく天為の若手の方々とご一緒させていただいた。様々な句柄の方たちが、活発な合評を繰り広げていて、その頃の自分にとって得るものの多い濃密なひとときだった。近所の、時々勉強を教えてくれたお兄さんお姉さんに対するような、懐かしい気持ちが今もどこかに。昨年末の超新撰21の集いで、偶然その頃の方に久しぶりにお会いできたのも、不思議な縁と思える。

  土色の足跡ありし四温かな       五十嵐義知

  流域に寺町のあり更衣

  木製のはね椅子たたむ秋の声

  鉄塔を残すばかりの刈田かな

  六つ目の大陸に着く絵双六

  野の音のことごとく雪解かしけり

  物干しにとりのこしある残暑かな

  秋涼し東へ続く廊下かな

    (『セレクション俳人 プラス 新撰21』 邑書林 2009)  

 『水の色』五十嵐義知氏の100句から。風土性、客観描写の確かさ。「流域に寺町のあり」の着眼のように、そこに綿々と続いてきた人々の営みを感じさせて。しかし、古びた印象を感じさせないのは何故か。
例えば、「刈田」を読むにしても、「鉄塔」のほうへわずかに比重が置かれているからだろう。
「土色の足跡」にも、そのころのぬるみ始めた道をさりげなく描き出して、ゆるぎない季節感がある。
「六つ目の大陸」の華やかな句にも惹かれる。もっとこの作者のこうした句を読んでみたい。言葉の的確な省略のセンス、大胆な把握の句をさらに見せて欲しいと思うのは読者のわがままだろうか。
そして、「野の音」が「雪解け」を呼び出すように、「残暑」がとりのこされているかのような名状しがたい空気感を描き出す資質に、より自覚的でもよいのでは、という気もする。端整な詠みぶりの一方で、そんな句もぜひ、とリクエストしたくなる作家なのだ。 未だ訪れたことのない地の雪を、川の蛇行を、我々の前に映し出して。


  遠ざかるものみな青く五月尽      久野雅樹          

  春一番ゴッホの杉の巻き始む

  ぼろ市を見終えてセブンイレブンへ

  冷すもの牛にはあらでコンピュータ

  天の岩戸開けば暑きこともあらむ

  めぐるものあり大試験見守れり

  ここにまた生老病死冷蔵庫

  バカボンもカツオも浴衣着て眠る
    (『セレクション俳人 プラス 超新撰21』 邑書林 2010)

 『バベルの塔』久野雅樹氏の100句から。知性に着グルミを被せたような、綿密に計算された言葉で構成されている。依光陽子氏の小論のタイトルにあるハジメちゃんとはまさしく、恐るべき知性を包む柔らかなユーモアを表して。
「ぼろ市」「冷すもの」の句は、その諧謔性に目がいってしまいがちだが、ぼろ市に実際でかけてもマニアックな古道具屋が店を連ねている、といった風情で、真空管のパーツとかその筋に興味のある人でなくては触手の動かないものばかりだ(理系の知人は、ぼろ市でエアコンの送風部分のパーツなどを見つけてきて、温度センサーを備えた天井のファン装置をこしらえていた。天井付近の温度が上がってくると自動的にファンが動き出し、室内の温度を一定に保つという。凄い。よくぞあのガラクタの中から)。市につきものの飲食物の屋台も意外に少ないわりに、やたらと延々古道具屋が続くのを、ついコンビニに立ち寄ってしまうおかしさ。
「冷すもの」の句は、絶滅危惧種の季語である「牛冷す」という言葉を解体しつつ、現代の都市に暮らす真夏の風景を描き出す。
「ここにまた生老病死」の、シッダールタ王子の出家の原因となった逸話を「冷蔵庫」に取り合わせる構成の力。たくさんの死が詰まった白い扉。日々その前に立ち、その門を覗き込みながら、こちら側の人間もいつか老い、その扉の前に死にゆく。現代社会の都会における孤独死の傍らに、物言わぬ冷蔵庫が。
「バカボンもカツオも」、巷には現在の総理の顔を知らなくても、このキャラクターたちは指で示せる、という人も多いだろう。ギャグ漫画の急速な普及は、その影に戦後の高度経済成長があり、一億総中流と言われた昭和を象徴するものだ。この句に描きだされた昭和は、浴衣というものを用意してくれる祖母や母の姿をも想起させ、現在の、核家族からさらに孤へ分散した人間関係をあぶり出す。


 如何に前のものを引き受けて、どう次へ変化をさせてきたか、これが伝統というものの内部の力だと思うんです。前から伝えられたものをそのまま受け継ぐのではない。 (後略)
  
(「円錐」第48号 <検証・昭和俳句史Ⅱ―昭和の俳人1三橋鷹女 上> 山田耕司氏の発言から 2011年1月)



 



  

2011年2月4日金曜日

 ― 伝書鳩のゆくえ ―

 夕方の空が、潤んだ明るさを含んだまま暮れてゆく日は、もう本当の春が近いように。暦の上で立春を迎えても、まだ雪や政治の闇に閉ざされているところも。そんな、遠い地に思いを馳せる、というより幽体離脱のように気持ちだけがあちこちへ飛ぶことの多い一週間が過ぎた。そんな人が、きっと多かったはず。

