※以下の記事は、足立区小台の珈琲店BRÜCKEにて配布されているフリーペーパー「小台マガジン」3月号に掲載したものを改稿し、俳句作品を追加したものです。
3月14日にBRÜCKEで開催された「文学と音楽、言葉とメロディー、エレクトロニカ・グリッチノイズ」と題されたライブがとても面白かった。
ゲストのスッパマイクロパンチョップ氏は、ここでの演奏は二度目で、前回はギターの弾き語りだったが、今回はシンセサイザーの演奏に歌というスタイルだった。これも弾き語りということになるのだろうか? ミシン台に載せたMC-505の各種コントローラーを、無駄のない動きでてきぱきと操作する姿は熟練した職人、とくに複数のプロセスをタイミングよく捌くという点では料理人を思わせた。そこに歌も入るのだから鬼神のような大活躍ぶりである。
さて小野修氏によるパフォーマンス「文学と音楽」は、タイトルの語感から重く前衛的なものを想像していたが、意外なほどポップに感じられた。小野氏による爽快な電子音楽に、近代文学のマスターピースから引用された英語のフレーズが、詩人の深澤紗織氏のリーディングとヴォーカルによって載せられてゆく。さまざまなデバイスを操る諏訪創氏によるタイトなドラムもまたすばらしかった。
ドストエフスキーや三島を含め、すべての作品を英語で演じたことについて小野氏は、西洋を起源とするポップミュージックに日本語を載せることの困難さを語った。また、歌詞として言葉を使えば、そこに意味は生じてしまうのだから、せっかくなら自分の愛好する文学作品から好きなフレーズを引用しようということも言っておられた。
昨年末小野氏とはじめてお会いしたとき、俳句のリズムについて深い分析をされていて驚いたことを記憶している。そのことからも、彼が日本語のリズムを考え抜いたうえで、あえて英語を選択したことが伺える。ポップミュージックの歌詞には英語と日本語のどちらがふさわしいか? その問いに正解はないだろうが、今回の小野氏の選択はひとつの有効なアプローチであろう。実際出来上がった作品はポップで品の良いものであったとともに、他に類のない硬質な世界観をそなえた好ましいエンターテイメント作品と感じられた。
もちろん文学作品から引用した断片的フレーズのみで、作品全体にがもたらす重厚な存在感に匹敵することは不可能だし、日本語を母語とするリスナーが、英文から精妙なニュアンスを感受することもまた難しい。題材となった作品を読んだことがあるかどうか、作者や作品の背景についての知識があるかどうかによって、リスナーが受容できる内容や連想できる範囲が異なるという問題点も指摘できるだろう。
それらに関して小野氏は、曲の間にレクチャーを行なうことでカバーしようとしていた。彼の講義を聞いていると、楽曲を楽しむための解説という範囲を超え、このパフォーマンス自体を、文学作品の豊穣な世界へと誘う入口にしようという意図が感じられた。文学作品に匹敵する音楽を作ろうということではなく、言葉の海からフレーズを借りることで独自の音楽作品を完成させるとともに、その音楽作品自体が文学作品への扉を開く鍵にもなるという、ふたつの達成を意識していたということだろう。正直に言うと、実際にパフォーマンスを目にし、曲を耳にするまでは、「文学と音楽」というタイトルが素朴で大仰すぎて、抵抗感もなくはなかった。しかし、文学と音楽とが、小野氏のなかで主従なく並立しているなら、他のタイトルを選ぶことは難しかったのかもしれない。
最後には小野氏の楽曲に乗せて、深澤氏が自作の日本語詩を朗読した。コントロールされたパフォーマンスで作品世界の創造に寄与してきた深澤氏が、ここでは主役となって文字通りセンターに立っていた。巻紙に毛筆で記された詩篇を、一行ごとに巻き取りながら読み上げる動作は、スッパ氏の洗練された合理的な動きとは対称的に、どこか呪術的なエモーションを感じさせるものだった。この巻紙はただのメモではなく、神官の祝詞や文楽大夫の床本と同じく、言霊の依代なのだろう。深澤氏は古代の巫女のように大地を踏みしめ、あるいは音楽にあわせて体を揺らせ、彼女の発する言葉のひとつひとつが見えざるものへの捧げ物であることを体現していた。
深澤氏の朗読の余韻のなかで思い出したのは、ono osamu bandの三人が登場するとき長唄囃子が用いられたことである。それは、祭祀に起源をさかのぼることができる芸能という大樹の、一枚の若葉となることを宣言するものだったのかもしれない。
書物の河に書物の橋や夕桜 中村安伸
2014年12月7日日曜日
「あらくれ句会」第一回レポート+第二回のおしらせ
冬の虹すなはち空の歪みかな 中村安伸
句会の主催者、世話人のするべきことといえばだいたい以下のようことで、とりわけ困難なことではない。
日時、場所を決めて確保し、告知し、参加者を募る。
当日の段取りを決め、必要に応じて周知する。
配布するなんとか用紙を準備する。
当日は司会進行や雑事への対応をするなど。
はじめて自分が一人だけで世話人をつとめる句会を前に、上記のような作業を行いながら、なんとなく落ち着かない気分になっていた。
はたして私と一緒に句会をやってみたいと思ってくれる人がいるだろうか……。
そんな審判にさらされているような気分があったのかもしれない。
また、足立区小台は、必ずしも不便ではないが、名前すら聞いたことがない人も多いマイナーな土地である。そのために二の足を踏む人もいたかもしれない。しかし、一度来てくれた人にとっては馴染みの場所となるだろう。
Twitterやメールで執拗に宣伝したこともあって、煙たがられつつ(?)も7人の方々から参加表明をいただくことができた。そして、当日も全員が出席してくださり、私と店主の杉浦さんをふくめた9人での句会を無事行うことができた。
今回の参加者7人は、句歴の長短はあれどみなさん俳句、句会の経験者である。ただ経験者というだけではなく、それぞれにかけがえのない個性と経験をもつメンバーにご参加いただけたとおもう。
それにしても、当日の句はもちろん、参加者のお名前も出さずにレポートを書くというのはもどかしいものだ。(ちなみに表題の句は当日私が投句したもののひとつである。)
私の知る俳人の方々はみな素晴らしい人間性と、それぞれに違った味わいの言語感覚をお持ちであり、句会や飲み会で話すとたいてい面白いのであるが、共通した問題点がある。それは当たり前のことだが、深い浅いの差はあれど、誰もが俳句を知っているということ。
その点で言えば、店主の杉浦さんがまったくの俳句未経験者として、投句、選句、選評に参加してくれたのはありがたかったし、本人も楽しんでくれた様子なのがうれしかった。
未経験者に句会へ参加してほしいというのは、私にとってかなり切実な願いである。
身も心も俳句漬けになって、はじめて見えてくるものもあるに違いないだろうが、そうした全身俳人やその予備軍ばかりで句会をやり続けていると、選の基準や評の方向性が、知らず知らずのうちに均質化していく。そこに風穴をあけてくれる存在として、俳句を知らない人は貴重である。
一度知ってしまうと知らなかった日に戻ることはできないのだし。
今回、杉浦さん以外に地元の方、未経験者、見学者がいなかったのは少し残念なことではあった。
とは言え、はじめての方がいきなり句会に参加するのは抵抗があるとも聞くので、未経験の方を主なターゲットとした句会を考えてみるべきだろうか?
俳句を教えるのではなく、句会を経験してもらう。
あらくれ句会とは別に、そのような句会を企画したとしてニーズはあるだろうか?
さて、第二回あらくれ句会は年も押し詰まった12月27日(土)に実施いたします。(普通の句会をやります。)
年の瀬は皆様なにかとご多忙でしょうが、その日たまたまエアポケットのように予定が空いてしまうといったことがあれば、東京に残された秘境、足立区小台。その片隅にひっそりと佇む魔窟 BRÜCKE にてあらくれてみるのはいかがでしょうか?
◆第二回「あらくれ句会」
・日時:2014年12月27日(土)16時開始予定(お店は12時開店予定)
・会場:BRÜCKE
都電荒川線: 小台で下車。北に徒歩10分。
日暮里・舎人線: 足立小台駅下車。隅田川沿いに徒歩10分。
都バス:「東43 荒川土手行き」小台橋で下車。徒歩1分。
・参加費:無料(1オーダーお願いします。)見学可。
・前日までに5句投句いただきます。(題なし)
・参加申し込み:こちらのリンクより中村まで予約メールをお送りください。
(できれば12月20日頃までにお願いします。)
2014年11月3日月曜日
第一回「あらくれ句会」のお知らせ
色鳥や全身窓のやうに待つ 中村安伸
「豈」55号に寄せた「すべての俳句は不可解である」という文章で、俳句作品の制作を封印したことを書きました。
いろいろあっていつのまにか実作に戻った私ですが、いまのところ、以前ほど自分の向きあっているものへの確信を持てずにおります。手放したものをひとつひとつ拾い上げる過程なのかもしれませんし、以前持っていたつもりでいたのはただの勘違いだったのかもしれません。
ともかく今まで掴んできたと思っていたものをチャラにして、つかまえなおしてみたい。
そして、何をやるべきか、何を求められているかなどとは考えず、ただ自分のやりたいことやろうと思ったのでした。
ひとつは句集をまとめること、これについてはまた詳しく書きたいと思いますが、ひとことで言うと、自分の過去の作品を世界に置き去りにしてもいいと思えたということでしょうか。
もうひとつが句会をはじめること。
実は自分が世話役になって句会を行ったことがほとんどありません。これまでなんの気なしにいろんな句会に出席してきましたが、世話役の方々の苦労はいかばかりであったか、ようやくそのことに思いが至った次第。
それはともかく、単に句会をはじめるということではなく、今回の会場である足立区小台のBRÜCKEというお店(カフェではなく珈琲屋だということですが)で行うということが、私にとって重要です。
店主の杉浦さんは、本格的な珈琲を淹れたり、自分の気になるアーティストを呼んできてライブを行ったり、フリーペーパーを作ったり、そのようなことのすべてを、なによりこの小台という土地で行うことを大切にしているように見えます。
自分からどこかへ出かけていくことも必要でしょうが、縁あって住まいをもうけたこの土地を拠点とし、人を呼ぶ、迎えるということをしたいと思いました。そこでこのお店をお借りすることにしたわけです。荒川と隅田川という二つの河に挟まれた、狭い、特別なものはなにもない土地ですが。
そして、新しくはじめる句会を「あらくれ句会」と名づけることにしました。
この名は徳田秋声の『あらくれ』という小説にちなむものです。小説の冒頭近く、主人公のお島が養家へ預けられるとき、父に伴われて隅田川(当時は荒川)の「尾久の渡し」付近を通る描写があります。(これについてはBRÜCKEに置かれているフリーペーパー「小台マガジン」第二号に少しばかり書きました。)
かつてこの渡し場があった付近に架けられているのが現在の小台橋であり、ドイツ語で橋を意味するBRÜCKEという店名はこの橋から採られたものです。
生理的嫌悪を原動力にしたお島と同じではありませんが、理想や志ではなく、ただこのお店で句会をやってみたいという気持ちのみを元手に、ともかくもスタートしてみたいと思いました。
そして、この小台という土地に打ち込んだ一本の杭に、いろんな人のさまざまな思いが、色とりどりのリボンのように結び付けられていくのを、それがふたつの河を渡ってきた風をはらんで、千切れんばかりにはためくのを見たいと思います。
◆第一回「あらくれ句会」
・日時:2014年11月28日(金)19時開始予定
・会場:BRÜCKE
都電荒川線: 小台で下車。北に徒歩10分。
日暮里・舎人線: 足立小台駅下車。隅田川沿いに徒歩10分。
都バス:「東43 荒川土手行き」小台橋で下車。徒歩1分。
・参加費:無料(1オーダーお願いします。)見学可。
・二句(うち一句は兼題「凩(木枯らし等、表記自由)」を詠み込んでいただきます。)
を11月27日(木)までにメールにてお送りください。
・当日席題句を一句投句いただきます。
なお、席題は19時すぎにTwitter等でも発表しますので、遅れる方はそちらを参照してください。
・参加申し込み:こちらのリンクより、中村まで予約メールをお送りください。
詳細を折り返しメールにてお知らせいたします。
「豈」55号に寄せた「すべての俳句は不可解である」という文章で、俳句作品の制作を封印したことを書きました。
いろいろあっていつのまにか実作に戻った私ですが、いまのところ、以前ほど自分の向きあっているものへの確信を持てずにおります。手放したものをひとつひとつ拾い上げる過程なのかもしれませんし、以前持っていたつもりでいたのはただの勘違いだったのかもしれません。
ともかく今まで掴んできたと思っていたものをチャラにして、つかまえなおしてみたい。
そして、何をやるべきか、何を求められているかなどとは考えず、ただ自分のやりたいことやろうと思ったのでした。
ひとつは句集をまとめること、これについてはまた詳しく書きたいと思いますが、ひとことで言うと、自分の過去の作品を世界に置き去りにしてもいいと思えたということでしょうか。
もうひとつが句会をはじめること。
実は自分が世話役になって句会を行ったことがほとんどありません。これまでなんの気なしにいろんな句会に出席してきましたが、世話役の方々の苦労はいかばかりであったか、ようやくそのことに思いが至った次第。
それはともかく、単に句会をはじめるということではなく、今回の会場である足立区小台のBRÜCKEというお店(カフェではなく珈琲屋だということですが)で行うということが、私にとって重要です。
店主の杉浦さんは、本格的な珈琲を淹れたり、自分の気になるアーティストを呼んできてライブを行ったり、フリーペーパーを作ったり、そのようなことのすべてを、なによりこの小台という土地で行うことを大切にしているように見えます。
