2011年2月25日金曜日

 ― 鏡花の匂い ―

 

 
 『塵風』第3号より。

  柿むきし僧のその嘘子規向きか    井口吾郎      (回文俳句!)

  整然と脳より大き菊の花         井口 栞 

  修道院すんでのところまで十薬     笠井亞子

  石ころに小鳥の温みありにけり     小林苑を   

  厳冬の聖書獣のごと臭う         斉田 仁

  巨大なる国旗そのほか驟雨来る    長谷川裕


  寫樂づら下げて大川梅雨深し      閒村俊

  サルビアと国旗と暮れてゆく椅子と  村田 篠

  鯉のぼり厠の窓で目が合いし     桃 児  

 -カバット ・・・ドナルド・キーンがどこかで、泉鏡花の文章を分析していて、非常に難解な文章で、と説明したとき、ある人に、じゃあ、泉鏡花の文章がいやですか、と訊かれて、いや、嫌いじゃない、そのために日本語を勉強してきたんですよ、と答えたんです。だからといって、ドナルド・キーンが翻訳している泉鏡花の文章なんて、ひとつもない(爆笑)。

 「アダム・カバット インタビュー 日本語・英語・翻訳・文体―泉鏡花その魅力」の記事、アダム・カバット氏の発言より。俳句雑誌に突然の泉鏡花出現におおっ!となる。とにかく面白いインタビューだった。この「芸術新潮」小村雪岱特集号、図書館でチェックしたあと買おうと思って忘れてた、バックナンバーあるかなあ、などと多方面に。そういえば、以前泉鏡花にはまって多少読んでいた(全部ではない)。読んだ内容は大方忘却の彼方だが、蜂蜜漬けのまま数千年を経てきたエジプトの赤ん坊のミイラのように、ねっとりとその文体と言葉に浸るあの感覚。今までことあるごとになぜ自分が俳句やっているのか不思議だったのだが(だって詩も俳句もほとんど読んだ事なかった)、そうか、鏡花好きだったからか、とようやく合点がいった。アクロバティックな比喩や、マトリョーシカ状になった話の構造、結論が出たんだか出ないんだかはっきりしない終わり方など、確かにある種の俳句、的な要素が泉鏡花の小説にはある。自分が好きなタイプの俳句にもある同じ匂い。人が多く集まる席で、同じ匂いのする誰かをいつも探しているように。

 泉鏡花原作の映画といえば、なんと言っても(リンク先、ネタバレ注意『夜叉ヶ池』(監督 篠田正浩、1979年)を挙げたい。主演が坂東玉三郎、ちょうど男盛り(女形盛り?)の芸にも女形っぷりにも油ののっている時代に撮られた映画だ。原作を先に読んでしまうと、映画化された作品にはどうしてもけちをつけたくなってしまうが、この映画はまた少し違う。シーンによってはB級と言える場面もあるが、原作が突拍子もない部分なので仕方ないか。玉三郎の役も、歌舞伎の舞台と違ってやはりスクリーンだと完全な女とはいかないが、見終わっても映画の世界にがっつりと身も心も奪われていて、なかなか席を立てなかった覚えがある。もちろん、私がそのころ歌舞伎の玉さまに入れ込んでいたためもあるけれど。鷺娘の妖艶さともまた少し違う、むしろどこか中性的な雰囲気がかえって鏡花作品に合っている印象だった。訳あってDVD化が難しい作品になっているらしいので、名画座かフィルムセンターかどこかでかかっていれば。とか書いていたらまたむずむずと鏡花を読みたくてたまらなくなってきた。とろりとした、壷の中へ。










   (参考までに『Yashagaike(Demon Pond)』で検索すると一部映像が探せます。)

2011年2月18日金曜日

 ― 『新撰21』と『超新撰21』から <1> ―

 スロウペースながら、これから時折、一昨年末刊行された『新撰21』と、昨年末世に出た『超新撰21』から、それぞれ一作家づつをピックアップして、読んでみたい。特に何か共通項を探すとか、比較対照するわけではなくて、ただそのときの気分で。その日見上げた雲の行方のように、どこへ向かうかわからないけれど、何かその句たちの持つ空間を、少しでも誰かに伝えられれば。