 衛星放送局Al Jazeeraがエジプト情勢を世界中へ配信したリアルタイムの映像、それを見た人々の反響を、Twitterで知る(そのときテレビは何をしていたか?何も映しちゃいない)。イタリアのチームへ電撃移籍を果たしたサッカー選手の速報(自分の好きなチームの選手だったのもある)、そしてその選手へ宛てたイタリアの一市民の手紙は、Facebookで話題になり、翻訳されたものが日を置かずTwitter経由で届けられた(翻訳した日本人の肉声で読み上げられたものだった)。JR北陸本線で、複数の特急列車が大雪で立ち往生し、多くの乗客が2日間を列車の中で過ごす、そこに閉じ込められて2日目の夜を迎えていた歌人の方がひとり。その書き込みを読んだ或る歌人の方の呼びかけで、Twitter上に励ましの歌が同じハッシュタグを使って寄せられる(これはすでにまとめられ、後からでも読めるようになっている)。全てがTwitter上を絵巻物のように展開し、リアルタイムに反応が起こり、様々な思いが駆け巡っていった。近くに行って何かをすることはできないけれど、綴られた言葉に現状を思い浮かべ、言葉に想いをのせて書き綴る、その力強さ。自分はただ無力に、PCの前に座っている一人ながら。

  この腕を離せば誰かを噛むゆゑに
       もがくひとりの自由を奪ふ  小早川忠義     

  見えぬ眼を見開く時に青年は
       伝へられざる怒りあらはす     〃

  歩めざる足もたくまし意に添はぬ
       靴を飛ばして弧を描かせつ     〃

  足元の鳩一斉に飛び立てば
       つひにつかめぬ こころと知れり   〃

    (『シンデレラボーイなんかじやない』 
            小早川忠義   邑書林 平成22年)


 頂いた歌集から。短歌のことをあまり知らなくて、ただ惹かれた歌を挙げさせて頂いた。この一連の歌が、どのような状況で詠まれたものかの説明はないのだが、なんとなく、そのとき詠み手の従事していた仕事場が思い浮かぶ。そこに暮らす人々の、声にならない訴えのような感情も、動作に籠められた思いも。これも言葉の力か。あとがきには、この歌集が、出版元の人間と、<「ツイッター」にて相互フォローの関係にならなければ実現しなかった>と書かれていて、うーん、現代に暮らす人々の交流ってつくづく不思議なものだ、と。現実に会ったことはなくても、ときに寄り添うような言葉を媒介にした繋がり。手元から飛び立つ鳩さながら。

2011年1月13日木曜日

 ― ハチャメチャの裏側 ―

 松の飾りも取れぬうちから、今年は久しぶりに歌舞伎を見に出かけた。国立劇場で上演中の「四天王御江戸鏑(してんのうおえどのかぶらや)」、初演以来200年ぶりの復活であるうえに、ぎりぎりまで台本や演出に菊五郎一座の手が加えられていたとかで、詳しい筋立ても評論家始め外部の人間には幕が開くまで知らされていなかったらしい。正月の興行は、華やかな仕立てで、時にその時代の流行ものや風物などを持ち込んだ演出がなされ、笑いを仕掛ける要素も多い。以前私が見たものでは、当時話題になっていた「エリマキトカゲ」のユーモラスな着ぐるみまで芝居に登場したことがあった。役者同士が、お互いの私生活の話などを台詞にアドリブで盛り込んで、事情を知っている客席の笑いを取ることもある。

 今回の芝居は、宙乗り(それも役者を違えて2回!)、せり上げ・下げ、すっぽん(花道の途中に開いた切穴)からの登場・退場、回り舞台、花道での立ち回り、大蜘蛛の仕掛け、切腹に濡れ場、大立ち回り、押し出し、正月恒例の手拭い撒きと、まさしく歌舞伎の要素てんこ盛り。外国人の客も多く(彼らは誰も居眠りしていなかった、そこが日本の慣れた客と違う)、海外からの旅行者などには見所の多い、めくるめく展開の芝居だったろう。さらに、今時の歌と踊りを梨園の御曹司である幼い役者たちが丈の短い今風の着物で披露し、バラエティ番組に良く出ている人物に扮した役者が舞台に闖入してはちゃめちゃに幕が引かれるという場面も。芝居の出来うんぬんを言う批評もあったようだが、これぞ初芝居、というものだった。少々大騒ぎのし過ぎ、ともいえる舞台の華やぎを眺めながら、正月興行というものは、年末年始の働きを終えて、ほっと一息ついた女たちが出かけるものでもあったのだろうとはっとする。日常を離れてつかの間、心ゆくまで笑いあう女たち、ここ数年、多少は正月の支度などをするようになった自分にとっても、それはしみじみと感じられるものだった。といっても、昔の女たちの台所その他の大変さにはとても及ばない、ひよっこのような支度しかしていないのだが。

  芝居見に妻出してやる女正月     志摩芳次郎  
         (『合本 俳句歳時記 新版』 昭和49年 角川書店)


  初夢のなかをどんなに走つたやら   飯島晴子
                   (『儚々』 平成8年)

 正月といえば、真っ先に思い出す句のひとつ。「初夢」の季語は、「雪女」や「狐火」などのように空想上あるいは現実にあるものでないため、どんな言葉をおいても割と収まってしまう。先に挙げた歳時記にも、<初夢にみしエジプトの涙壷  黒川路子>という句が載っているほど、大概のものは詠み尽されているようだ。飯島晴子の句のように、どこかに夢を見ている作者と現実世界との繋がりを感じさせるものに私は惹かれる。そこに現実生活で感じている息苦しさ、切なさが、痛いほどに胸にせまる。走り終えたあとの、滑稽なほど乱れた髪や荒い息遣いは、「おもしろうてやがて悲しき」という心に通じているように。正月の句はめでたさがどこかになくては、ともいわれるのだが、二日からの駅伝中継が正月の欠かせない風物であることも、この句には少し入っているのかもしれない。芥川龍之介の句、<元日や手を洗ひをる夕ごころ>に見られるめでたさの中のほんの僅かな空虚さ、日常のつましさ、そんな現代の心情を多少推し進めた句だろう。