自分からどこかへ出かけていくことも必要でしょうが、縁あって住まいをもうけたこの土地を拠点とし、人を呼ぶ、迎えるということをしたいと思いました。そこでこのお店をお借りすることにしたわけです。荒川と隅田川という二つの河に挟まれた、狭い、特別なものはなにもない土地ですが。
そして、新しくはじめる句会を「あらくれ句会」と名づけることにしました。
この名は徳田秋声の『あらくれ』という小説にちなむものです。小説の冒頭近く、主人公のお島が養家へ預けられるとき、父に伴われて隅田川(当時は荒川)の「尾久の渡し」付近を通る描写があります。(これについてはBRÜCKEに置かれているフリーペーパー「小台マガジン」第二号に少しばかり書きました。)
かつてこの渡し場があった付近に架けられているのが現在の小台橋であり、ドイツ語で橋を意味するBRÜCKEという店名はこの橋から採られたものです。
生理的嫌悪を原動力にしたお島と同じではありませんが、理想や志ではなく、ただこのお店で句会をやってみたいという気持ちのみを元手に、ともかくもスタートしてみたいと思いました。
そして、この小台という土地に打ち込んだ一本の杭に、いろんな人のさまざまな思いが、色とりどりのリボンのように結び付けられていくのを、それがふたつの河を渡ってきた風をはらんで、千切れんばかりにはためくのを見たいと思います。
◆第一回「あらくれ句会」
・日時:2014年11月28日(金)19時開始予定
・会場:BRÜCKE
都電荒川線: 小台で下車。北に徒歩10分。
日暮里・舎人線: 足立小台駅下車。隅田川沿いに徒歩10分。
都バス:「東43 荒川土手行き」小台橋で下車。徒歩1分。
・参加費:無料(1オーダーお願いします。)見学可。
・二句(うち一句は兼題「凩(木枯らし等、表記自由)」を詠み込んでいただきます。)
を11月27日(木)までにメールにてお送りください。
・当日席題句を一句投句いただきます。
なお、席題は19時すぎにTwitter等でも発表しますので、遅れる方はそちらを参照してください。
・参加申し込み:こちらのリンクより、中村まで予約メールをお送りください。
詳細を折り返しメールにてお知らせいたします。
2010年10月27日水曜日
小学生の錬金術
小学生になったばかりの頃、まだ決まった額のお小遣いを貰ってはいなかった。
それがどういうものだったか、確か黄色っぽい色のちいさな、プラスチック製のものだったと思う。駄菓子屋にあった一個50円のおもちゃだが、私と弟はそれが欲しくてしかたなかった。
値段だけはっきり記憶しているのには理由がある。あちこちで拾ったりもらったりした一円玉や五円玉を壜に貯め、それがちょうど100円になったので、弟と一緒にそれを持って買いにいったのだった。しかし、家で数えたときたしかに100円あると思っていた小銭が、お店で確認すると5円足りなかった。どうしても二つ欲しかったので頼み込んで売ってもらったが、のちほど駄菓子屋から家に連絡があった。
品物を返したのか、親が残りの5円を払ったのか、その顛末は記憶していない。おそらく、手に入れてしまったおもちゃに対しての興味は、すぐに消えてしまったのだろう。
その事件のあとか先か、記憶がはっきりしないが、通学路と県道(現在は国道)の交差点に派出所ができた。警察官という存在は当時の我々にとっては非常に新鮮で、大いに好奇心をそそられたのだった。
その頃いつも、弟と、隣に住む弟の同級生のSちゃんの三人で遊んでいたのだが、あるとき三人のうちひとりが路傍で10円を拾った。もちろん、拾ったお金は警察に届けなければならないと教わっていたので、さっそく三人でそれを派出所へ届けることにした。
落とし主があらわれた場合、1割をお礼として貰えると聞いており(実際には5~20%を請求できるらしい)そうなると10円が1円になってしまうが、仕方がない。なにより、警察官と会話してみたいし、もしかしたら拳銃を見せて貰えるかもしれないなどと思っていた。
派出所の警察官は親切に応対してくれた。そればかりか、なんと、正直にお金を届けた褒美として我々三人に10円ずつくれたのである。その30円は警察官が自らのポケットマネーから出したものだったはずだ。
派出所に10円を持ってゆけば30円になる。これはお金を三倍にする錬金術(という言葉は知らなかったが)だ、という妄想が我々の頭を支配した。ならば手持ちのお小遣いを道で拾ったことにして持ってゆけば……とまではさすがに考えなかったが。
数日後だったか数週間後だったか、今度は別の一人が100円を拾った。我々は100円が300円になったら何を買おうかなどと期待しつつ、再び件の派出所へその100円を届けに行った。警察官はにこやかな表情で我々三人に、20円ずつくれたのである。
いつのまにかその派出所はなくなり、今は更地になっている。
鳥渡る空に罅なき日を選び 中村安伸
それがどういうものだったか、確か黄色っぽい色のちいさな、プラスチック製のものだったと思う。駄菓子屋にあった一個50円のおもちゃだが、私と弟はそれが欲しくてしかたなかった。
値段だけはっきり記憶しているのには理由がある。あちこちで拾ったりもらったりした一円玉や五円玉を壜に貯め、それがちょうど100円になったので、弟と一緒にそれを持って買いにいったのだった。しかし、家で数えたときたしかに100円あると思っていた小銭が、お店で確認すると5円足りなかった。どうしても二つ欲しかったので頼み込んで売ってもらったが、のちほど駄菓子屋から家に連絡があった。
品物を返したのか、親が残りの5円を払ったのか、その顛末は記憶していない。おそらく、手に入れてしまったおもちゃに対しての興味は、すぐに消えてしまったのだろう。
その事件のあとか先か、記憶がはっきりしないが、通学路と県道(現在は国道)の交差点に派出所ができた。警察官という存在は当時の我々にとっては非常に新鮮で、大いに好奇心をそそられたのだった。
その頃いつも、弟と、隣に住む弟の同級生のSちゃんの三人で遊んでいたのだが、あるとき三人のうちひとりが路傍で10円を拾った。もちろん、拾ったお金は警察に届けなければならないと教わっていたので、さっそく三人でそれを派出所へ届けることにした。
落とし主があらわれた場合、1割をお礼として貰えると聞いており(実際には5~20%を請求できるらしい)そうなると10円が1円になってしまうが、仕方がない。なにより、警察官と会話してみたいし、もしかしたら拳銃を見せて貰えるかもしれないなどと思っていた。
派出所の警察官は親切に応対してくれた。そればかりか、なんと、正直にお金を届けた褒美として我々三人に10円ずつくれたのである。その30円は警察官が自らのポケットマネーから出したものだったはずだ。
派出所に10円を持ってゆけば30円になる。これはお金を三倍にする錬金術(という言葉は知らなかったが)だ、という妄想が我々の頭を支配した。ならば手持ちのお小遣いを道で拾ったことにして持ってゆけば……とまではさすがに考えなかったが。
数日後だったか数週間後だったか、今度は別の一人が100円を拾った。我々は100円が300円になったら何を買おうかなどと期待しつつ、再び件の派出所へその100円を届けに行った。警察官はにこやかな表情で我々三人に、20円ずつくれたのである。
いつのまにかその派出所はなくなり、今は更地になっている。
鳥渡る空に罅なき日を選び 中村安伸
2010年10月21日木曜日
水晶の鹿
かつて銭湯だった建物を改装したという「SCAI THE BATHHOUSE」は、ちいさなギャラリーがたくさんあつまっている谷中一帯でも、現代美術に力を入れた展示内容で異彩を放つ存在である。
このスペースに、今は名和晃平の作品が展示されている。(10月30日まで)
建物に入ると銭湯の名残の下駄箱があるが、靴を脱ぐ必要はない。
引き扉を明けてなかに入ると、更衣室だったらしい展示室の壁は黒く塗られ、照明も暗めに落とされている。
ここに展示されているのは"Dot-Fragment_Q#2"というドローイング作品である。
部屋を一周するように飾られた白いキャンバス。その全面に、インクをこぼした痕のような点が無数に散りばめられている。
規則的であるようにみえて、その密度や濃淡はさまざまに変化し、全体を見ると波のようなリズムがあるとも感じられる。
黒い壁が長方形に切られたところから隣室の光が押し寄せてくる。その穴を抜けると、浴槽であったと思われる広い展示室がある。壁も天井も白一色に塗られ、強力な照明が展示物を照らしている。
向かって右側の壁を見ると、そこに掛けられているものは、銀色にかがやく鹿の胸像に見えた。それは透明の、大小さまざまな球体をつなげあわせ、鹿の胸部から頭部、そして立派な角を模したものと思われた。かなりの大きさのオブジェである。
近寄って見ると、そのオブジェの内側に実物の鹿の剥製が入っていることがわかった。
ふたたび離れてみると反射光の輝きに鹿の鼻や目の黒色、毛や角の茶色が反映され、モザイク処理された映像を思わせる視覚的効果がある。
この作品のタイトルが“PixCell-Double Deer”であることを後で知った。PixCellとは、デジタルカメラなどのPixell(画素)とCell(細胞・小部屋)を組み合わせた造語ということである。
同様のオブジェが向かって左側の壁にも掛けられている。そして部屋の中央には鹿の全身を同様に加工したオブジェ……そこではたと気づいたのだが、中央に置かれているのは、同じくらいの大きさの鹿を二体重ねあわせたものなのである。そして、両側の壁のオブジェも同様に、二体の鹿を重ねたものであった。
タイトルのDouble Deerというのは、このことを示している。それももちろん後でわかったことだ。
六体の鹿はすべて立派な角を持つ雄鹿である。種類や、生息地などはわからない。
表面を覆っている透明の球体は、ほとんどがビー玉ほどの大きさのアクリルであり、そのなかに混在しているテニスボール程度の大きさのものは水晶であるということだ。
天高し水晶にさかしまの鹿 中村安伸
このスペースに、今は名和晃平の作品が展示されている。(10月30日まで)
建物に入ると銭湯の名残の下駄箱があるが、靴を脱ぐ必要はない。
引き扉を明けてなかに入ると、更衣室だったらしい展示室の壁は黒く塗られ、照明も暗めに落とされている。
ここに展示されているのは"Dot-Fragment_Q#2"というドローイング作品である。
部屋を一周するように飾られた白いキャンバス。その全面に、インクをこぼした痕のような点が無数に散りばめられている。
規則的であるようにみえて、その密度や濃淡はさまざまに変化し、全体を見ると波のようなリズムがあるとも感じられる。
黒い壁が長方形に切られたところから隣室の光が押し寄せてくる。その穴を抜けると、浴槽であったと思われる広い展示室がある。壁も天井も白一色に塗られ、強力な照明が展示物を照らしている。
向かって右側の壁を見ると、そこに掛けられているものは、銀色にかがやく鹿の胸像に見えた。それは透明の、大小さまざまな球体をつなげあわせ、鹿の胸部から頭部、そして立派な角を模したものと思われた。かなりの大きさのオブジェである。
近寄って見ると、そのオブジェの内側に実物の鹿の剥製が入っていることがわかった。
ふたたび離れてみると反射光の輝きに鹿の鼻や目の黒色、毛や角の茶色が反映され、モザイク処理された映像を思わせる視覚的効果がある。
この作品のタイトルが“PixCell-Double Deer”であることを後で知った。PixCellとは、デジタルカメラなどのPixell(画素)とCell(細胞・小部屋)を組み合わせた造語ということである。
同様のオブジェが向かって左側の壁にも掛けられている。そして部屋の中央には鹿の全身を同様に加工したオブジェ……そこではたと気づいたのだが、中央に置かれているのは、同じくらいの大きさの鹿を二体重ねあわせたものなのである。そして、両側の壁のオブジェも同様に、二体の鹿を重ねたものであった。
タイトルのDouble Deerというのは、このことを示している。それももちろん後でわかったことだ。
六体の鹿はすべて立派な角を持つ雄鹿である。種類や、生息地などはわからない。
表面を覆っている透明の球体は、ほとんどがビー玉ほどの大きさのアクリルであり、そのなかに混在しているテニスボール程度の大きさのものは水晶であるということだ。
天高し水晶にさかしまの鹿 中村安伸
2010年9月30日木曜日
牛乳キャップの王
小学生の頃、キャップと呼ばれる牛乳瓶の紙蓋を収集することが流行した。
くっきりとした単色、ものによっては二色刷りで、円のなかに多少無理やりに、商品名や原材料などを記した文字が詰め込まれている。中央には日付を示すスタンプ。そのシンプルなデザインは見ていて飽きない。
メンコというものは収集したことも、それで遊んだこともないが、我々がキャップを使っておこなっていた遊戯は、メンコのそれと同じものだったようである。
机上に並べたキャップへ息をふきかけたり、あるいは、地面に並べたキャップめがけて一枚を投げつけたりして、風で裏返ったものを自分のものに出来る、といった遊びである。
このような遊びに使うためには、瓶の裏でこすって平らにするのであるが、平たくなった円の周縁部にできる余白なども面白く感じることがあった。
キャップの価値は入手の難易度で決まった。
最も価値の低いものは学校給食のときに出てくるオレンジ色の明治牛乳のキャップである。他にも雪印や森永などは比較的価値が低かった。
マイナーなもの、他の地域のものなど、入手の難しいキャップは垂涎の的であった。
また、同じ明治や森永のものでも印刷にズレがあるものとか、指でつまむための取手が付いたものなどは価値が高かった。
