2010年10月7日木曜日

 ― 街をあるく ―



  陸続と墓標やうねりつつ萩は     青山茂根


 「ステディカム(Steadicam)」というカメラ機材、私が仕事をしていたころに米国から紹介されて、テレビコマーシャルの撮影などで時折使用されるようになってきていた。まだ使用料も高く、技術者も日本にはあまりいなかったために、費用が潤沢にある撮影でしか用いられていなかった。前後、高低差のある移動でもぶれにくい、独特な映像が撮れる。テレビをたまたまつけて、『世界ふれあい街歩き』という番組を初めて見たときに、あ、これだ、と気づいた。今やテレビ番組でも普通に使えるだけの機材になっていたのだ。この番組、世界各地の街、それも観光地の名所ではなく、普通に人々の暮らす路地などへカメラが入っていく。先日のノルウェーのベルゲンや、ヘルシンキ郊外の裏道など、かなりの登り坂でもそのまま撮影していくので、相当な重量を腰で支えるこの機材、現場の重労働がしのばれて、その街の景色を楽しみつつも、「あ、もうそこまででいいから、もうカメラ下ろして!」などとテレビのこちら側でつぶやいてしまう。

 毎回、その番組を楽しみに見ているうちに、この旅する感覚はどこかで見たような、という気がしてきた。もちろん、自分が旅するときもわりといきあたりばったりでいつもこんな感じなのだが(下調べをせずに訪れたりして、そこでぜひ見なくては、という建物や美術館が修復中なこともしばしば、何しに行ったのか、というときもよくある)、出会った街の人々に尋ねながら、次の目的地を決め移動していく、この感じは、そういえば、と『西アジア遊記』(宮崎市定著 中公文庫 1986)を思い出した。

 道に迷わぬように、電車線路に沿うて歩いていると、やがて細長い芝生のある広場に出た。エジプトから持って来た大きなオベリスクが立っていて、その側に旧ドイツ皇帝が寄贈したという泉水殿がある。前面に大きなモスクが立っているから、事によるとこれがかの有名なセント・ソフィア、キリスト教寺院を改造したアヤ・ソフィアかと思って中に入って見たら少し勝手が違う。これは通称「青モスク」で通っているアフメッド寺院であった。
                           (上記『西アジア遊記』より)

 と、万事このような具合の旅の記録で、読みながら自分もそこに立っているかの気分になってくる。日本への郵便を出そうとして、現地の若い窓口の女性にお釣りをごまかされたり(あとでその地の領事館の人々に話したら、「よっぽど別嬪さんだったと見えますね」とひやかされ)、ブローカーがしきりにふっかけてくるのでためしにものすごく安い値段を提示して遺跡への車をチャーターしたらそれが交渉成立してしまい、「群集の後ろから雲つくような大男のいかめしい顔したのが出てきて、(中略)自分はちょっとおじ気づき、さりとて大男だから嫌だとも言えずに躊躇していると、返事をする間もあらせず、大男は自分を小脇に抱えて自動車の中へ運び込んでしまった。」と言葉も通じないアラブ人運転手の車に乗る羽目になってしまうのがおかしい。「他の運転手はみんな洋服を着て、中には乗馬ズボンなどを穿いている中に、この男だけが純粋の遊牧(パダヴイ)アラブの服装のままで」、「こんな男に自動車の運転が一体出来るかしらと危ぶんだが、走り出したところを見るとなかなかどうして腕はたしかなものだ」、「よく見ているとこの男は恐ろしい顔をしているに似ず、なかなかの愛嬌者である。退屈だと見えてしきりに私に話しかけるのだが、もちろんさっぱり分らない。」と無事に長距離を移動し、死海見物を終えて帰ってくる。

 実はこれが、「昭和十二年八月、私は留学先のパリを立って、ドイツからバルカン半島に入り、ドナウ河を下ってルーマニアの首都ブカレストにおける学会に出席した後、黒海を渡ってトルコの旧都イスタンブルに着いた。」という旅の記録なのだ。今、実際に我々が旅するのと全く変わらないように感じさせる文体の先見の明も思うが、「大会社の社員は至る所に連絡あり、駅頭に迎えられて駅頭に送られ、孤独なるは単に車中にある時のみ、これを以て、吾人が自ら計画を立て、自ら行李を運び、蟻のごとく蝸牛のごとく地面をなめるように旅行するに比して苦楽また同日に語るべきでない。」という視点とポリシーでの行程をつくづく感じる。このとき著者は30代、経験と分別も20代初め頃の旅とはまた違うものがあるだろう(危険な地域を旅するときは、この経験からくる一瞬の判断と分別が非常に重要)。しかし、十分な若さと感受性で、「それから小アジアを横断して、シリア、イラク、再びシリア、さらにパレスチナからエジプトに入り、ここではカイロから南に下ってカルナクに達し、引き返してアレキサンドリアから地中海を横切ってギリシアに着き、アテネからコリント地峡を経て、コルフ島に上陸し、イタリアに渡ってタレンツムから西海岸を北上して、十一月にパリに帰着した。」という各地の遺跡を足で歩いて見た記録は、圧倒的な力で現代の我々をも魅了する。

 まだまだ誰かに話したくてたまらなくなるエピソードはたくさんあるのだが、以下の記述を見つけてニヤリ、としてしまったことだけお伝えしておきたい。俳句に手を染めた人間ならどこかでちらっとは見かけている話に、思いがけず繋がっていたので。今でも、所謂パリ・ダカ、ダカールラリーなどの映像で、よく見られる光景であることも。

 箱根丸の二等船客になって、ヨーロッパへ向う途中、スエズに着いた。同じ在外研究員の仲間、成瀬政雄博士、増本量博士、落合驥一郎学士、松本雅男学士等を誘って、カイロ見物に出かけた。同船の長谷部照伍中将や高浜虚子氏、横光利一氏などは一等の廻遊券だが、われわれは三等の廻遊券を買った。船のボーイが怪訝な顔をしたが、別に国辱でもあるまいと思っていた。われわれだけ特別に一台のボロ自動車に乗せられて一番あとからついて行くと、先頭の車が砂塵をあげて砂漠の中を走る壮観が見られて、結局この方がかえってよかったとも思った。

 

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