  初夢の大道具類押し去り闇       中山 泡


 この正月の間に、Twitterで流れてきた句。NHKラジオ第一の俳句番組に投稿された句であったようだ(webサイトで確認すると表記が違う。印象に残った句だったので作者を探して確認したら、やはりtwitter上で見たとおりに本人から訂正依頼があった。ちなみに「中山泡」は、生駒大祐氏の投稿名)。句意をそのままに読めば、夢の中に出てきた場面転換の一シーンを詠んだものか。しかし、中七下五の句跨り、押し去るという動詞を流して、闇、と受けた名詞で言い切ることで、何か大きな物体の移動するさま、その力の働く方向を生き生きと描き出す。回り舞台が動き出し、その暗闇の中で力を込める裏方の人々。大道具、という言葉に、一抹の寂しさがあることも忘れてはならない。舞台上での眼に見えないヒエラルキー、それぞれがお互いの仕事に敬意を持ち、それぞれ誇りをもって舞台を勤めるのだが、スタッフ表の名前の記載などには厳然とある順列。仕事で撮影現場などを経験してきた私としては、江戸期なら当然過ぎて誰も感じなかったであろう空気感を思う。また、作者が意図したかどうかはわからないが、この句から私は、夢を見ている浅い眠りから深い眠りに移るときの、一瞬の脳裏、ふっと暗転する意識を連想する。一晩でひとつの夢だけを見ていることは少なく、人は大概浅い眠りと深い眠りを交互に繰り返していると云う、その浅い眠りのときに夢を見るのだと。見ていた夢を手放す瞬間、それを表現している句だとしたら、やはり現代でしか詠めない俳句というべきだろう。



 





    

    

2010年12月31日金曜日

 ― アンドロイドの眼 ― 

 

 『アンドロイド情歌』より。倉阪鬼一郎氏の第四句集。

  根雪その中心にあり赤い靴       倉阪鬼一郎

  さんたまありや草笛の唇の血よ       〃
   
  あれは眼球? 八月の凧を揺らし     〃

  菊師来て少しうごかすわたしの目    〃

  七日なれば儚きものとすれ違ふ      〃

  左右対称少し狂ひて春の闇        〃

  名づけることのやさしさすべて夏の星  〃

  鳥をさがす鳥籠のゆめ鳥籠に        〃

  さみだれのみだれてななめ ななめ あめ 

  手毬つくその塩の手で塩の手で       〃

  籐椅子の軋まぬ人と海を見る         〃

  天使みな死せるまなこやクリスマス    〃  

 同人誌が届くと、いつも真っ先にその頁をさがしてしまう作家のひとり。その独特の世界観に、時間の感覚を忘れて魅了されてしまう。<怪奇小説をせんじつめれば俳句になる、すべての怪奇の道は俳句に通ず、というのがかつてのささやかな主張でした。> と「あとがき」には書かれている。その特有の言葉、リフレインと韻、一字空けの的確な使用。この句集から語彙を拾ってきて、俳句生成装置に入力すれば、果たしてアンドロイドが詠んだ句が出来上がるのだろうか。アンドロイド、女性の形をしたそれは、ICカード(チップカード)を背中から抜き出せば、それまでの全ての記憶を失って、また新たな記憶のカードを埋め込んだ男の意のままに。そんな風に句が詠めれば、と少し羨ましく。
 
 「鳥をさがす」や、「手毬つく」の句からは、共に句座を囲んでいたという攝津幸彦氏が偲ばれて、同時代の、同じ瞬間を共有したものだけが持つ眩しさを感じる。口承性にも、かなりの注意が払われている句が多く、それも攝津氏との接点かと思う。

 日常のなりわいとしている散文では、いやおうなく書かざるをえないのですが、俳句はいかに「書かない」かをむねとしているつもりです。               (「あとがき」より)

 書こう描こうとしている俳句、確かに多いのだろう。自分もときにその穴に落ちてしまう。忘れがちなひとつを、新たな年へ向けてここに。

 この一年間、haiku&meにお付き合いくださりありがとうございました。来るべき年が、皆様にかけがえのない日々となりますよう。ゆっくりですが、また更新を続けていきたいと思っています。         青山茂根                           



  

2010年12月17日金曜日

 ― バラバラ ―


  短日の印度孔雀のうらにまはる     青山茂根 



 サンタクロースは、袋をふたつ持っているのだと信じていた。グリコのおまけのように、男の子用と女の子用の。25日を過ぎて、近所の男の子の家に行くと、なぜか増えている鉄道模型の車体や、パーツや、小さな緑の木。それがサンタクロースによるのか父母かおじいちゃんおばあちゃんからなのかは聞かなかったが、姉妹のみの自分の家にはついぞ届いたことのない贈り物だった。

 デパートのおもちゃ売り場へ連れて行ってもらうことがあると、まず、ガラスケースの中に恭しく並べられているジオラマのパーツのところへ向かう。磨かれたガラスに両手と鼻の頭をくっつけて、その微細に、精巧に作られた駅のベンチや、通勤客や、踏み切りの信号を眺めていたものだった。あれが欲しい、と言っても、これは鉄道模型に使うものだから、と諭されて、さあ、行こう、と手を引かれてしまう。小さいのにとても高いものだ、ということは子供心にも感じ取られて、それ以上ねだってぐずることも出来ずにその場を離れるのだった。