さて、私は、毎朝家に届けられる雪印ファミリア牛乳と給食の明治牛乳とで、最低でも一日二枚のキャップを入手できたし、家族旅行で行った淡路島で売店のおばちゃんに頼んで手に入れた貴重な物などを含め、量も価値も相当なコレクションを所持していた。
そんなある日、ある友人が持ちかけてきた話というのは、以下のようなことだった。
二人のキャップコレクションを共有ということにする。それをお菓子の空き缶に入れて、お寺の近くの(聖徳太子が掘ったという井戸のすぐ脇の)藪の中に隠しておく。
その友人のコレクションもなかなかに魅力的で、それを共有というかたちであっても自分のものにできるということが、とても素晴らしいことのように思えたのだろう。私はすぐに賛成し、上記のプランは実行に移されたのであった。
それから数日後、友人とともにコレクションを確認したところ、それは空き缶ごと消えてなくなっていた。そのときは誰かにゴミとして捨てられてしまったのであろうという結論になったのだと思う。
私は最近、ふとししたことでこの事件のことを思い出したのだが、今となってみると、空き缶ごとコレクションを盗んだのは、件の友人その人だったのかもしれないと考えついた。当時は少しも疑うことなく、彼も傷心をともにしていると思い込んでいたのだが、一度疑いはじめたら、コレクションの共有を持ちかけてきたこと自体が彼の策略だったのかもしれない、とまで思うようになった。
いまさらそのことを恨む気持ちなど全くないが、真偽を確かめてみたい気はする。しかし、その友人が果たして誰であったのか、それをどうしても思い出せないのだ。
稲妻を白磁に貼りて母を貼らず 中村安伸
くっきりとした単色、ものによっては二色刷りで、円のなかに多少無理やりに、商品名や原材料などを記した文字が詰め込まれている。中央には日付を示すスタンプ。そのシンプルなデザインは見ていて飽きない。
メンコというものは収集したことも、それで遊んだこともないが、我々がキャップを使っておこなっていた遊戯は、メンコのそれと同じものだったようである。
机上に並べたキャップへ息をふきかけたり、あるいは、地面に並べたキャップめがけて一枚を投げつけたりして、風で裏返ったものを自分のものに出来る、といった遊びである。
このような遊びに使うためには、瓶の裏でこすって平らにするのであるが、平たくなった円の周縁部にできる余白なども面白く感じることがあった。
キャップの価値は入手の難易度で決まった。
最も価値の低いものは学校給食のときに出てくるオレンジ色の明治牛乳のキャップである。他にも雪印や森永などは比較的価値が低かった。
マイナーなもの、他の地域のものなど、入手の難しいキャップは垂涎の的であった。
また、同じ明治や森永のものでも印刷にズレがあるものとか、指でつまむための取手が付いたものなどは価値が高かった。
さて、私は、毎朝家に届けられる雪印ファミリア牛乳と給食の明治牛乳とで、最低でも一日二枚のキャップを入手できたし、家族旅行で行った淡路島で売店のおばちゃんに頼んで手に入れた貴重な物などを含め、量も価値も相当なコレクションを所持していた。
そんなある日、ある友人が持ちかけてきた話というのは、以下のようなことだった。
二人のキャップコレクションを共有ということにする。それをお菓子の空き缶に入れて、お寺の近くの(聖徳太子が掘ったという井戸のすぐ脇の)藪の中に隠しておく。
その友人のコレクションもなかなかに魅力的で、それを共有というかたちであっても自分のものにできるということが、とても素晴らしいことのように思えたのだろう。私はすぐに賛成し、上記のプランは実行に移されたのであった。
それから数日後、友人とともにコレクションを確認したところ、それは空き缶ごと消えてなくなっていた。そのときは誰かにゴミとして捨てられてしまったのであろうという結論になったのだと思う。
私は最近、ふとししたことでこの事件のことを思い出したのだが、今となってみると、空き缶ごとコレクションを盗んだのは、件の友人その人だったのかもしれないと考えついた。当時は少しも疑うことなく、彼も傷心をともにしていると思い込んでいたのだが、一度疑いはじめたら、コレクションの共有を持ちかけてきたこと自体が彼の策略だったのかもしれない、とまで思うようになった。
いまさらそのことを恨む気持ちなど全くないが、真偽を確かめてみたい気はする。しかし、その友人が果たして誰であったのか、それをどうしても思い出せないのだ。
稲妻を白磁に貼りて母を貼らず 中村安伸
2010年5月12日水曜日
観劇録(5)国立文楽劇場『妹背山女庭訓』(後)
国立文楽劇場4月公演、通し狂言『妹背山女庭訓』の昼の部のクライマックス「山の段」を観終わって、全力疾走したあとのような高揚と疲れを感じていた。
しかし、都合上いちにちで昼夜両公演を観ることになっており、夜の部開始までは一時間もない。
劇場近くの店で腹ごしらえをしつつぼんやり余韻に浸っていると、たこ焼きの表面を、マヨネーズと葱がからまって滑り落ちてゆく。
今回の上演は、原作本来の構成とは少し順序が入れ替えられている。
昼の部は、蘇我入鹿によるクーデターから、その犠牲者としての雛鳥、久我之助の悲劇という、いわば物語りの本筋が描かれたのだった。
藤原鎌足、淡海親子を中心とする天智天皇方は、超人的な能力をもつ入鹿に手を出すことができない。
入鹿の弱点を突くために必要な二つのアイテム。
それらを天智天皇方が手に入れるまでの経緯を描くのが、夜の部の内容である。
入鹿には「爪黒の鹿の生き血」と「嫉妬に狂った女の生き血」を注いだ笛の音を聞くと惑乱するという、わけのわからない弱点がある。
ひとつめのアイテム「爪黒の鹿の生き血」をめぐって、猟師芝六が活躍するのが、夜の部の前半である。
この一連は、あまりにも陰惨だからだろうか、通し上演以外で演じられることは少ない。
かつて、春日大社の神鹿を殺すと「石子詰め」という残虐な刑に処せられたというのは有名で、たとえば「鹿政談」という落語にもなっている。
鎌足の家臣である猟師芝六が息子の三作とともに、爪黒の鹿を殺す場面から夜の部がはじまる。
場面が替わって、彼の住む山家となる。
そこには、御殿を追われ、失明してしまった天智天皇と、重臣、女官たちが匿われている。
芝六のもとへやってきた借金取りの証文を、大納言が和歌として読もうとするというような滑稽な演出もある。
この場面の、天智天皇が粗末な山家に起居するという趣向は、百人一首の冒頭の一首ともなっている天智天皇の御製にちなむものであろう。
幕切れの詞章には「御目もまさに秋の田の刈穂の庵の仮御殿・・・」とあり、御製の一節に天皇の視力が戻ったことが掛けられている。
さて、芝六の身替わりに石子詰の刑に処せられるところだった三作は奇跡によって助かる。
一方で、その幼い弟杉松は、鎌足および天智天皇への忠義を示すため芝六に殺されてしまう。
前編でも述べたとおり、忠義のために自らの息子を犠牲にするというのは、時代物浄瑠璃の常套的なテーマと言える。
これは、家族を犠牲にしてまでも立てる忠義の崇高さを描こうとするものだと、かつては思っていた。
しかし、今では、大切な家族を犠牲にしなくてはいけない悲しみをこそ描こうとしているのだと理解している。
忠義とは、個人の意志ではいかんともしがたい、天災のようなものなのである。
「芝六忠義」と称せられるこの段が、ことに陰惨に感じられるのは、親に殺されるのが、物心つくかつかないかの幼子だからかもしれない。
たとえば「寺小屋」の小太郎は、自分の運命を受け入れて立派に死んだと語られるが、この段の杉松は何もわからないまま、寝入っているところを父に刺殺されるのである。
*
夜の部の後半は、杉酒屋の娘お三輪を主役とした物語であり、この『妹背山女庭訓』のなかでも頻繁に上演される部分である。
お三輪が最初に登場するシーン、可憐ではあるが、やや過度なほど子どもっぽく見える。
おそらく、終盤とのギャップを狙った、人形遣い桐竹勘十郎の演技プランによるものだろう。
また、子供だからこそ、大人の女性のようなつつしみを持たず、欲望に忠実に、恋しい男をなりふり構わず追いかけるというのが、お三輪という役の性根でもあるだろう。
さて今回の上演では、物語の大団円までは描かれず、お三輪が殺害されるところで終わる。
お三輪が犠牲によって、入鹿誅殺のために必要な二つめのアイテム「嫉妬に狂った女の生き血」が、天智天皇方の手に入ることになる。
爪黒の鹿、嫉妬に狂った女、これらのアイテムが、物語を動かすため恣意的に設定されたものであることは明らかだろう。
さて、お三輪は恋する烏帽子折の求馬(実ハ藤原淡海)を追って入鹿の金殿へと到着するのだが、求馬に遭うことは出来ない。
そして官女たちから執拗にいたぶられ、恨みと嫉妬に狂乱した挙句、鎌足方の家臣である鱶七という男に突然殺害される。
この「金殿の場」をつとめる大夫は、豊竹嶋大夫。現在これ以上望むことの出来ない配役であろう。
昼の部の「山の段」や、夜の部の「道行恋苧環」など、複数の大夫が、主な登場人物を演じ分ける場面もあるが、ひとつの場面を一人の大夫が語るのが一般的である。
文楽の大夫が使う見台(床本(台本)を置くための台)は、非常に立派な漆塗りのものである。
通常は黒塗りに金蒔絵を施したものを使うが、この「金殿の場」のように、女性が主役となる場では朱塗りの見台を使うことになっている。
この朱塗りの見台が最も似合う切場語りが、豊竹嶋大夫である。
切場語りとは、切と呼ばれる重要な場面を任される最高格の大夫のことである。
文楽大夫の第一人者、竹本住大夫の芸が、よく乾いた木材のように、堅牢でゆるぎなく、それでいてかろやかな自在さをもつものだとすると、嶋大夫の芸は、濃厚さと清澄さをあわせもった吟醸酒のようなものだろう。つややかにして流麗で、心地よくゆらぐ。そして、時にどろりとした妖艶さをも醸しだす。
お三輪は、その可憐さを失う暇もなく嫉妬に身を焦がし、理不尽な刃に貫かれて憤怒する。
しかし、刃の主鱶七は、お三輪に「あっぱれ高家の北の方」と声をかけ、その功を讃えるのである。
お三輪のジェットコースターのような運命を縦糸に、劫火のような恋情を横糸に、嶋大夫が色とりどりの美声で織り上げる鮮やかな地獄絵。
その、一瞬で消え去ってしまう圧倒的な輝きを思うと、いまも胸奥がぞくりと疼くのである。
ゆふざくら大夫床本ささげもつ 中村安伸
2010年4月21日水曜日
観劇録(4)国立文楽劇場『妹背山女庭訓』(前)
近松半二他作の時代物狂言『妹背山女庭訓』は、天智天皇、蘇我入鹿、藤原淡海(不比等)といった大化改新をめぐる人物を中心に、大和国のさまざまな民間伝承を盛り込んだ大作である。
「山の段」あるいは「吉野川」と通称される「妹山背山の段」そして、お三輪という町娘を主役にした「杉酒屋」から「金殿」までの一連が有名で、歌舞伎、文楽ともに頻繁に上演されている。
しかし、いわゆる三大名作と比べて全段通しの上演が少ないのは、全体に陰惨で嗜虐的な印象が強いからかもしれない。
実際、通し上演を観たのは、今回の国立文楽劇場がはじめてである。
昼の部は、雛鳥と久我之助の出会い、鎌足の娘采女の失踪、皇位簒奪を狙う蘇我入鹿のクーデターなどが描かれる。
そして前半のクライマックスとなるのが「山の段」である。
この段は、舞台装置が非常に特徴的である。
幕が落とされると舞台全面に桜の花が咲き乱れ、その中央に青い吉野川が流れている。
向かって左の下手側は妹山、上手は背山である。
妹山には太宰の後室定高の屋敷、背山には大判事清澄の屋敷があり、両家は領地争のために対立しているという設定である。
妹山方定高の屋敷には娘雛鳥が侍女とともに雛を飾り鬱々と日を送っている。
背山の大判事屋敷には息子の久我之助がただ一人文机に向かっている。
しばらくして定高と大判事がそれぞれ蘇我入鹿のもとから難題を抱えて帰って来る。
歌舞伎での上演の際は、座頭、立女形クラスの役者が両花道より登場し、大喝采を浴びるところである。
文楽では床とよばれる大夫と三味線の座る場所が上手に設置されているが、この段では下手側にもこれが置かれる。
つまり、吉野川を中心にして舞台の機能すべてが左右に分断されているのである。
下手の床には定高役、雛鳥役の大夫と三味線一挺、上手には大判事役、久我之助役の大夫と三味線一挺がそれぞれ座る。
雛鳥と久我之助は恋仲だが、両家が対立しているために結ばれない。
この悲劇的な設定が、和製「ロミオとジュリエット」とも呼ばれる所以である。
しかし、通し上演で見るとよくわかるのだが、二人を死へと追いやるのは蘇我入鹿という強大な権力者の圧力である。
それぞれの親は、入鹿の無理難題を切り抜けるため、子息を犠牲にする判断を強いられる。
ここで興味深いのは、対立しているにもかかわらず、両家それぞれが相手方の子を助けるため、自らの子を殺そうとするところである。
いとうせいこう氏がツイッターで、文楽の女性や子供をモノのように扱う演目を批判していたが、このくだりなどはまさにその代表例といえるだろう。
また、争って自分の子を犠牲にしようとするところなど、一見すると美しい自己犠牲のようでもあるが、意地悪く見れば相手方に借りをつくりたくないのだともとれる。
現代の感覚からすると、違和感をぬぐいきれないところではあるが、それでもこの段のもたらすカタルシスの強烈さは比類のないものだ。
定高は雛鳥の首を落とす、その一方で大判事は久我之助に腹を切らせる。
雛鳥は自分の死によって久我之助が助かるものと思い、そのことに喜び、感謝しながら絶命する。
しかし、久我之助はすでに腹に刃を突き立てていた。
ここに及んでようやく両家は和解し、瀕死の久我乃助のもとへ、雛人形の道具を嫁入り道具に見立て、雛鳥の首が川を渡って嫁入りする。
これが、いわゆる「首の祝言」である。
陰惨きわまりないこの場面が、この上なく美しく感じられるのは、奇跡のような人形の動き、すなわち人形遣いの芸の力である。
雛人形の乗物に、姫の首を載せる台を白い布で結びつける作業を侍女たちが黙々と行う。