 今回は偶然、どちらも天為という結社に所属する方たち。このお二方とは本でお名前を拝見したのが初めてだが、まだ俳句を始めて数年といった頃に、結社を超えて人が集まっていた句会で、よく天為の若手の方々とご一緒させていただいた。様々な句柄の方たちが、活発な合評を繰り広げていて、その頃の自分にとって得るものの多い濃密なひとときだった。近所の、時々勉強を教えてくれたお兄さんお姉さんに対するような、懐かしい気持ちが今もどこかに。昨年末の超新撰21の集いで、偶然その頃の方に久しぶりにお会いできたのも、不思議な縁と思える。

  土色の足跡ありし四温かな       五十嵐義知

  流域に寺町のあり更衣

  木製のはね椅子たたむ秋の声

  鉄塔を残すばかりの刈田かな

  六つ目の大陸に着く絵双六

  野の音のことごとく雪解かしけり

  物干しにとりのこしある残暑かな

  秋涼し東へ続く廊下かな

    (『セレクション俳人 プラス 新撰21』 邑書林 2009)  

 『水の色』五十嵐義知氏の100句から。風土性、客観描写の確かさ。「流域に寺町のあり」の着眼のように、そこに綿々と続いてきた人々の営みを感じさせて。しかし、古びた印象を感じさせないのは何故か。
例えば、「刈田」を読むにしても、「鉄塔」のほうへわずかに比重が置かれているからだろう。
「土色の足跡」にも、そのころのぬるみ始めた道をさりげなく描き出して、ゆるぎない季節感がある。
「六つ目の大陸」の華やかな句にも惹かれる。もっとこの作者のこうした句を読んでみたい。言葉の的確な省略のセンス、大胆な把握の句をさらに見せて欲しいと思うのは読者のわがままだろうか。
そして、「野の音」が「雪解け」を呼び出すように、「残暑」がとりのこされているかのような名状しがたい空気感を描き出す資質に、より自覚的でもよいのでは、という気もする。端整な詠みぶりの一方で、そんな句もぜひ、とリクエストしたくなる作家なのだ。 未だ訪れたことのない地の雪を、川の蛇行を、我々の前に映し出して。


  遠ざかるものみな青く五月尽      久野雅樹          

  春一番ゴッホの杉の巻き始む

  ぼろ市を見終えてセブンイレブンへ

  冷すもの牛にはあらでコンピュータ

  天の岩戸開けば暑きこともあらむ

  めぐるものあり大試験見守れり

  ここにまた生老病死冷蔵庫

  バカボンもカツオも浴衣着て眠る
    (『セレクション俳人 プラス 超新撰21』 邑書林 2010)

 『バベルの塔』久野雅樹氏の100句から。知性に着グルミを被せたような、綿密に計算された言葉で構成されている。依光陽子氏の小論のタイトルにあるハジメちゃんとはまさしく、恐るべき知性を包む柔らかなユーモアを表して。
「ぼろ市」「冷すもの」の句は、その諧謔性に目がいってしまいがちだが、ぼろ市に実際でかけてもマニアックな古道具屋が店を連ねている、といった風情で、真空管のパーツとかその筋に興味のある人でなくては触手の動かないものばかりだ(理系の知人は、ぼろ市でエアコンの送風部分のパーツなどを見つけてきて、温度センサーを備えた天井のファン装置をこしらえていた。天井付近の温度が上がってくると自動的にファンが動き出し、室内の温度を一定に保つという。凄い。よくぞあのガラクタの中から)。市につきものの飲食物の屋台も意外に少ないわりに、やたらと延々古道具屋が続くのを、ついコンビニに立ち寄ってしまうおかしさ。
「冷すもの」の句は、絶滅危惧種の季語である「牛冷す」という言葉を解体しつつ、現代の都市に暮らす真夏の風景を描き出す。
「ここにまた生老病死」の、シッダールタ王子の出家の原因となった逸話を「冷蔵庫」に取り合わせる構成の力。たくさんの死が詰まった白い扉。日々その前に立ち、その門を覗き込みながら、こちら側の人間もいつか老い、その扉の前に死にゆく。現代社会の都会における孤独死の傍らに、物言わぬ冷蔵庫が。
「バカボンもカツオも」、巷には現在の総理の顔を知らなくても、このキャラクターたちは指で示せる、という人も多いだろう。ギャグ漫画の急速な普及は、その影に戦後の高度経済成長があり、一億総中流と言われた昭和を象徴するものだ。この句に描きだされた昭和は、浴衣というものを用意してくれる祖母や母の姿をも想起させ、現在の、核家族からさらに孤へ分散した人間関係をあぶり出す。