 大きくなって、家に子供という存在が増えると、一歳のクリスマスには真っ先に、自分が買いたくてたまらなかった、木のレールと電車のセットを置いた。ついにその日が来た!という感じである。それは女の子だったが。幼いころからの刷り込みは功をなすものか、電車でよく遊ぶので、またどんどん車両やパーツを増やしていく。いや、親が嬉々として遊んでいるから真似をしただけか。ものが増えていくから遊ぶようになるのか、ベビーカーに載せると下を覗き込んでばかりいる子供だったせいかもしれない。いったい何を、そんなに危なっかしいほど頭を出してじっと見ているのか、と思うと、ベビーカーについている車輪だった。車輪の回転が興味を引くものらしく、出かけている間中、飽かずそれを眺める。しかし、わりとその手の子供はよくいるようで、丸い輪と、回転運動、が脳のどこかに訴えかけるのか、などと空に弧を描いている観覧車を見て思う。  

 その次に男の子が家に登場すると、自分の欲しい願望に拍車がかかり、ネットで専門店を検索したりオークションに手を出してさらに次々と車両やらレールや方向転換器や駅や車庫が増えていった。もっともすべて木製のものとNゲージだけで、もう少し大きくなったらゆくゆくは鉄道模型を揃えていくのだ、と一人でわくわくしていた。しかし、男の子というのは、破壊と分解のためにある生き物だったのだ(そうでない子もいて羨ましい)。ある日気づくと、ミニカーの車輪を外してどっかにやってしまっていて、がーん!だった。それからはもう止める間もなく、ちょっと静かにしているなと安心していると、トラックの荷台は外す、はしご車のはしごはばらばら、オルゴールの取れるパーツはすべて消えている、といった具合だ。組み立て直せば、と思うと、すでにうっかり自分が掃除機で車輪を吸ってしまったりしたあとだったりして、目覚まし時計や懐中電灯など、ばらばらにされて困るものは手の届かない高いところにおくしかないのだった。

 さすがに近頃は、黙って分解するということはなくなり(まあそのたびに私が怒ったからだろう)、壊れたり点かなくなったノベルティもののライトやブザー、腕時計などを見つけると、もらっていい?と一応聞くようになった。まあこれならいいか、と許可を与えると、嬉しそうにばらばらにして、また組み直したりしているのだが、元どおりには絶対にならない。元どおりになるのなら、そろそろ鉄道模型も、と思いながら、もう何年も経つ。

2010年12月10日金曜日

 ― 冬のドア ―



  苔の木へ枯野を渡りゆくところ     青山茂根


 どちらかというと、自動車より鉄道の旅を選んでしまうのは、そのたびに車酔いした幼い日の苦い、酸っぱい記憶(具体的ですみません)が頭のどこかに残っているからだろうか、成長するにつれて揺れや車中の臭いも平気になっていったのだが、今でも、素晴らしい山紅葉の情報などを検索しながらつい、そこに至る道の険しさを想像してしまう。う、という感じで。

 幼い日によく両親に連れて行かれたのは、蕎麦の生産地である大子町や花貫渓谷の辺りで、鄙びた店を訪ねて蕎麦を食べるのが父母の楽しみであったらしい。小さな滝のそばにある茶店で、客が来るたびに老夫婦が打つ蕎麦とか、今にして思えばなかなか味わえないものだったのだが、急カーブの狭い山道を車に揺られて到着し、ぐるぐるする胃と頭を抱えてやっと車外へ出、そこにあの、北関東特有の器の底がみえないほど濃い蕎麦つゆ、なんとか食べ終えても必ず帰りの車中で具合が悪くなるのだった。蕎麦と蕎麦つゆには非はないのだが。子供にはあの山道はハードだった。あの辺りの紅葉の素晴らしさを時折思うが、今年もまた訪れることが出来ないまま過ぎた。

 鉄道が走っていれば乗ってみたくなる性質で、このくらいの冬の時期に、以前あった東海道線終電大垣行きで関西方面まで旅したこともある。青春18きっぷの利用者にはよく知られたダイヤだ。普通電車なので、小田原辺りまでは酔っ払いの通勤客などが多いのだが、それを過ぎると次第に客が少なくなり、一人旅なので寝ないようにと思いながら、大垣で乗り継ぎついうとうとして目覚めると、米原あたりを電車は走っていて、窓の外は一面の雪だ。大阪で降りる頃には疲労感の一方で無性にハイな気分の、お尻の痛くなるような長旅ながら、不思議な充足感のある行程だった。

 先日、『地球の歩き方』に「ヨーロッパ鉄道の旅マニュアル」という本があるのを見つけ、手すさびにぱらぱらと読んでいる。もともとあまりこの手の本を利用しないし、自分がよく旅行していたころはこれは出ていなかった、そしてとりあえずどこに行く予定もないのだが。その日の気分で開いた頁を眺めて、ああ、これは乗ってないなあ、ここ行ったのに駅でお弁当買わなかったー残念、この寝台車体験したい!などと一人で盛り上がっている。実際に自分が乗ったのは、コペンハーゲンから郊外へ出る普通列車、ロンドンから郊外へ、アイルランド国鉄、フランスの誇るTGVでスペイン側の国境の町イルンへ、ラ・ロシェルへ、パリの地下鉄から伸びる郊外線、パリからスイス国内を経由してミラノへ到着する国際列車、スペイン国鉄のタルゴ、ブリュッセルからルクセンブルグへの国際列車、ICでミラノからフィレンツェ、ボローニャ、さらにベネチアまでの急行列車。しかし本を見ているとまだまだ、乗っていない鉄道があって、今すぐにでも行きたくなってしまう。 とにかく乗れるだけ乗る、というのではなく、沿線で降りて、知らない町を歩くのも楽しみなのだ。