こうした無駄とも思える動作を、ゆっくり時間をかけて見せるところにこそ、文楽の芸の見せどころがあるのだと思う。
一見したところなんでもない、しかし実に研ぎ澄まされた所作から、なんとも言えぬ愛惜の情が、自然と染み渡ってくるのである。
歌舞伎でもこの段は何度か観たが、文楽のほうに軍配を上げたいという思いがする。
それは、役者は本物の死体になることができないという一点による。
人形はもともと命のないものだから、舞台の上でほんとうに死ぬことができる。
もちろん人形遣いが、その奇跡的な芸によって人形に命を与えるからこそ、死の表現にも説得力が生まれるのである。
大判事清澄が血を吐くような台詞で嘆く後ろで、雛鳥の首をひしと抱きかかえている瀕死の久我乃助の姿の哀切さ。
首となった雛鳥はすでに人形遣い吉田簑助の手を離れているが、やはり吉田簑助の芸のうちにあるのだ。
手鏡に映りし桃も脳のうち 中村安伸
「山の段」あるいは「吉野川」と通称される「妹山背山の段」そして、お三輪という町娘を主役にした「杉酒屋」から「金殿」までの一連が有名で、歌舞伎、文楽ともに頻繁に上演されている。
しかし、いわゆる三大名作と比べて全段通しの上演が少ないのは、全体に陰惨で嗜虐的な印象が強いからかもしれない。
実際、通し上演を観たのは、今回の国立文楽劇場がはじめてである。
昼の部は、雛鳥と久我之助の出会い、鎌足の娘采女の失踪、皇位簒奪を狙う蘇我入鹿のクーデターなどが描かれる。
そして前半のクライマックスとなるのが「山の段」である。
この段は、舞台装置が非常に特徴的である。
幕が落とされると舞台全面に桜の花が咲き乱れ、その中央に青い吉野川が流れている。
向かって左の下手側は妹山、上手は背山である。
妹山には太宰の後室定高の屋敷、背山には大判事清澄の屋敷があり、両家は領地争のために対立しているという設定である。
妹山方定高の屋敷には娘雛鳥が侍女とともに雛を飾り鬱々と日を送っている。
背山の大判事屋敷には息子の久我之助がただ一人文机に向かっている。
しばらくして定高と大判事がそれぞれ蘇我入鹿のもとから難題を抱えて帰って来る。
歌舞伎での上演の際は、座頭、立女形クラスの役者が両花道より登場し、大喝采を浴びるところである。
文楽では床とよばれる大夫と三味線の座る場所が上手に設置されているが、この段では下手側にもこれが置かれる。
つまり、吉野川を中心にして舞台の機能すべてが左右に分断されているのである。
下手の床には定高役、雛鳥役の大夫と三味線一挺、上手には大判事役、久我之助役の大夫と三味線一挺がそれぞれ座る。
雛鳥と久我之助は恋仲だが、両家が対立しているために結ばれない。
この悲劇的な設定が、和製「ロミオとジュリエット」とも呼ばれる所以である。
しかし、通し上演で見るとよくわかるのだが、二人を死へと追いやるのは蘇我入鹿という強大な権力者の圧力である。
それぞれの親は、入鹿の無理難題を切り抜けるため、子息を犠牲にする判断を強いられる。
ここで興味深いのは、対立しているにもかかわらず、両家それぞれが相手方の子を助けるため、自らの子を殺そうとするところである。
いとうせいこう氏がツイッターで、文楽の女性や子供をモノのように扱う演目を批判していたが、このくだりなどはまさにその代表例といえるだろう。
また、争って自分の子を犠牲にしようとするところなど、一見すると美しい自己犠牲のようでもあるが、意地悪く見れば相手方に借りをつくりたくないのだともとれる。
現代の感覚からすると、違和感をぬぐいきれないところではあるが、それでもこの段のもたらすカタルシスの強烈さは比類のないものだ。
定高は雛鳥の首を落とす、その一方で大判事は久我之助に腹を切らせる。
雛鳥は自分の死によって久我之助が助かるものと思い、そのことに喜び、感謝しながら絶命する。
しかし、久我之助はすでに腹に刃を突き立てていた。
ここに及んでようやく両家は和解し、瀕死の久我乃助のもとへ、雛人形の道具を嫁入り道具に見立て、雛鳥の首が川を渡って嫁入りする。
これが、いわゆる「首の祝言」である。
陰惨きわまりないこの場面が、この上なく美しく感じられるのは、奇跡のような人形の動き、すなわち人形遣いの芸の力である。
雛人形の乗物に、姫の首を載せる台を白い布で結びつける作業を侍女たちが黙々と行う。
こうした無駄とも思える動作を、ゆっくり時間をかけて見せるところにこそ、文楽の芸の見せどころがあるのだと思う。
一見したところなんでもない、しかし実に研ぎ澄まされた所作から、なんとも言えぬ愛惜の情が、自然と染み渡ってくるのである。
歌舞伎でもこの段は何度か観たが、文楽のほうに軍配を上げたいという思いがする。
それは、役者は本物の死体になることができないという一点による。
人形はもともと命のないものだから、舞台の上でほんとうに死ぬことができる。
もちろん人形遣いが、その奇跡的な芸によって人形に命を与えるからこそ、死の表現にも説得力が生まれるのである。
大判事清澄が血を吐くような台詞で嘆く後ろで、雛鳥の首をひしと抱きかかえている瀕死の久我乃助の姿の哀切さ。
首となった雛鳥はすでに人形遣い吉田簑助の手を離れているが、やはり吉田簑助の芸のうちにあるのだ。
手鏡に映りし桃も脳のうち 中村安伸
2010年4月14日水曜日
桜花の表情
東京の桜はほとんど葉桜となった。
桜はその散り際の潔さを褒められるけれど、散りつつある花と、力強い芽吹きの同居する葉桜の逞しさもまた面白い。
「葉桜の中の無数の空さわぐ 篠原梵」という句は、そのような葉桜の生命感を言いとめたものであろう。
言うまでもないが、桜が最も人の目を惹くのは、満開のときである。
「想像のつく夜桜を見に来たわ 池田澄子」という句があるように、例年の桜の花の記憶から、只今咲いているであろう桜の様子を類推したりするが、眼前にした実際の花は、常に想像を裏切る。
まず、その年の気候によって桜の咲き具合は異なる。
「満開」という言葉は同じでも、短期間に一斉に花をひろげた場合と、少しづつ花を咲かせていった場合とでは、花の密度が違う。
前者の、ずっしりと重みのありそうな花房を、木の全体に満遍なくつけた様子は見事で、数年に一度しか見られないものだ。
頭上を覆いつくす万朶の花を見上げていると、そのまま空の中心へ向けて落下していったとしても、花のクッションがやわらかく受け止めてくれるだろう、などと思ったりもする。
桜は赤みを帯びた白い花で、光をよく反射する。だから気候や時間帯など、光線の加減によって、その見え方が大きく変化する。
晴れた日の昼間、降り注ぐ強い光を浴びて白く輝く満開の桜は、最高の存在感を示す。
朝のうちの引き締まった空気のなかでは、桜はなにかの結晶のように清らかである。
夕桜は日の暮れてゆくにしたがって刻々とその表情を変えていくが、私が最も愛するのは、すこし日が傾いたころ、野山とともにやわらかなオレンジ色に染まりつつある桜である。
桜はその散り際の潔さを褒められるけれど、散りつつある花と、力強い芽吹きの同居する葉桜の逞しさもまた面白い。
「葉桜の中の無数の空さわぐ 篠原梵」という句は、そのような葉桜の生命感を言いとめたものであろう。
言うまでもないが、桜が最も人の目を惹くのは、満開のときである。
「想像のつく夜桜を見に来たわ 池田澄子」という句があるように、例年の桜の花の記憶から、只今咲いているであろう桜の様子を類推したりするが、眼前にした実際の花は、常に想像を裏切る。
まず、その年の気候によって桜の咲き具合は異なる。
「満開」という言葉は同じでも、短期間に一斉に花をひろげた場合と、少しづつ花を咲かせていった場合とでは、花の密度が違う。
前者の、ずっしりと重みのありそうな花房を、木の全体に満遍なくつけた様子は見事で、数年に一度しか見られないものだ。
頭上を覆いつくす万朶の花を見上げていると、そのまま空の中心へ向けて落下していったとしても、花のクッションがやわらかく受け止めてくれるだろう、などと思ったりもする。
桜は赤みを帯びた白い花で、光をよく反射する。だから気候や時間帯など、光線の加減によって、その見え方が大きく変化する。
晴れた日の昼間、降り注ぐ強い光を浴びて白く輝く満開の桜は、最高の存在感を示す。
朝のうちの引き締まった空気のなかでは、桜はなにかの結晶のように清らかである。
夕桜は日の暮れてゆくにしたがって刻々とその表情を変えていくが、私が最も愛するのは、すこし日が傾いたころ、野山とともにやわらかなオレンジ色に染まりつつある桜である。
その一塊をすこし離れたところからぼんやりと眺めていると、魂がそこらをふわふわと漂ってゆくようななつかしさを感じて、陶然とさせられる。
曇り空の下では、桜はその存在感を薄れさせてしまう。
そして、輝きが弱まる分、やや赤みが強く感じられる。雨にうたれる桜には、艶然とした風情がある。
夜桜は、月や星や街の光、あるいは照明のわずかな光を吸い、うっすらとした妖気とともに吐き出している。
夜桜にも、もちろん天候の影響がある。
人工の照明のない、天然光のみに照らされた夜桜を観た経験はないので、もっぱら市中の夜桜についてだが、曇りの日には街の光が雲に反射し、花の吐きだす光が薄れてしまう。
多くの場合、桜の木の近くにもなんらかの照明があるが、それはシンプルな白い光がよく、色とりどりの雪洞や提灯などを吊って照らすのはあまり品のよくないことだと感じる。
曇り空の下では、桜はその存在感を薄れさせてしまう。
そして、輝きが弱まる分、やや赤みが強く感じられる。雨にうたれる桜には、艶然とした風情がある。
夜桜は、月や星や街の光、あるいは照明のわずかな光を吸い、うっすらとした妖気とともに吐き出している。
夜桜にも、もちろん天候の影響がある。
人工の照明のない、天然光のみに照らされた夜桜を観た経験はないので、もっぱら市中の夜桜についてだが、曇りの日には街の光が雲に反射し、花の吐きだす光が薄れてしまう。
多くの場合、桜の木の近くにもなんらかの照明があるが、それはシンプルな白い光がよく、色とりどりの雪洞や提灯などを吊って照らすのはあまり品のよくないことだと感じる。
夜桜は青山や谷中などの墓地で見るのが好きだ。
雪洞や提灯は無く、照明の具合が良いということもあるが、無数の死者の存在感が、桜の吐きだす妖気を濃密に感じさせてくれるからだろう。
満開の桜を見ると、おおげさだが、自分は桜の花を見るためだけに生きていて、残りの季節はその幻影を言葉にしているだけなのではないかと思うことがある。
光に応じて無数の表情を見せる桜の花は、自らの内面のあらゆる情感を反射し、浄化してくれるのではないか、そして、まだ観ぬ無数の花の表情を追い求めることで、あらゆる美を垣間見ることができるのではないか、そんな期待を込めて次の桜を捜す。
花万朶息を吸ふとは光を吸ふ 中村安伸
満開の桜を見ると、おおげさだが、自分は桜の花を見るためだけに生きていて、残りの季節はその幻影を言葉にしているだけなのではないかと思うことがある。
光に応じて無数の表情を見せる桜の花は、自らの内面のあらゆる情感を反射し、浄化してくれるのではないか、そして、まだ観ぬ無数の花の表情を追い求めることで、あらゆる美を垣間見ることができるのではないか、そんな期待を込めて次の桜を捜す。
花万朶息を吸ふとは光を吸ふ 中村安伸
2010年4月1日木曜日
青春ラジカセ
「NHK青春ラジカセ」というサイトに、かつて放送されていたNHK-FMの番組「サウンドストリート」がアーカイブされていることを知った。しかも、その公開が3月末で終了ということだったので、慌てて何本か聴いてみた。ちなみにこの記事を書いている4月1日午前4時現在、まだサイトは生きているようである。
アーティストや女優、音楽評論家といった人々がDJをつとめていたこの番組は、1978年から87年、つまり私が小学~中学生だった頃に放送されていたものである。当時継続的なリスナーではなかったが、折々に自然と耳に入ってきていた記憶がある。
81年3月に5回にわたって放送された「坂本教授の電気的音楽講座」は、坂本龍一がローランドMC-8というシーケンサーや、プロフェット5、アープ・オデッセイといったアナログシンセサイザーを駆使して、当時としては最先端の電子音楽を制作していく過程を記録したものであり、非常に資料的価値の高いものだと思う。ドラムはチキチキというハイハット音だけをプロフェット5で作成して自動演奏し、他のパートは教授自身がドラムセットを叩いていた。また、シーケンサーへのデータ入力は、プログラマーが音を数値化し、キーを叩いて文字通り「打ち込んで」いた。
もちろん単純に比較すべきものではないが、最近観たこの動画では、applegirlと名乗る女性が、数台のiPhoneを使ってLady gagaの「Poker Face」を再現する様子が記録されていて、その手軽さに隔世の感をおぼえた。
80年12月放送の烏丸せつこDJの第一回では、冒頭、彼女に交代した先代DJ甲斐よしひろのファンから送られた抗議ハガキが読まれ「おまえなんか大嫌い!」という文面に対して烏丸が「私もあんたなんか大嫌い」とかえすという、スリリングな展開が繰り広げられていた。
87年3月放送の、佐野元春DJの最終回とその前回は、多くのリスナーと直接電話で会話し、番組や元春へのメッセージをもらうという内容だった。電話口に出てくるリスナーたちの声や言葉がとてもキラキラした感じで、素敵だった。
私の文体も若干80年代っぽくなってしまったようだが、昔のテレビ番組の動画をyoutube等で観る場合に較べ、ラジオ番組などの音源は、同じ年代のものであっても、より鮮度が高い気がする。
アナログメディアの信号劣化などは別として、動画の場合、たとえば画面の端々に映る衣装や髪型などから「印象の経年劣化」がはじまるのだろう。そして、大雑把にいえば、情報集積度の高いメディアのほうが劣化しやすいという法則がありそうな気がする。そういう意味では、俳句などは最も劣化しにくい類のものなのかもしれない。もちろん、はじめから劣っている場合はどうしようもない。