 如何に前のものを引き受けて、どう次へ変化をさせてきたか、これが伝統というものの内部の力だと思うんです。前から伝えられたものをそのまま受け継ぐのではない。 (後略)
  
(「円錐」第48号 <検証・昭和俳句史Ⅱ―昭和の俳人1三橋鷹女 上> 山田耕司氏の発言から 2011年1月)



 



  

2011年2月4日金曜日

 ― 伝書鳩のゆくえ ―

 夕方の空が、潤んだ明るさを含んだまま暮れてゆく日は、もう本当の春が近いように。暦の上で立春を迎えても、まだ雪や政治の闇に閉ざされているところも。そんな、遠い地に思いを馳せる、というより幽体離脱のように気持ちだけがあちこちへ飛ぶことの多い一週間が過ぎた。そんな人が、きっと多かったはず。

 衛星放送局Al Jazeeraがエジプト情勢を世界中へ配信したリアルタイムの映像、それを見た人々の反響を、Twitterで知る(そのときテレビは何をしていたか?何も映しちゃいない)。イタリアのチームへ電撃移籍を果たしたサッカー選手の速報(自分の好きなチームの選手だったのもある)、そしてその選手へ宛てたイタリアの一市民の手紙は、Facebookで話題になり、翻訳されたものが日を置かずTwitter経由で届けられた(翻訳した日本人の肉声で読み上げられたものだった)。JR北陸本線で、複数の特急列車が大雪で立ち往生し、多くの乗客が2日間を列車の中で過ごす、そこに閉じ込められて2日目の夜を迎えていた歌人の方がひとり。その書き込みを読んだ或る歌人の方の呼びかけで、Twitter上に励ましの歌が同じハッシュタグを使って寄せられる(これはすでにまとめられ、後からでも読めるようになっている)。全てがTwitter上を絵巻物のように展開し、リアルタイムに反応が起こり、様々な思いが駆け巡っていった。近くに行って何かをすることはできないけれど、綴られた言葉に現状を思い浮かべ、言葉に想いをのせて書き綴る、その力強さ。自分はただ無力に、PCの前に座っている一人ながら。

  この腕を離せば誰かを噛むゆゑに
       もがくひとりの自由を奪ふ  小早川忠義     

  見えぬ眼を見開く時に青年は
       伝へられざる怒りあらはす     

  歩めざる足もたくまし意に添はぬ
       靴を飛ばして弧を描かせつ     

  足元の鳩一斉に飛び立てば
       つひにつかめぬ こころと知れり   〃

    (『シンデレラボーイなんかじやない』 
            小早川忠義   邑書林 平成22年)


 頂いた歌集から。短歌のことをあまり知らなくて、ただ惹かれた歌を挙げさせて頂いた。この一連の歌が、どのような状況で詠まれたものかの説明はないのだが、なんとなく、そのとき詠み手の従事していた仕事場が思い浮かぶ。そこに暮らす人々の、声にならない訴えのような感情も、動作に籠められた思いも。これも言葉の力か。あとがきには、この歌集が、出版元の人間と、<「ツイッター」にて相互フォローの関係にならなければ実現しなかった>と書かれていて、うーん、現代に暮らす人々の交流ってつくづく不思議なものだ、と。現実に会ったことはなくても、ときに寄り添うような言葉を媒介にした繋がり。手元から飛び立つ鳩さながら。