 どの切符も、自分で駅に行って予約を取り、買った。英語が通じないことのほうがほとんどだが、鉄道の基本は各国共通だと思う。時刻表と、駅の大きなパタパタ変わる掲示板(今は電光式になっているものが多いか)と、路線図、そして実際の車両についている行き先表示板。それらを確認し、照らし合わせて、該当列車、乗車クラスと日時、行き先を指定すれば現地の言葉の単語を並べてでもなんとか乗車券を取って乗れるし、途中で間違えたことに気づいたら路線図の分岐点にある駅まで戻ればいい。どこの駅にも、鉄道にも、その土地の風景があるし、鉄道の旅のいいところは、乗り合わせた人たちを観察する面白さだ。そして特有の匂い。

 先月の終わりに、桐生へ紅葉を見に行ったときも、東武鉄道に乗るのが実は初めてで、今は静かな駅の佇まいに、往時の買い付けに来た商人たち、出迎え、見送る桐生の旦那衆たちや華やかな御姐さんたちのさんざめく様子を想像して、一人でわくわくわくわくしていた。もうひとつのJR両毛線のほうの、冬場は手で開けるという列車のドアも体験してみたかった。欧州の鉄道も、そうやって手で開ける電車が走っていた。今も地方へ行けば変わらないはずだ。ドアの前の乗客と、目で合図しあうその車内の一瞬の空気感は、冬場のほんのりとした温かな気持ちをもたらす。

2010年11月19日金曜日

 ― 転ぶときの空 ―

  
  蒲団にも舵といふものありとせば      青山茂根

 
 ほの暗い起き抜けのひとときが過ぎて、家々の屋根の隙間から次第に青空が広がっていく冬の朝は、ふと氷湖を思い起こす。周囲を針葉樹の山々に囲まれた、凍りついた、天然の湖。記憶の底にある、小さな原石の光で。

 街中にある、青天井をもつアイススケート場は、ニューヨークの冬の風物詩として毎年ニュースで伝えられるし、欧州の北のほうへ行けば、市民の冬の楽しみとして一般的なものらしい。ここ数年、いささか整いすぎに修復された横浜の赤レンガ倉庫(以前の、薄暗い、所々欠けたりした不ぞろいな煉瓦の作り出す陰影も良かったのだ)の前でも、真冬のイベントとして、屋外のスケートリンクが作られる。夜空と、ライトアップされた光景はなかなかのもので、数回見に行ったが、いざスケート靴を履いて銀盤に足を乗せてみると、氷の状態があまり良くないのが気になってしまい、それから滑るほうはしなくなってしまった。暗い海を背景にした、白く発光するその一ところは、見るためにだけ訪れても充分価値があるけれど。

 というほど、スケートが上手いわけではなく、偉そうなことは言えないのだが、幼い頃、連れて行ってもらった山の中の天然のスケート場が時折目に浮かぶ。厳寒期に凍った湖を、磨いて作られたその光景は、半透明の氷の輝きが鏡などというより、その奥に氷の宮殿でもあるのではと思えるような、神秘的な輝きを放っていた。長野県の、麻績(おみ)村というところで、特に係累があるわけでもないのに母が気に入って数回訪れた地だった。幼い頃、数日間泊り込んで現地の方にスケートを教えてもらったのだ。街中のスケートリンクと違い、貸し靴がスピードスケート用しかなくて、初心者には立っているのさえ難しかった。スピード用は、刃が薄いので体重を乗せるコツがつかみにくい。フィギュア用の先にぎざぎざがついた靴ならどんなに良いかと思いながら、しかし、氷が傷つくからそこでは禁止されているという話だった。屋内のスケートリンクのように、周囲につかまるところもあるわけではない。冷たくなる指先と、転んでばかりで痛むお尻、寒風でゆるむ鼻先と、あまり良い思い出ではなかったのだが、なぜか、何十年も経った今になって、あの氷湖の風景が蘇る。そのつらかった特訓のせいか、それ以後はあまり街中のスケート場にも足を運ばなかった。なので上達しないまま年月が過ぎた。

 幼いものを連れていくようになって気づいたのは、同年代の母仲間などが結構スケートに親しんだ世代だったらしいことで、自分専用のスケート靴を持っている人までいる。数回連れて行っただけなのに、いまや幼いものたちのほうが上達してしまい、一人で練習を重ねながら、あの湖も、近年の暖冬でスケートが出来るほどには凍らなくなってしまった、という話を思う。いつか、スピード用の靴で、あの氷上を滑走したかったのだが。
 

2010年11月5日金曜日

 -― 人生変えたい? ―

 
 未知なる食べ物との遭遇は、いつも胸躍るもので、といっても流石にゲテモノに挑戦するのは控えている。ベトナムは爬虫類から両生類、昆虫関係までかなり豊富という話だが、私が行った数日前にそういった飲食店もある巨大市場界隈で外国人観光客の強殺事件があったとかで、現地旅行社の人に止められたので行っていない。いえ、正直なところやはり見た目も美味しそうなものが食べたい。意思が軟弱なだけだ。未踏の地の未知なる味に常にふらふらと吸い寄せられてしまうのだが、いまだ蝙蝠のスープさえ体験していないのは少し恥ずかしい。

 旅先でつい、アジア各地の料理店を探してしまうのは、やはりアジアの片隅である日本に育った者の胃袋がそちらを求めるからか。欧州などで、タイやベトナム、中国料理などの高級店に入ってしまうと、ヨーロピアン向けの味にアレンジされていたりして外す場合が多い気がするが(その国の人々が住む移民街にある店は簡素でも味は本場っぽく美味。しかもお財布に優しい)、インド料理は東京以外なら(東京は外す店多し!怒!)、自分が行ったことのあるいくつかの国の大都市においてではあるが、どこもアジア人には満足いく味であったように思う。つまりどこの国に行ってもインド料理屋を見つけると入らずにはいられない習性らしい。そしてどこの大都市にもなぜかインド料理屋の看板は見つかるのだ。(あ、ユダヤのサンドイッチ、ピタに挟んだファラフェルも大好物。先日のワールドカップ中継のとき、オシム氏の解説の様子がツイッター上で流れていたのだが、中継時につまむメニューのラインナップに、スシの翌日ファラフェルサンドが登場したときは、おお!と感動した。たぶん私以外誰も覚えていない?)