春雪や江ノ島姉妹解体ショー 中村安伸
2010年2月10日水曜日
Twitter読書会『新撰21』第一回のご報告 中村安伸
2/6(土)Web同人誌、haiku&me特別企画として、Twitter読書会『新撰21』 第一回 「越智友亮+小野裕三」を実施しました。
多くの方にご参加いただくことができ、感謝しております。
当日の発言記録はこちらをご覧下さい。
さて、読書会では越智友亮の俳句の魅力や特徴について、さまざまな意見を交わすことができ、たとえば、以下のような意見があがりました。
水や地球といった題材を、独自の感性で認識しようとした句が目立つ。
接続詞によって時間の経過を取り入れる独自の文体がある。
身近な人との関わりを淡い色調で描いている。
季語の取り合わせに無理や、カッコつけたようなところがない。
また、小野裕三の小論について、若い世代の俳人たちに向けて「俳句想望俳句」という言葉を使って批評していることに注目が集まりました。
さて、今回、はじめての試みでもあり、次回以降に向けて運営上の課題点もいろいろと浮き彫りになったことも確かでしょう。
もともとこの読書会は「haiku&me」のメンバー三人での座談会をやろうという企画からスタートしています。
最初は実際に集まるか、あるいはチャットで、という話だったのが、いつのまにかTwitterを使っての読書会というかたちに決まったのは、新年会の勢いにまかせてのことだったかもしれません。
あらためて他の方法と比較検討してみると、チャットとの違いは、誰でも参加でき、発言がそのまま公開されてしまうというオープン性にあると思います。
実際に想像していたよりも多くの方のご発言を得ることができましたし、傍聴のみの方も、数を把握することは出来ないが、かなりいらっしゃったようです。
一方で、発言がそのままのかたちで公開されてしまうということについて、敷居を高く感じた方もいらっしゃったでしょう、実際、ご発言いただいた方々は、普段からある程度Twitterでの発言を行なっている方がほとんどでした。
BBSを使った場合でもオープンに参加者をつのり、そのまま発言を公開するということが出来た筈です。これに対してTwitterを差別化することは難しいですが、強いて述べるなら、次のような特徴があげられるのではないでしょうか。
各発言者のフォロワーのTLに、断片的ながら読書会関連の発言が表示されることになります。これが、俳句に関心を持っていない人に対して、意外なつながりを呼び起こす可能性があるのではないかということです。
Twitterそのものの注目度が高いということも、他のシステムと比較した際のアドバンテージとして挙げてよいでしょう。
座談会あるいはチャットでやろうとしたことをTwitterに置き換えるところから出発したせいか、実際にやってみると、やはりチャットに近い雰囲気になってしまった面がありました。
発言者として感じた問題点としては、自分の意見をまとめ、発言することと、他の参加者の発言を読み、返信するということを同時に行う必要があったため、すこし慌ただしく感じたということがあります。
後述するTwitterのシステム上の不具合もあり、思うように発言出来なかった方もいらっしゃったのではないでしょうか。
また、スケジュールの都合上、終盤のみのご参加になってしまった方もいらっしゃっいました。
上記の問題点に対し、私がいま考えている対応策の案を挙げます。
ある程度の密度の評をまとめて発表することと、他者の評を読み、反応するということを同時にこなすということは、かなり難しいので、その二つはできるだけ分けたいと思っています。
参加者は可能な限り事前に評や意見をまとめ、発言しておく。そして、リアルタイム会議の時間帯は、議論を中心に行うというかたちにすれば良いのではないでしょうか。
リアルタイムと非リアルタイムの会議を用意することで、会議中の慌ただしさを緩和し、スケジュールの合わない方にも、意見表明の場を設けるという二つの効果が期待できると思っています。ハッシュタグを分ける必要があるかどうかは、もう少し検討が必要でしょう。
もうひとつはシステム的な問題。
読書会の最中に、一部の方から、ハッシュタグを用いた検索に不具合があるという声が聞かれました。これはTwitter側の一時的な障害であることが判明したのですが、土曜日の夜という混雑時間帯に行うことを考慮すると、次回以降も何かしらの障害が発生しないとも限りません。
今回の障害は、TweetDeckという専用ソフトを使っていた私には影響がなく、Internet Explorerを使用していた方のみの問題であったようです。他のブラウザやTwitter専用ソフトを導入し、Twitterに接続する方法を複数用意しておくことにより、問題回避できる可能性があります。
以上の対策は現時点での私の案であり、ご意見はこの記事へのコメント、あるいはTwitterで #ss21mng タグを付けてご発言いただければ幸いです。
なお、第二回読書会については詳細がかたまり次第ご案内いたします。
2010年2月4日木曜日
雪の積もった日
ひとつの完成された作品のように記憶されている幼い頃の一日、というのがいくつかある。
一日というよりはもうすこし短い単位かもしれない。
どんな行動をして、周囲にいた友達が誰で、どんな会話をしたか等は、ほとんど忘れてしまっている。
ただ、その日の光と空気の感じは、はっきりと皮膚に残った感覚として思い出すことができる。
畦道で袋いっぱいに採っても尽きないほどの土筆に笑い転げた日とか、長い旱のあと黒雲がうねりながらやって来た夏休みの終わりの日とか、二十人ばかりが二手にわかれて火のような曼珠沙華を投げつけあった日とか。
共通しているのは、そのときの私の気分である。
それを反芻しようとすると、途端にざわざわとした昂揚感が甦ってくる。
なかでも雪の日の記憶がとりわけ多く、また記憶の鮮度も高いような気がする。
私の生まれ育った土地では、年に数回ほど雪の積もることがある程度で、見渡す限りすべてのものが真っ白に覆われるというのは、やはり珍しい光景だった。
ほんとうに小さいときには雪だるまを作って炭の目鼻をつけたりもしたし、学校の授業を中断してクラスで山に登った記憶もある。
凍りついた沼の上を覆っているたいらな雪や、樹木の黒々とした幹とまっしろな雪のつくる不可思議な文様とか、一塊のひかる雪を支える笹の細かな枝ぶりとか。
なにひとつ事件らしいことは起きなかったとしても、さまざまな細部をこそくっきりと記憶させられている。
雪の積もった日というのは、私にとってはそのようなものである。
雪といふ透明な音つもりゆく 中村安伸
一日というよりはもうすこし短い単位かもしれない。
どんな行動をして、周囲にいた友達が誰で、どんな会話をしたか等は、ほとんど忘れてしまっている。
ただ、その日の光と空気の感じは、はっきりと皮膚に残った感覚として思い出すことができる。
畦道で袋いっぱいに採っても尽きないほどの土筆に笑い転げた日とか、長い旱のあと黒雲がうねりながらやって来た夏休みの終わりの日とか、二十人ばかりが二手にわかれて火のような曼珠沙華を投げつけあった日とか。
共通しているのは、そのときの私の気分である。
それを反芻しようとすると、途端にざわざわとした昂揚感が甦ってくる。
なかでも雪の日の記憶がとりわけ多く、また記憶の鮮度も高いような気がする。
私の生まれ育った土地では、年に数回ほど雪の積もることがある程度で、見渡す限りすべてのものが真っ白に覆われるというのは、やはり珍しい光景だった。
ほんとうに小さいときには雪だるまを作って炭の目鼻をつけたりもしたし、学校の授業を中断してクラスで山に登った記憶もある。
凍りついた沼の上を覆っているたいらな雪や、樹木の黒々とした幹とまっしろな雪のつくる不可思議な文様とか、一塊のひかる雪を支える笹の細かな枝ぶりとか。
なにひとつ事件らしいことは起きなかったとしても、さまざまな細部をこそくっきりと記憶させられている。
雪の積もった日というのは、私にとってはそのようなものである。
雪といふ透明な音つもりゆく 中村安伸
2010年1月27日水曜日
新年会(句会報)
自己紹介では、それぞれ俳句をはじめたきっかけを語り、代表句を披露することとなった。これによって俳人の集まりらしい雰囲気になったと思う。
さて、飲み会終了後、近くのルノアールに移動して二次会となったのだが、葉月氏が懐中より細長い紙束を取り出し、句会をやらねば帰すまじという気魄で皆に押し付けるので、急遽句会が行われることになった。ちなみに十名全員が二次会に参加してくださったのはありがたいことである。
題詠、二句以上出句、閉店まで時間があまり無かったので、清記せず短冊をそのまま回す方式をとった。席題は松本てふこ氏出題の「新」そして、浜いぶき氏出題の「針」の二つである。一人あたり6句投句した人が二名、合計34句が投句された。
以下に各作者の句を1,2句ご紹介してゆきたい。なお、当日選評の時間がなかったため、各句に私の評を付しておく。当日参加者のみなさまはコメント欄に選評を記していただければ幸いである。もちろん参加者以外の方からのコメントもお待ちしております。
大寒や短針も長針も好き 上野葉月
時計の針フェチという性向はなかなかニッチなものであろうが、一方で「短針も長針も」と意外におおらかな面を見せている。「大寒」の緊張感が効いている。
(五点句、毬子、隆、いぶき、茂根、安伸選)
初桜レコード針の落つる場所 上野葉月
漆黒のレコード盤に吸い込まれるように落ちて行くレコード針。初桜というややロマンチックな季語もいい。レコードの黒に初桜の白と、色彩的なとりあわせとしても効果的である。
(二点句、隆特選、いぶき選)
運針表貼られて壁や冬日さす 山口珠央
中七の倒置の効果で、やわらかな冬の日差しのはいりこんだ室内の景が見えてくる。見事にライティングされた映画のよう。
(五点句、葉月、隆、いぶき、猿丸、安伸選)
盤上のレコード針や冷ややかに 山口珠央
とりあわせが見事だった葉月句と対照的に、こちらはレコード針そのものに視点を絞り込んだ。ともあれ、アナログレコードはhaiku&me的に重要なアイテムである。
(三点句、葉月、隆、安伸選)
釘打って日時計の針日短 興梠隆
釘が針となる。日短の日時計。ズレと繰り返しの妙。
(四点句、葉月、てふこ、いぶき、安伸選)
新曲を集めて駄盤冬ぬくし 興梠隆
安易な企画もののベスト盤であろうか。駄盤と言いながらも憎めない感じがするのは「冬ぬくし」の効果であろうか。
(三点句、葉月、安伸、猿丸選)
針山の綿はみ出して久女の忌 松本てふこ
最高得点句二つのうち一つだが、特選がある分こちらが上位と言える。久女の「足袋つぐやノラともならず教師妻」へのオマージュとも。忌日の句としてはちょうど良い距離感か。
(六点句、珠央特選、毬子、隆、茂根、猿丸、安伸選)
霜柱新しさうに輝けり 松本てふこ
シンプルにして鮮明な景。その一方で「新しさう」という言い方に「新しい」という概念への批評を感じる。私は当日並選としたが、報告者の特権によりあらためて特選とします。
(三点句、安伸特選、葉月、茂根選)
白鳥に戦争写真は新しい 九堂夜想
上五は「白鳥にとって」というように解釈するのだろうが、そのように限定しないほうがいい気がする。「戦争写真は新しい」というフレーズが、戦争写真そのものの人の心に及ぼす深い影響の、一側面を鋭くとらえているからである。上五で切れるかたちのほうが、私にとってより好ましい句となる。
(三点句、毬子、てふこ、安伸選)
針てふ蝶へ蝶へと招く空 吉村毬子
「針てふ」と言いはじめた言葉の音韻が「蝶」を招き寄せ、さらに蝶が「空」を招く。言霊ということを最も感じた句である。音数を整えつつどこかに捻りを作れば、もっと素晴らしい句になるのではないか。
(二点句、夜想、安伸選)
まち針の頭(ず)のぎつしりと星冴ゆる 浜いぶき
明瞭な景に見事に季語がはまったということか。収縮から開放へのダイナミックな展開がすごい。「頭」へ「冴ゆる」が響いて、世界がクリアにひきしめられた感もある。これも後付の特選とします。
(四点句、安伸特選、毬子、隆、猿丸選)
梟のむかふは新たなる塔と 青山茂根
闇の中にくろぐろと聳える「新たなる塔」はやはり、人間の欲望を象徴しているだろうか。梟のひそやかな飛翔は、闇夜を司る王の遷宮といったところか。建造中の東京スカイツリーをちょっと思い出した。夜、間近で見ると魘されるんじゃないかと思うほどデカいです。
(五点句、毬子、夜想、珠央、猿丸、安伸選)
秒針の跳ねて震へや春隣 榮猿丸
葉月氏の句では存在を無視されてしまった秒針だが、その動作の面白さを中七に凝縮した。「震へや」と体言+やにしたところ、下五の「春隣」とも相俟って、かろやかな昂揚感を引き出している。とてもキュートな一句。これも後付の特選としよう。
(五点句、安伸特選、葉月、隆、てふこ、珠央選)
最後に拙句をひとつ挙げさせていただきます。(六点句、隆、てふこ、珠央、いぶき、茂根選)
新宿に廃墟ありけり宝船 中村安伸
2010年1月13日水曜日
大会(秘宝館)
昨年11月、奈良でライブをしたときの記事でご紹介した二人の友人、小学校以来の幼なじみであるY氏、中学からの親友であるM氏の二人とともに、例年行なっている「大会」という行事がある。
各人がレポート用紙数枚に、一年後の自分たち三人に向けてのメッセージを記す。
昨年記した文書を開封して読み、今年の文書を作成し封印するまでの一連の儀式を、一泊二日程度の旅行に出かけて行うのである。
高校生のとき私の実家を会場にはじめたものだが、今回21回目を迎えることになった。
メンバー三人が持ち回りで幹事をつとめており、今回は私の番である。
ちなみに私が主催したときは開催地に関わらず「東京大会」と呼ぶ。Y氏主催のときは「広島大会」、M氏のときは「奈良大会」である。この名称はそれぞれが大学時代を過ごした土地にちなんでいる。