 なのに、インドへは一度も行っていない。学生時代から周囲にはインドを旅してきた人ばかりで、学生の貧乏旅行からマハラジャの宮殿ホテルを渡り歩いてきた親世代までいろいろ話だけは聞かされてきた。「インドへ行くと人生変わるよ」という言葉も以前よく聞いた。昔なつかしのチューリップという音楽グループが再結成をしたときに、「この人はインドへ行っちゃって、そのままなんですよ」と財津和夫に紹介されていたギタリストがいたが、確かにそんな、インドへ行って人生変わっちゃいましたといった風貌だった。本当に、「人生変えたいんだー」と言って出かけて行った友人もいたが、その後も会社員は続けていたような。いやあれはどろどろの恋愛関係をなんとかするためだったのかも。ま、そういう状況での場面転換的にも、使われるツールがインドへの旅であった気がする。同様に使われていたものとしては、「ちょっと、ネパール行ってくる」もあったが、どちらも私は訪れていない。

 やはり絶版になっている本ながら、インドといえば!というのが、『星降るインド』(後藤亜紀 著 講談社 1981)。単なる旅行記ではなく、2歳と6歳の子供を連れてインド大使館勤務の夫とともに現地で暮らした記録であり、様々なカーストの人々と、時に友人として、使用人を雇う側として、関わった事実が描かれている。それぞれの階級に、職業に属する人々の考え方、日々の食物や幼いものの成長を通して、見えてきたありのままの姿は、生半可な知識や偏見を吹き飛ばしてしまう。もちろん、その書かれた当時とは時代も違うし、世界的にIT化が進んだ現在には当てはまらない面もあるのかもしれないが、根本的な人々の考え方は、この著者が体験し、見つめてきたままなのだろうと思う。何度も読み返し、そのたびに、「いつか行くぞ!」と思っているだけの臆病な読者ながら。


  菊人形の中にアダムとイヴ探す      青山茂根   

       

2010年10月7日木曜日

 ― 街をあるく ―



  陸続と墓標やうねりつつ萩は     青山茂根


 「ステディカム(Steadicam)」というカメラ機材、私が仕事をしていたころに米国から紹介されて、テレビコマーシャルの撮影などで時折使用されるようになってきていた。まだ使用料も高く、技術者も日本にはあまりいなかったために、費用が潤沢にある撮影でしか用いられていなかった。前後、高低差のある移動でもぶれにくい、独特な映像が撮れる。テレビをたまたまつけて、『世界ふれあい街歩き』という番組を初めて見たときに、あ、これだ、と気づいた。今やテレビ番組でも普通に使えるだけの機材になっていたのだ。この番組、世界各地の街、それも観光地の名所ではなく、普通に人々の暮らす路地などへカメラが入っていく。先日のノルウェーのベルゲンや、ヘルシンキ郊外の裏道など、かなりの登り坂でもそのまま撮影していくので、相当な重量を腰で支えるこの機材、現場の重労働がしのばれて、その街の景色を楽しみつつも、「あ、もうそこまででいいから、もうカメラ下ろして!」などとテレビのこちら側でつぶやいてしまう。

 毎回、その番組を楽しみに見ているうちに、この旅する感覚はどこかで見たような、という気がしてきた。もちろん、自分が旅するときもわりといきあたりばったりでいつもこんな感じなのだが(下調べをせずに訪れたりして、そこでぜひ見なくては、という建物や美術館が修復中なこともしばしば、何しに行ったのか、というときもよくある)、出会った街の人々に尋ねながら、次の目的地を決め移動していく、この感じは、そういえば、と『西アジア遊記』(宮崎市定著 中公文庫 1986)を思い出した。

 道に迷わぬように、電車線路に沿うて歩いていると、やがて細長い芝生のある広場に出た。エジプトから持って来た大きなオベリスクが立っていて、その側に旧ドイツ皇帝が寄贈したという泉水殿がある。前面に大きなモスクが立っているから、事によるとこれがかの有名なセント・ソフィア、キリスト教寺院を改造したアヤ・ソフィアかと思って中に入って見たら少し勝手が違う。これは通称「青モスク」で通っているアフメッド寺院であった。
                           (上記『西アジア遊記』より)

 と、万事このような具合の旅の記録で、読みながら自分もそこに立っているかの気分になってくる。日本への郵便を出そうとして、現地の若い窓口の女性にお釣りをごまかされたり(あとでその地の領事館の人々に話したら、「よっぽど別嬪さんだったと見えますね」とひやかされ)、ブローカーがしきりにふっかけてくるのでためしにものすごく安い値段を提示して遺跡への車をチャーターしたらそれが交渉成立してしまい、「群集の後ろから雲つくような大男のいかめしい顔したのが出てきて、(中略)自分はちょっとおじ気づき、さりとて大男だから嫌だとも言えずに躊躇していると、返事をする間もあらせず、大男は自分を小脇に抱えて自動車の中へ運び込んでしまった。」と言葉も通じないアラブ人運転手の車に乗る羽目になってしまうのがおかしい。「他の運転手はみんな洋服を着て、中には乗馬ズボンなどを穿いている中に、この男だけが純粋の遊牧(パダヴイ)アラブの服装のままで」、「こんな男に自動車の運転が一体出来るかしらと危ぶんだが、走り出したところを見るとなかなかどうして腕はたしかなものだ」、「よく見ているとこの男は恐ろしい顔をしているに似ず、なかなかの愛嬌者である。退屈だと見えてしきりに私に話しかけるのだが、もちろんさっぱり分らない。」と無事に長距離を移動し、死海見物を終えて帰ってくる。