今回は熱海が会場であるため「第21回 東京大会 in 熱海」という名称となる。
熱海の海沿いにあるホテルに現地集合し、食事前に開封の儀を執り行った。
各自昨年の大会のときに執筆した文書を読み、感想やこの一年間の出来事を語り合う。ちなみに昨年の「奈良大会」は渥美半島の田原市にて3月に行われた。
今回は大会の他にもやらなくてはいけないことがあった。
Y氏作曲の新曲に私が詞をつけることになっているのだが、その第一稿へのダメ出しの会がそれである。
作詞ははじめてながら、思ったよりも良い詞が書けたと自身を持っていたのだが、二人の、特にM氏からのダメ出しはかなり厳しかった。共同創作ということは楽しいが、難しさも当然ある。
作詞者として私の名がクレジットされるとはいえ、出来上がった歌は作曲者のものでもあり、演奏者のものでもある。
したがって彼らは、俳句で他人の作品を批評する場合とは違い、自分の作品として批評を加えてくるのである。
当然矛先も鋭いし、言い方にも遠慮はない。
加えて、もっと基本的なことだが、言葉を音にあわせることの難しさがある。音より言葉が余るようにしたほうがいいと言われたのは意外だった。
二日目は朝から三人で海岸を散歩した。
お約束だが、貫一、お宮の像の前で私が貫一役、M氏がお宮役としでポーズをとり、写真を撮影してみた。
チェックアウト後、伊豆山という、熱海の北端側の山にある神社に向かった。
ここには源頼朝、北条政子に縁のある石などがある。
続いて熱海の南端の岬のような場所に建つ、鉄筋コンクリートの城、熱海城に向かった。昭和30年代に作られたこの城には、甲冑やマッチ棒で作った城郭の模型、浮世絵を複製したパネルなんかが飾られていて、なかなか良い感じにいかがわしい場所だった。
そして、歩いてすぐのところにある熱海秘宝館へ向かった。
かつては全国各地の温泉街にこうした秘宝館があったらしいが、多くはすでに閉じられてしまったようである。
展示物は男三人で見て回るには、なんとも微妙なものが多かった。何組かの若いカップルがいて、それなりに楽しそうにしていた。
BGMとして流れているムード歌謡調の「熱海秘宝館のテーマ」がとても気になってしまい、調べてみると「サロメの唇」というグループが近年、この歌をカヴァーし、CD化したという。
秘宝館をあとにして、熱海駅へ向かった。
昼食のあと駅前ビルにある喫茶店でコーヒーを飲みながら、各自の文書を封筒におさめ、封印し、一連の儀式は終了である。
封筒に表書き、裏書を行うM氏の達筆を店員の女性が覗いていた。
絨毯の深くもあらぬ秘宝館 中村安伸
2010年1月7日木曜日
暗峠
去年今年ただひろがつてゆく卓布 中村安伸
一月二日、徒歩での暗峠越えを思いつき、大阪側の近鉄枚岡駅を午前11時半頃スタートした。
駅近くの枚岡神社は初詣の客で賑わっていたが、喪中のため参拝はせず。
国道308号というのが暗峠を越す道である。はじめは住宅街の中を急峻な道が続く。
臨終の地となった大阪へ、奈良方面から暗峠を越えてきた芭蕉の逆の道順をたどる。周囲が山道の雰囲気となってきた頃、その芭蕉の句碑があった。

峠に至るまで急坂が続き、ゆっくりと歩いていてもすぐに息があがってしまい、あまり写真を撮る余裕もなかった。
途中やや平坦になったところにあった地蔵堂が印象的だった。

峠が近づくと人家も増えて、棚田がひろがっている。有名な石畳は数百メートルほど。
奈良側から大阪側をのぞむ。

奈良側への道をおりてゆくと、やはり美しい棚田が広がっている。

このまま308号を降りると、近鉄生駒線の南生駒駅に至るのだが、途中で昼食に入った手打ちうどん店の店主から、北の宝山寺方面へ至る道があることを教えてもらい、そちらへ向かうことにした。
生駒山中腹を横断する道より生駒山頂方面をのぞむ。

道沿いに山荘が点在している。ペット焼却場に反対する地元自治会の看板などもある。
やがて宝山寺の参道にぶつかり、まもなく宝山寺駅に到着、日本最古といわれるケーブルカーで生駒駅へ。
一月二日、徒歩での暗峠越えを思いつき、大阪側の近鉄枚岡駅を午前11時半頃スタートした。
駅近くの枚岡神社は初詣の客で賑わっていたが、喪中のため参拝はせず。
国道308号というのが暗峠を越す道である。はじめは住宅街の中を急峻な道が続く。
臨終の地となった大阪へ、奈良方面から暗峠を越えてきた芭蕉の逆の道順をたどる。周囲が山道の雰囲気となってきた頃、その芭蕉の句碑があった。

峠に至るまで急坂が続き、ゆっくりと歩いていてもすぐに息があがってしまい、あまり写真を撮る余裕もなかった。
途中やや平坦になったところにあった地蔵堂が印象的だった。

峠が近づくと人家も増えて、棚田がひろがっている。有名な石畳は数百メートルほど。
奈良側から大阪側をのぞむ。

奈良側への道をおりてゆくと、やはり美しい棚田が広がっている。

このまま308号を降りると、近鉄生駒線の南生駒駅に至るのだが、途中で昼食に入った手打ちうどん店の店主から、北の宝山寺方面へ至る道があることを教えてもらい、そちらへ向かうことにした。
生駒山中腹を横断する道より生駒山頂方面をのぞむ。

道沿いに山荘が点在している。ペット焼却場に反対する地元自治会の看板などもある。
やがて宝山寺の参道にぶつかり、まもなく宝山寺駅に到着、日本最古といわれるケーブルカーで生駒駅へ。
2009年12月25日金曜日
観劇録(3)歌舞伎座『大江戸りびんぐでっど』
歌舞伎役者たちが現代の劇作家、演出家と組んで、新作や古典の新演出を行う例が増えている。
最も積極的にそれを行っているのが中村勘三郎のグループで、これまでで一番の成功例が野田秀樹と組んだ『野田版 研辰の討たれ』(2001)だったと思う。
小劇場と呼ばれた現代演劇のスタイルを歌舞伎座で、歌舞伎役者を使ってやってみたら、思いのほかうまく行ったというのが、この『野田版研辰』を観たときの印象であった。もちろん女形も登場する舞台が現代演劇「そのまま」な筈はなく、歌舞伎に蓄積された様式的演出を現代演劇に融合させるためにさまざまな工夫がされているに違いない。野田と勘三郎それぞれのセンスと相互理解、そして初の試みに立ち向かうことの緊張感などがうまく作用したのだろう。もちろん観客の側も初の試みに対する新鮮さがあった。
勘三郎と現代の演出家とのコラボレーションという点では、コクーン歌舞伎や平成中村座における串田和美の存在が先行している。もともと演出家が存在しない歌舞伎を、現代の演出家が、その審美眼をもって再構成するという試みは成功だった。たとえばコクーン歌舞伎「三人吉三」(2001)の終幕における蒙々たる雪煙の凄絶さは、現代演劇の美意識によるものだった。
そのようにして蓄積されたノウハウが、野田とのコラボレーションにおいても有効に働いたのだろう。
今月の歌舞伎座夜の部には、野田秀樹をフィーチャーした二作目『野田版鼠小僧』が上演されているのだが、私はこれを初演のときに観て『研辰』ほどには感心しなかったと記憶している。観客にとって新鮮さが幾分減じたということもあるかもしれない。
そして、昼の部には宮藤官九郎を作、演出に迎えた新作『大江戸りびんぐでっど』が上演されている。
私は21日(月)に一幕見席でこれを観た。
平日にもかかわらず一幕見席は朝から満席だった。約1時間ほど並んで二幕目(実際には三幕目だが、一幕、二幕目がセットで販売されていた。)の『身替座禅』から観ることにした。
『身替座禅』は三津五郎の奥方玉ノ井に愛嬌があって抜群に良かった。勘三郎の山陰右京はもちろんハマり役であり、これまで何度も観た芝居ではあるが、非常に新鮮に感じられた。
さて、目当ての『大江戸りびんぐでっど』であるが、死体が蘇ってゾンビとなり、人を食べる、そして食べられた人もまたゾンビとなるというのがこの芝居の趣向であり、宮藤の所属する劇団、大人計画の『生きてるし死んでるし』(1997)に類似している面がある。
特殊メイクのグロテスクさや頻出する下ネタに辟易したのだろうか、途中で席を立ってしまう客も散見されたが、前述の大人計画の芝居を観たことのある私は、グロテスクさ自体を特に強烈とは感じなかった。
当時の大人計画はシナリオ、演出は松尾スズキが一手に行っており、宮藤官九郎は、阿部サダヲに並ぶ看板役者の一人であった。その彼がテレビドラマ等の脚本を書いて評判となり、松尾以上に有名になってしまったのであるが、実際のところ彼のテレビドラマ、映画、演劇等はあまりきちんと観たことがない。
前述の大人計画の芝居では、よみがえった死体を「IS(生きてるし死んでるし)」と名付け、生とは死とは何かという疑問を投げかけると同時に、差別などの社会的問題を躊躇なく描くものだった。差別を扱う作品は他にもあって、観るものに痛みを感じさせるものだった。
描写がグロテスクかつ強烈であればあるほどテーマが明確になる。しかし、そこまでお付き合いいただくためには、客を惹きつけて離さない笑いの力が重要となる。大人計画においては、テンポの速い会話のなかにズレを生じさせることによって起きる笑いが最も有効なものであった。
今回の作品も、そうした笑いを取り入れようとしていることは明らかだった。しかしそれは歌舞伎とは非常に相性が悪いものかもしれない。
大きな劇場の隅々までナマの声を届けなければいけない歌舞伎では、ゆっくりと節をつけるような台詞まわしが基本となる。実際に一幕見席からでは、特に主役の染五郎のセリフ等に聞き取れないところが多くあった。
一方で、落語ネタのパロディの挟み方などはとてもうまく、そうしたコラージュ的な作劇にこそ宮藤の真骨頂があるのではという気もするが、肝心の脚本そのものに練り足りない部分が見受けられたのは残念なところである。
たとえば物語において最も重要な存在であるゾンビたちは、「らくだ衆」と呼ばれ、一方で「ぞんび(存鼻)」とも呼ばれている。やがて彼らに人がやらないような仕事をさせるというビジネスが発足するに及び「はけん衆」と名付けられるのである。
このゾンビ達は、要所要所でZAZEN BOYSの向井秀徳の唄にあわせ、クドカンの妻である八反田リコの振付で軽妙に踊るのだが、その歌詞中で彼らは「りびんぐでっど」あるいは「生きる屍」と呼ばれている。
これらの呼び名の使い分けが、物語に絡めてきっちりと描かれていたかというと疑問が残る。
少なくとも私にはその意図がはっきりしない部分があった。
落語を原典とし、歌舞伎の演目としても定着している「らくだ」を劇中に登場させ、「かんかんのう」を踊らせたりもしているのだから「らくだ衆」という呼称を強調しても良かったのではないか。
また「はけん」という呼称を使ったのは、この芝居が派遣労働という問題を扱っているということを、わかりやすく示そうとしたのだろう。
しかしそこまでしなくても十分に意図は伝わったはずだし、「はけん」という言葉を使ったことの弊害もある。
たとえば「はけん」に対立させて「人間様」という言葉を使った箇所があったが、これでは派遣労働者を人間以下の存在だと言っていると受け取られかねない。また、それが皮肉であるということが伝わるとは限らない。
たとえば大人計画の芝居は、身体障害者などへの差別をあからさまに描き、差別というものの痛み(差別されることの痛み、のみではなく、差別をし、差別されもする人間そのものの痛みというような)を、観客に突きつけるようなものであった。そうしたギリギリの表現が可能なのも、劇団のやり方をある程度知っている観客が相手だからでもある。
歌舞伎座へ非日常の祝祭空間を楽しみに来た観客とは、受け手のスタンスが全く違うのである。もちろんクドカンのファンでこの『大江戸りびんぐでっど』を楽しみにして来る方も少なくはなかった筈だが。
一方、この芝居を楽しめた点を挙げれば、それは歌舞伎役者の力量そのものということになる。
演技力だけではなく、歌舞伎座という劇場空間を支配する力。それは、親戚家族がみな役者であり、幼い頃より舞台に立つことが日常であるというような生活がもたらすものである。
そして、野田版にせよクドカン版せよ、役者へのあて書き、つまり役者のキャラクターにあわせて登場人物の造形がなされているのであるが、そのキャラクターのつかみ方が非常にハマっている。それは演出家の才能によるところだろうが、それ以上に、勘三郎を中心とした役者同士の、家族のような付き合いから生じる、深い相互理解に根ざしたものという気がする。
クセのあるキャラクターを演じた中村扇雀、坂東三津五郎といった人々のハジケぶりはとても痛快であった。
また、悲劇的な人物を演じた勘三郎の、沼底でのたうちまわる獣のような怪演ぶりには、異様な凄みがあった。平成中村座で演じた『法界坊』(2000)もそうだったが、このような悲惨でグロテスクな役柄こそ、勘三郎の真骨頂なのかもしれない。
役者が楽しんでいる、またクドカンも楽しんだという感じは伝わってきたが、残念ながら楽しめない部分を残す芝居となってしまった。今回は練りこむ時間が足りなかったのかもしれない。私としてはぜひ、クドカン歌舞伎の次回作に期待したいと思う。
聖誕祭空よりもらふ酸素かな 中村安伸
最も積極的にそれを行っているのが中村勘三郎のグループで、これまでで一番の成功例が野田秀樹と組んだ『野田版 研辰の討たれ』(2001)だったと思う。
小劇場と呼ばれた現代演劇のスタイルを歌舞伎座で、歌舞伎役者を使ってやってみたら、思いのほかうまく行ったというのが、この『野田版研辰』を観たときの印象であった。もちろん女形も登場する舞台が現代演劇「そのまま」な筈はなく、歌舞伎に蓄積された様式的演出を現代演劇に融合させるためにさまざまな工夫がされているに違いない。野田と勘三郎それぞれのセンスと相互理解、そして初の試みに立ち向かうことの緊張感などがうまく作用したのだろう。もちろん観客の側も初の試みに対する新鮮さがあった。