 実はこれが、「昭和十二年八月、私は留学先のパリを立って、ドイツからバルカン半島に入り、ドナウ河を下ってルーマニアの首都ブカレストにおける学会に出席した後、黒海を渡ってトルコの旧都イスタンブルに着いた。」という旅の記録なのだ。今、実際に我々が旅するのと全く変わらないように感じさせる文体の先見の明も思うが、「大会社の社員は至る所に連絡あり、駅頭に迎えられて駅頭に送られ、孤独なるは単に車中にある時のみ、これを以て、吾人が自ら計画を立て、自ら行李を運び、蟻のごとく蝸牛のごとく地面をなめるように旅行するに比して苦楽また同日に語るべきでない。」という視点とポリシーでの行程をつくづく感じる。このとき著者は30代、経験と分別も20代初め頃の旅とはまた違うものがあるだろう(危険な地域を旅するときは、この経験からくる一瞬の判断と分別が非常に重要)。しかし、十分な若さと感受性で、「それから小アジアを横断して、シリア、イラク、再びシリア、さらにパレスチナからエジプトに入り、ここではカイロから南に下ってカルナクに達し、引き返してアレキサンドリアから地中海を横切ってギリシアに着き、アテネからコリント地峡を経て、コルフ島に上陸し、イタリアに渡ってタレンツムから西海岸を北上して、十一月にパリに帰着した。」という各地の遺跡を足で歩いて見た記録は、圧倒的な力で現代の我々をも魅了する。

 まだまだ誰かに話したくてたまらなくなるエピソードはたくさんあるのだが、以下の記述を見つけてニヤリ、としてしまったことだけお伝えしておきたい。俳句に手を染めた人間ならどこかでちらっとは見かけている話に、思いがけず繋がっていたので。今でも、所謂パリ・ダカ、ダカールラリーなどの映像で、よく見られる光景であることも。

 箱根丸の二等船客になって、ヨーロッパへ向う途中、スエズに着いた。同じ在外研究員の仲間、成瀬政雄博士、増本量博士、落合驥一郎学士、松本雅男学士等を誘って、カイロ見物に出かけた。同船の長谷部照伍中将や高浜虚子氏、横光利一氏などは一等の廻遊券だが、われわれは三等の廻遊券を買った。船のボーイが怪訝な顔をしたが、別に国辱でもあるまいと思っていた。われわれだけ特別に一台のボロ自動車に乗せられて一番あとからついて行くと、先頭の車が砂塵をあげて砂漠の中を走る壮観が見られて、結局この方がかえってよかったとも思った。

 

2010年10月1日金曜日

 ― 『57501』 ―

 細長い、白い表紙の中央いっぱいに、縦に記された「57501」の墨の文字。俳誌『575』の創刊号を頂いた(ありがとうございます)。表紙の「01」というのは、創刊号を指すらしい。シンプルながらインパクトある版型。高橋修宏氏の個人誌として発行されたもの、しかし、高橋氏の敬愛する作家たちの作品が載っていて、鮮烈な存在感をもって迫ってくる。

  ドアというどのドアあけてみても犀    宗田安正
 
  鳥曇やさしく立てるテロリスト

  地底にも雲雀の揚がりをるならん

  そこに着くまでに燃えなむ蝸牛

  雪明りめざめてのちも馬である

 宗田安正氏、「冥府」から。<蝸牛>の句からは、地底と地上とを繋ぐ神話のような壮大な物語を想像した。また、万葉集にある狭野弟上娘子の歌、「君がゆく道のながてを繰りたたね焼きほろぼさむ天の火もがも」をふと思い出す。蝸牛が愛を引き出すのか。単純に、背後に燃える火と、進む蝸牛の対比としても、滅亡する世界のような美しさだ。

  野遊びの毛のいろいろを吹き分けて   谷口慎也

  墓石を抜かれて弱る春の山

  麦笛や大和というは紐いろいろ

  花氷死して手脚の開き方

  サーカスの夢のほどけて烏瓜
 
 「流離譚」、谷口慎也氏。<野遊びの>の句、冷たさの残る春風の中で、草木に絡んだ様々な動物達の毛や羽、実景を置きつつも、人々の妖しい遊戯へと連想が働く。<毛のいろいろ>とはユーモラスな表現ながら、刹那的な響きに聞こえるのはなぜだろう。

  膝曲げて脱ぐわかものに百合の意思  江里昭彦

  検温のための整列ひつじらは

  産卵のはじまる海に靴を投げ

  グァテマラに蘂湧きあがる花を見き
        
  望の月艦(ふね)は兵士をいれかえて

 江里昭彦氏、「人生は美しい」より。どの句にもみずみずしい暮らしの片鱗があり、生の息吹を盛り込みつつ、過去と現在を自在に行き来する。ときに享楽的に、あるいは冷徹に。それもまた人生、というように。<膝曲げて>の句、デニムを脱ぐ仕草から、青春期のナルシスティックな自尊心を描くのだろうか、少し異端の匂いも。<産卵のはじまる海>のフレーズの魅力、どんな生き物や魚類の産卵期でもいいのだが、海亀の来る海辺の碧さ、島や最果ての地のどこへもゆけぬ感傷を靴が。<望の月>の句、軍艦であろうが、なぜかトロイアの木馬を思ったり。ギリシャの月と夜空が広がる。