勘三郎と現代の演出家とのコラボレーションという点では、コクーン歌舞伎や平成中村座における串田和美の存在が先行している。もともと演出家が存在しない歌舞伎を、現代の演出家が、その審美眼をもって再構成するという試みは成功だった。たとえばコクーン歌舞伎「三人吉三」(2001)の終幕における蒙々たる雪煙の凄絶さは、現代演劇の美意識によるものだった。
そのようにして蓄積されたノウハウが、野田とのコラボレーションにおいても有効に働いたのだろう。
今月の歌舞伎座夜の部には、野田秀樹をフィーチャーした二作目『野田版鼠小僧』が上演されているのだが、私はこれを初演のときに観て『研辰』ほどには感心しなかったと記憶している。観客にとって新鮮さが幾分減じたということもあるかもしれない。
そして、昼の部には宮藤官九郎を作、演出に迎えた新作『大江戸りびんぐでっど』が上演されている。
私は21日(月)に一幕見席でこれを観た。
平日にもかかわらず一幕見席は朝から満席だった。約1時間ほど並んで二幕目(実際には三幕目だが、一幕、二幕目がセットで販売されていた。)の『身替座禅』から観ることにした。
『身替座禅』は三津五郎の奥方玉ノ井に愛嬌があって抜群に良かった。勘三郎の山陰右京はもちろんハマり役であり、これまで何度も観た芝居ではあるが、非常に新鮮に感じられた。
さて、目当ての『大江戸りびんぐでっど』であるが、死体が蘇ってゾンビとなり、人を食べる、そして食べられた人もまたゾンビとなるというのがこの芝居の趣向であり、宮藤の所属する劇団、大人計画の『生きてるし死んでるし』(1997)に類似している面がある。
特殊メイクのグロテスクさや頻出する下ネタに辟易したのだろうか、途中で席を立ってしまう客も散見されたが、前述の大人計画の芝居を観たことのある私は、グロテスクさ自体を特に強烈とは感じなかった。
当時の大人計画はシナリオ、演出は松尾スズキが一手に行っており、宮藤官九郎は、阿部サダヲに並ぶ看板役者の一人であった。その彼がテレビドラマ等の脚本を書いて評判となり、松尾以上に有名になってしまったのであるが、実際のところ彼のテレビドラマ、映画、演劇等はあまりきちんと観たことがない。
前述の大人計画の芝居では、よみがえった死体を「IS(生きてるし死んでるし)」と名付け、生とは死とは何かという疑問を投げかけると同時に、差別などの社会的問題を躊躇なく描くものだった。差別を扱う作品は他にもあって、観るものに痛みを感じさせるものだった。
描写がグロテスクかつ強烈であればあるほどテーマが明確になる。しかし、そこまでお付き合いいただくためには、客を惹きつけて離さない笑いの力が重要となる。大人計画においては、テンポの速い会話のなかにズレを生じさせることによって起きる笑いが最も有効なものであった。
今回の作品も、そうした笑いを取り入れようとしていることは明らかだった。しかしそれは歌舞伎とは非常に相性が悪いものかもしれない。
大きな劇場の隅々までナマの声を届けなければいけない歌舞伎では、ゆっくりと節をつけるような台詞まわしが基本となる。実際に一幕見席からでは、特に主役の染五郎のセリフ等に聞き取れないところが多くあった。
一方で、落語ネタのパロディの挟み方などはとてもうまく、そうしたコラージュ的な作劇にこそ宮藤の真骨頂があるのではという気もするが、肝心の脚本そのものに練り足りない部分が見受けられたのは残念なところである。
たとえば物語において最も重要な存在であるゾンビたちは、「らくだ衆」と呼ばれ、一方で「ぞんび(存鼻)」とも呼ばれている。やがて彼らに人がやらないような仕事をさせるというビジネスが発足するに及び「はけん衆」と名付けられるのである。
このゾンビ達は、要所要所でZAZEN BOYSの向井秀徳の唄にあわせ、クドカンの妻である八反田リコの振付で軽妙に踊るのだが、その歌詞中で彼らは「りびんぐでっど」あるいは「生きる屍」と呼ばれている。
これらの呼び名の使い分けが、物語に絡めてきっちりと描かれていたかというと疑問が残る。
少なくとも私にはその意図がはっきりしない部分があった。
落語を原典とし、歌舞伎の演目としても定着している「らくだ」を劇中に登場させ、「かんかんのう」を踊らせたりもしているのだから「らくだ衆」という呼称を強調しても良かったのではないか。
また「はけん」という呼称を使ったのは、この芝居が派遣労働という問題を扱っているということを、わかりやすく示そうとしたのだろう。
しかしそこまでしなくても十分に意図は伝わったはずだし、「はけん」という言葉を使ったことの弊害もある。
たとえば「はけん」に対立させて「人間様」という言葉を使った箇所があったが、これでは派遣労働者を人間以下の存在だと言っていると受け取られかねない。また、それが皮肉であるということが伝わるとは限らない。
たとえば大人計画の芝居は、身体障害者などへの差別をあからさまに描き、差別というものの痛み(差別されることの痛み、のみではなく、差別をし、差別されもする人間そのものの痛みというような)を、観客に突きつけるようなものであった。そうしたギリギリの表現が可能なのも、劇団のやり方をある程度知っている観客が相手だからでもある。
歌舞伎座へ非日常の祝祭空間を楽しみに来た観客とは、受け手のスタンスが全く違うのである。もちろんクドカンのファンでこの『大江戸りびんぐでっど』を楽しみにして来る方も少なくはなかった筈だが。
一方、この芝居を楽しめた点を挙げれば、それは歌舞伎役者の力量そのものということになる。
演技力だけではなく、歌舞伎座という劇場空間を支配する力。それは、親戚家族がみな役者であり、幼い頃より舞台に立つことが日常であるというような生活がもたらすものである。
そして、野田版にせよクドカン版せよ、役者へのあて書き、つまり役者のキャラクターにあわせて登場人物の造形がなされているのであるが、そのキャラクターのつかみ方が非常にハマっている。それは演出家の才能によるところだろうが、それ以上に、勘三郎を中心とした役者同士の、家族のような付き合いから生じる、深い相互理解に根ざしたものという気がする。
クセのあるキャラクターを演じた中村扇雀、坂東三津五郎といった人々のハジケぶりはとても痛快であった。
また、悲劇的な人物を演じた勘三郎の、沼底でのたうちまわる獣のような怪演ぶりには、異様な凄みがあった。平成中村座で演じた『法界坊』(2000)もそうだったが、このような悲惨でグロテスクな役柄こそ、勘三郎の真骨頂なのかもしれない。
役者が楽しんでいる、またクドカンも楽しんだという感じは伝わってきたが、残念ながら楽しめない部分を残す芝居となってしまった。今回は練りこむ時間が足りなかったのかもしれない。私としてはぜひ、クドカン歌舞伎の次回作に期待したいと思う。
聖誕祭空よりもらふ酸素かな 中村安伸
2009年12月17日木曜日
水死
大江健三郎の新しい書下ろし小説『水死』が近くの書店に並んだので、さっそく購入した。
赤い表紙に黒の文字で「大江健三郎 水死」と印刷された表紙は、昔の句集を思わせるシンプルさ。ややグロテスクで、インパクトがある。
読みはじめると、文体がとても平易になっていることに改めて驚いた。
これは『取り替え子』にはじまる三部作からすでに幾分はみられた傾向であるし、前作『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』でも明らかだった。
そして、この最新作においては、その傾向がさらに顕著になっているように感じた。
私は『万延元年のフットボール』や『同時代ゲーム』あたりのゴツゴツした文体が好きである。
おそらくそれは、日本語の曖昧さを極力排除しようとするところから生まれたものなのだろう。
文と格闘するように読むすすむ刺激を楽しみながら、ようやく慣れてきたころには、すっかり物語に夢中になってしまっている。そうなると仕事があろうがなんだろうが、本を手放すことができなくなる。
大江作品のなかでも、終盤、詩的イメージの氾濫が物語の大団円と交錯するようなもの、交響曲を聴き終えたときのような大きなカタルシスを得ることができるものがとくに好きである。
例をあげるなら『同時代ゲーム』『懐かしい年への手紙』『取り替え子』あたりだろうか。
『宙返り』にはエピローグ的な部分がついているが、クライマックスでの昂揚感は凄まじかった。
とは言え、最近のどちらかというと平易な文体が物足りないかというと、そういうわけでもない。
ただ単になめらかで読みやすいというだけではなく、かつてはゴツゴツと表面化していた知性というか批評性が内部に沈潜し、独特の粘りのある文体になっている。
文体そのものの刺激や抵抗感が薄れることによって、物語そのものの力強さが際立ってくるという面もある。
『水死』の「序章」を読んで、表紙の赤色が、物語のキーとなるらしい「赤革のトランク」の質感を再現したものだということがわかった。
本人も作中でやや自虐的に述べているとおり、発端は前作『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』とやや類似したパターンとも言える。
ただし雰囲気はがらりと違っていて、大江本人が投影された老作家の喜劇的な振る舞いは『アワーミュージック』(2004)でのゴダールを思わせるところがある。
散歩道で出会う人物も、前作では同年輩の男だったが、今作ではいかにも大江好みと思われる活動的な女性である。
この女性を相手役にして、おなじみのちょっと変態的な道化を自らの分身に演じさせる様子は、先生やりたい放題ですナと微笑ましくもあるが、本作のタイトルからも容易に想像できる今後の深刻な展開への予兆はしっかりと織り込まれている。
ちょっとした祝祭的な雰囲気を楽しみつつも、すでに物語という装置に絡め取られたというところか。
読後の印象はまた別途。
榾に書く村の記録の失せにけり 中村安伸
2009年12月10日木曜日
男子校茶道部
高校の茶道部に入部した理由のひとつは、陶磁器を中心に古美術が好きな父親の影響だろう。
もうひとつの理由は顧問のO先生の存在である。
世界史担当のO先生の授業はユーモアと含蓄に富んだもので、崇拝している生徒が少なくなかった。
一年間の授業時間数に内容が収まりきらないので、夏休みに奈良市内で補修のための「世界史合宿」が行われた。
世界史の授業のみが朝から夕方まで行われる二日間というのは、私にとっては至福であった。
合宿といってもほとんどの生徒は自宅から通ったのだが、私を含めた数人は、家が遠いわけでもないのに先生とともに会場に宿泊することにした。
就寝前には先生が日課としている特殊な体操を教えてもらい、起床後は会場に隣接した平城宮址を散歩したような気がする。
茶道部は外部から先生をお呼びするのではなく、O先生直接のご指導によるものであった。
流派は少しマイナーな石州流である。
わが母校に程近い大和小泉というところは、石州流の祖、片桐石州のかつての所領で、石州が父の菩提寺として建立し、現在も石州流の拠点である慈光院の所在地である。
先生の言によれば、石州流は表千家や裏千家とは異なる武家の茶であり、男子が嗜むにふさわしいということであった。
たしかに裏千家と比較すると、手数もやや多く、やや格式張ったところがある。
週二回の練習は和室のある宿直室で行われた。炉がないため年中風炉点前である。
基本の平点前より先に、小卓というちいさな棚のようなものを用いた点前を覚えた。
菓子は四分の一程度から、ひどいときには十六分の一程度の大きさに切り分けて使用したものだった。
文化祭においては、一般公開の日曜日に野点を行うのが恒例で、大和郡山市内にある老舗の菓子店に、この日のために特注したお菓子を使用した。
道具はO先生私有のものを貸していただいたのだが、法隆寺古材を用いた茶杓、荻原井泉水の「棹さして月のただ中」の短冊などがあったのを記憶している。
半東という茶席の進行役が道具を紹介した。
部員は主人と半東、そして水屋で正客以外の茶を用意する裏方を交代でつとめた。
当時の私は、岡倉天心の『茶の本』を読んだりして、茶道の型だけではなく、自分なりにその精神を理解しようとしていたと思う。
奈良の文化会館ではじめて歌舞伎公演を観て夢中になったのもちょうどその頃で、伝統文化への関心を大きく深めた時期だったのだろう。
ちなみにそのときの公演は、中村扇雀(現坂田藤十郎)、中村富十郎、市川左團次を中心とした一座で、亡くなった坂東吉弥もいた。演目は『土屋主税』と『身替座禅』で口上もあった。
私はさっそく年末の南座顔見世興行を観劇しており、先代(代数としては先々代)片岡仁左衛門の『馬斬り』、先代坂東三津五郎の『喜撰』、扇雀の『二月堂』、富十郎の弁慶、福助(現梅玉)の富樫による『勧進帳』、あと、配役は忘れてしまったが『三人吉三』の大川端が出た。
改築前の、洞窟のように暗くて狭い三階席である。
O先生については他にも忘れられない思い出がある。
私は当時、軽音楽部、茶道部のほかに文芸部にも所属していたのだが、その機関誌に掲載したSF風の短編をお褒めいただいた一方で、一緒に掲載したいくつかの俳句作品について多少厳しく批判されたのだった。
そのご意見を今も折にふれて思い出すことがある。それが、俳句と向き合う姿勢を反省するよすがになっていると思う。
凩を束ねて狭き冠木門 中村安伸
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告知
猿丸さんの記事ですでにご紹介いただいておりますが、再度告知させていただきます。
・筑紫磐井、対馬康子、高山れおな編 『新撰21』 (邑書林)
四十歳以下の俳人二十一人の俳句作品百句を掲載したアンソロジーで、若手俳人を中心にしたこのような企画が世に出るのは約二十年ぶりとのことです。
私も参加させていただいております。
なお、haiku&meの青山茂根、栄猿丸両氏を含む四十五歳以下の二十一人が、各俳人の小論を寄せています。
詳細はこちらをご参照ください。