  すめらぎがすめらぎ殺め野火走る    高橋修宏

  黄沙降る柩は王を入れかえて

  液晶の並ぶ白夜の秋津島

  花野かな折檻のあとそのままに

  ひそやかにひめをひらけばひらく蘭

 「電子地母」、高橋修宏氏。ほぼ定型であり、有季の句も多い。だが、この印象の違いは何か。史実の、中央や片隅の出来事が、隣の家で現実に起きているような錯覚を起こす。<すめらぎ>を倒す謀反に放つ火は、野を焼く火に重なり。<黄沙降る>の不条理な世。ナム・ジュン・パイクのモニターを積み上げたインスタレーションの不気味な世界、初めて目にしたのは青山のワタリウムだったか、それが<液晶>の句の白夜へ。

 高嶋裕氏の短歌、「終日の水」より。

  少年期少女期永く曳いてきてふたり真昼の窟(いはや)にしやがむ     高嶋裕

  日常をふたり離れて鮮紅のブーゲンビリア眼に宿しあふ

  鳶あまた旋る(めぐる)港を行くときにあなたは錆をまた嗅ぎ当てる

  助手席で灯る子宮に委ねきる。をとこごころも、こどもごころも

 高嶋氏の評論、「短詩型と歴史への問い―『蜜楼』が提起するもの」から以下を。ここまで掲げてきた句の面白さには、定型が関係するのか否か、矛盾と分裂を孕むためなのか考えつつ。

 ・・・前近代の言語環境・文化環境に育まれた和歌の規範性や歳時記の宇宙を出自として背負ったまま、個の表現としての近代文学であろうとすることは、それ自体が矛盾であり、分裂だからだ。
 

           
  

2010年9月17日金曜日

 ― Moussaka ―



  錨より雫馬鈴薯引く、拾ふ      青山茂根


 横浜の、黄金町あたりから根岸線をくぐっていく、N川沿いの夕暮れの道の物悲しさと、新山下から本牧へかけての、沖縄を始め様々な、しかし小さな料理屋ばかりの灯りが点在する道の深夜の風景を、ときどき見たくなる。なんてことない町の、しかし少し脇道を入ると危なっかしい店も息づいていながら、川べりの灯りの柔らかな光が、不思議な釣り合いを保っていて。それでも、ああ、港町なんだなあ、と感じ入ったのは、ギリシャ料理店の多さだった。現在は閉店してしまった老舗もあるのだが、私が学生の頃は、そのN川沿いや、山下町の裏道あたりにも、ギリシャ人オーナーが開いていた店がいくつもあった。古くから、港に入港する船にギリシャ人船員が多く、彼らが上陸したときに羽を休め、祖国の味を懐かしむ場所として、ギリシャの酒を専門に置いているバーや、レストランが繁盛していたのだという。今は、日本の海運業にギリシャの船が関わらなくなってきたのか、次第に店が減って、もともとのギリシャ人オーナーから、日本人経営の店に変わってしまったところもあるらしい。ゼミの教授を囲んだ会も、確かそうしたギリシャ料理店のひとつで行われ、それもその教授のお気に入りの店とかで、堅い、という印象しかなかった師の、意外な一面を見た気がした。


 「Moussaka(ムサカ)」という料理も、確かそのときテーブルに登場したはずだ。初めて食べたのは、もう少し前、N川沿いのどこかの店だったように記憶するが、その名前の音の響きは、ある小説を、専攻ではない英文学の授業で読んだときに知った。


 数年前に別れた男女が、当時よく食事をした店で偶然再会するという英国の女流作家の書いたストーリーで、普段の自分たちからするとまず入らないタイプの店の、少し庶民的なレストランの描写、それに重ねて女性のほうの心理が、屈折を引き戻すように提示される。


 誰にも見つかりそうにない、どちらかの知り合いが行くようなことはないにきまっている店だったからで、それでいて不便で話にならないというほどではなく、ホーボーンからあまり遠くはない所で、ホーボーンなら二人ともときどき行っても不自然ではなかったのだ。(中略)

 そこに座ると、赤い縞が入った合成樹脂のテーブルの表面と、ごちゃごちゃ置いてある塩、こしょう、マスタード、ソースなどの容器と灰皿を見た。塩の容器が、太いギザギザの線が入ったアクリル製で、口の周りが帆立貝の形になっている安っぽさは忘れようもなかった。

(「再会」 マーガレット・ドラブル著 小野寺健編訳『20世紀イギリス短編選(下)』より 岩波文庫 1987)


 心のどこかで期待している、自分の行動を自己否定しつつ、眠らせてあった本当の感情に次第に肯定的になっていく女性の葛藤が、見事に読者の前にあきらかにされていく筆致は、英国の女流作家の小説に特徴的なものだろう、読んでいる自分も、極小のカメラで胸の内から頭の中まで画面に映し出されている気分になってくる。日本のこの手のテレビドラマの安易な設定とは大違いだ。そして、いつも男性が頼んでいたムサカ!女性のほうは、常にチーズオムレツ。手早く食べられる一品料理であり、どこで食べてもあまり外れが無いから、と書かれているのは、つまり、その男女が、外でゆっくり、特別な食事を楽しむにははばかられる関係であることを指す。そして食事の内容よりも、そのあとの行為のほうに重点がおかれていた、という二人の結びつきの濃さを表して。偶然再会したその店で、<「で、お子さんたちは元気?」>などという会話を交わしながら、後から運ばれてきた彼のムサカから、話は急展開する。<「・・・まるでプルーストの記憶の世界じゃないか。・・・ムサカの味はきみだ。」>という方向に。


 残念ながらムサカにまつわるそんな思い出のない私は、その、茄子とジャガイモと挽肉、ペシャメルソースの層に、焦げ目のついたチーズの織り成す味を、どこか懐かしく、たまらなく食べたいものとして思い起こすだけだ。<忘れてしまう人間は忘れる>、そんなものかもしれないと思いつつ。(原題:The Reunion)