・第115回現代俳句協会青年部勉強会「俳人とインターネット」
小野裕三氏、上田信治氏、大畑等氏という強力なメンバーをゲストにお迎えしております。
私は僭越ながら司会を努めさせていただきます。
詳細はこちらをご参照ください。
2009年12月3日木曜日
ならまちライブ
先週の記事で触れたが、落語とライブ(「歌うたい」と称している)のイベントに参加することになり、奈良へ帰省した。
このイベントは、中高時代の友人でアマチュア落語家でもあるM氏が中心となって数ヶ月に一度行っているものである。
後半の歌うたいコーナーは毎回、M氏、Y氏にリードギタリストG氏を加えた「はんなりブラザーズ」が受け持っている。
私はそのユニットにゲストのベーシストとして参加することになっていた。
ひと月ほど前にY氏が送ってくれた二曲分の音源ファイル。それにあわせて炬燵に入りながら一人でベースのアレンジと練習を行い、大体感じはつかめていた。
帰省の交通機関は飛行機や夜行バスを使うことも多いが、今回は楽器を預けたくなかったので、新幹線にした。
時代おくれのソフトケースに入ったフェンダーの黒いベース。
中学生のとき祖母にねだってはじめて手にしたものであり、これ以外のベースを所持したことはない。
木曜日の夕方だった。
『鹿男あをによし』の第一回のように、京都から奈良へ向かう近鉄電車に乗った。
充血したような夕陽が車窓から、ちょうど私たちに並走しつつ低い山の稜線上を転がってゆく
近鉄奈良駅からJR奈良駅へと歩き(結構遠い。)関西本線に乗って午後6時前にはY氏の経営する歯科医院に到着。さっそく二人でセッティングをはじめた。
7時すぎにM氏が到着した。
リードギターのG氏は仕事の都合で来られなかったため、三人でさらに音のバランスを調整しつつ、新参の私が参加する二曲を中心に音をあわせていった。
自然と曲に抑揚が生まれ、Y氏の歌いかたも、私のベースのアレンジもそれにつれて変化してゆく。
音源ファイルによる練習では決して生まれない一体感、これこそがバンドの醍醐味である。
ライブ前日の土曜日の夕方には、会場へ機材を運んでさらに練習を行った。
リードギターのG氏を加え、最終的な音のバランスを調整する。
今回の会場は落語のためのスペースであり、音響に関する設備はなく、機材はすべて持ち込みである。
本来ならばベースはベースアンプにつなぎたいところだが、機材が多くなりすぎるため、シールドケーブルを直接ミキサーにつなぐことになった。
このためか、どうしても低音の圧力が不足してしまった。
途中まで使っていたギター用のシールドケーブルを、私が用意していたベース用のものに交換すると、幾分改善された。
この日も深夜まで練習は続き、後片付けをして食事し、帰宅すると日付は変わっており、寝たのは結局3時すぎであった。
帰宅後ベースの弦を替えようとしたら、用意していた弦がベースのサイズにあわない、つまり短すぎるものだったということが判明した。
ベースのスケール(長さ)にはラージ、ミディアム、ショートという三種類があり、私が所持しているベースはミディアムスケールなのだが、なぜかショートスケール用の弦を購入していたのだった。
翌朝11時半の集合時間までになんとか弦を購入し、リハーサルがはじまるまでの間に張替えなくてはならない。
すこしはやめに奈良に到着し、ネットで探しておいたJR奈良駅付近の楽器店に行ってみると、年老いた店主が一人で経営しているローカル色豊かな店で、ベースの弦もあるにはあったが、私がほしかったダダリオというブランドの弦はロングスケール用のものしかなかった。
大は小をかねるということで、しかたなくそれを購入した。
帰り際に店主が「あわてんと、ゆっくり張替えてください。」と言ってくれた。
会場に着くと早すぎてまだ開いていない。
すこしばかり散歩しようと楽器を背負ったまま奈良町を少々散歩した。
もともと中世からの古い町並みで知られた場所ではあるが、近年はカフェなどのおしゃれな店も増え、日曜日ということもあって多くの観光客がそぞろ歩いている。
漢方薬のお店に立ち寄って生姜飴を購入したところ、お店の女性が私の背負った楽器に目をつけ「近くで演奏するの?」と聞いてくれた。
「奈良町落語館で午後からやります。」と答えたが、落語館をご存知ではない様子であった。
11時半ちょうどに会場入りした私は、楽屋となっている仏間――つまりここは個人宅でもあるのだが――にこもって弦の張替え作業を開始した。
先ほどの楽器店店主は「張り替えたことあるんやったら、余計なことは言わんとこう。」とおっしゃっていた。
もちろん弦の張替え作業は何度も行っているのだが、実のところ十年以上ぶりであり、緊張していた。
ロングスケール用なので、太さは同じだが長い。
したがって先の余る部分をペンチで切ることになる。
このとき、まず弦を折り曲げてから切断しないと、弦の性能が著しく落ちるらしい。
金属そのものの色にかがやく新しい弦。
それにくらべると、とりはずした古い弦は輝きを失い、衰えたものとして目に映った。
それを、新しい弦の切れ端といっしょに袋につめこんだ。
新しい弦を張ったベースはビリビリとした金属質のノイズをたてつつ、よく鳴った。
最初はあちこちにゆるみがあるので、しごいたり引っ張ったり、弾き込んだりして慣らしていかなくてはならない。音程も狂いやすい。
本番まで時間があるにもかかわらず、急いで作業をしなければならなかったのはそのためである。
メンバーが揃うとすぐに機材を並べ、最終リハーサルを行った。
私の前に置かれた譜面台は、尺八をやっている父から借りてきたもので、アルミ製で軽い邦楽用の簡易版である。
リハーサル直前に最大のピンチが発生した。Y氏のミスで4つほどのエフェクターがこわれてしまったのである。
エフェクターとは、ギターの音色を加工するための小型の機器であるが、電圧の違うACアダプターをつないだため、おそらくはコンデンサーが飛んでしまった。
なんとか無事だったいくつかのエフェクターを使って演奏することにして、急遽セッティングを変更し、どうにかリハーサルを開始することになった。
時間がないので、各曲の一部だけをやった。
私はもともとは、二曲のみ演奏する予定だったが、最後の二曲を残して引っ込むのもさびしいので、それらも急遽弾くことにした。合計四曲である。
ラストの曲は前日のリハーサルでも弾いていたが、ラスト前の曲については、このリハーサルでワンコーラス弾いたのみのぶっつけ本番となった。
リハーサル終盤には気のはやいお客さんが入ってきた。
といっても最初に来たのはわれわれの中高時代の恩師、そして二組めが私の両親だった。
機材をいったん片付け、第一部の落語である。
最初に登場するのがM氏なのだが、ネタをコピーした紙を前日、会場に忘れて帰ったとかで、結局覚えきることが出来なかったらしい。
そこで、予定していたネタとは違うものを急遽演じることになってしまったが、さすがに何の問題もなくこなしていた。
二人目に登場したのは、われわれの中高時代の先輩にあたる方である。
非常に上手く味のある落語で、われわれも楽屋兼仏間で出番を待ちながらつい笑ってしまうほどであった。
休憩10分のあいだにスタンバイを行い、演奏がはじまった。
セットリストは全部で7曲だがY氏、M氏を中心にしたトークがかなりのウエイトを占めている。
3人の「はんなりブラザーズ」による演奏3曲が終わり、M氏の紹介で私が登場した。
といっても、最前列の客席から高座前の椅子まで2メートルほど移動したのみであるが。
実は演奏よりもむしろトークのほうに緊張していたのだが、なんとか切り抜けて4曲めがはじまった。
これはM氏の作詞作曲によるミディアムテンポのバラード曲である。
Y氏、M氏がサビのワンフレーズをアカペラで唄い、つづいて私が背後の高座に置かれたリズムマシンのPlayボタンを押す。カウントのあとイントロ。
緊張もあったので、落ち着いて正確に弾くようにこころがけた。
5曲目でY氏がギターをオベーションのエレアコからレスポールに持ち替えるため、私とM氏がトークでつながなくてはならない。
曲はG氏が高校生のときに作った曲で、彼がリードボーカルを担当する。また、カズーという笛のようなプラスチックの楽器をハーモニカホルダーに挟み、間奏を吹いた。
ベースは基本的に八分音符のべた弾きするのだが、低音の音圧が足りないせいか、ノリを出すのがとても難しかった。
5曲目終了後には再度Y氏のギター持ち替えが発生し、再度トークである。実のところトークに関してはほとんどM氏におんぶにだっこ状態であった。
さて、6曲目、これはY氏の作曲であるが作詞したおぼえはないとのこと。つまり作詞者不明。
土曜日の練習のあとにスコア(といっても歌詞の上にコードが書いてあるだけ。)をコピーしてもらい、眺めているうちにこれなら弾けると思って練習をはじめたのが当日の朝。
コード進行がシンプルだったので、出かけるまでには歌いながら弾けそうなくらいの感じになってはいた。
先程のべたとおり、フルコーラスあわせるのはぶっつけ本番だったが、気持ちよく弾くことができた。
基本的にはコードのルート音、たとえばCというコードならC、AmならAの音を弾くだけなので、べつに難しいことはないのだが、ボーカルの音域の都合などで、作曲後にキーを変えてあったりすると少々ややこしい。
ギターはカポタストという器具を使うことにより、簡単に言うとギターの長さを縮めることによってキーを上げることができるが、ベースにはそういったものがないため、頭の中で音をずらさないといけなくなる。
6曲め、7曲目をほとんど即席で弾けたのは、こうしたキーの変更がなかったからでもある。
スコアの音名を書きなおせば済む話かもしれないが……。
ラストの7曲目はM氏の作詞作曲による、10分ほどにもおよぶ大作であり、台詞というか語りのパートもある。
歌詞の内容は挽歌ということになるが、やさしい言葉でつづられており、メロディーも覚えやすく美しい。
「はんなりブラザーズ」の楽曲はどれも親しみやすいもので、M氏の美声をよく生かしていると思った。
ちなみに三人の音楽的バックグラウンドは、Y氏がロック、M氏がポップス、G氏がブルースといったところか。それらがバランスよく組み合わせられていると思う。
私も次回からはゲストではなく正式メンバーということになるようだ。
いろいろとトラブルがあったとはいえ、ライブはおおむね成功だったと思う。
身内や知り合いがほとんどだったとはいえ、オーディエンスの反応もあたたかいものだった。
イベント終了後判明したことだが、ビデオテープの交換ミスのため、私の登場直前に録画が切れてしまっていた。
したがって、演奏シーンをyoutubeもしくはニコニコ動画にアップするという目論見は残念ながら頓挫してしまった。
さて、以下に掲出する拙句は、練習のなかった金曜日、実家の近所の信貴山と竜田川の紅葉を見てまわった折のものである。
人造湖くらき紅葉を映しけり 中村安伸
2009年11月25日水曜日
十一月
ひさしぶりにベースの練習をしていたら、左手の指先に胼胝が復活してきた。
炬燵に入ったままでベースをかかえて適当にぐりぐりやっていると、昔はもっと楽器と自分が一体化していたような気がしてきた。
「週刊少年ジャンプ」に連載されている『NARUTO』を読んでいる人なら、「暁」の干柿鬼鮫が鮫肌という妖刀と一体化して半魚人みたいになったのを見たはずだ。そこまではいかないが、楽器を弾くことに集中すると、それ以外のことをしたくなくなる。仲間とともに演奏すると、その感覚がさらに延長される。聴衆が加わるとさらに増幅する。だからライブの聴衆は多ければ多いほど楽しい。
先週と今週のさるまるさんの記事を読んで、ベースを弾くことに熱中していた高校生の頃のことをひさしぶりに思い出したので、それについて書いてみようかと思う。
一年で一番好きな月は十一月だった。そのことはどこかで書いた覚えがある。
肌寒さと寂しさの具合がちょうどよく、甘美な感じがするということが理由だった。今では前倒しのクリスマスムードに侵食されてしまっているが。
そうした十一月に対する思い入れの原点ってなんだったっけと記憶を辿ってみると、高校の部活動を終えて暗くなった路を自転車に乗って帰宅するときの、顔にぶつかる風の冷たさや、寄り道してほおばった肉まんのあったかさなど、そんな実感にぶつかる。
その頃私は軽音楽部と茶道部に所属しており、週の半分くらいはそのどちらかの練習が入っていた。特に軽音楽部の練習がある日は、重いベースを背中に担いで自転車を漕いだが、慣れてしまえばさしたる苦行でもなかった。
当時のバンド仲間であり、小学校時代からの友人でもあるY氏とは家も近かったので、しょちゅう二人で自転車をならべ、さまざまな議論を交わしながら帰宅した。
将来のことをあれこれ夢想するのは、小学生のときからのお決まりの話題だったし、音楽のことはもちろん、冷戦時代のことゆえ政治のこと、男子校ならではの恋愛のこと、それにアイドルのことなどが当時二人の間でホットな話題であったと記憶している。
この季節ではなく、夏頃のことだったと思うが、いつもどおり法隆寺から西へ向かって伸びる道を二人で通っていると、新聞記者と名乗る人に話しかけられインタビューされたことがあった。いつも通っている道から見えていた田んぼの中のこんもりした土盛が、実は古墳であり、調査したところ見事な壁画のある石室が発見されたということを知らされ、感想を求められたのだ。それが「藤ノ木古墳」だった。翌日の新聞にY氏のコメントが掲載されていた。
Y氏はバンドの顔であり、大黒柱であり、中学時代から高校卒業まで、一貫してバンドに所属しつづけたのは彼と私の二人だけである。
彼はリードボーカルとギターを担当し、コピー曲の選定、オリジナル曲の作詞作曲などを一手に行うリーダーであり、バンド名には彼の名前が冠されていたが、誰ひとり異議を唱える者はいなかった。それでいて威圧的な印象を与えることは一切なく、わがままや不平を言うのはいつも私であった。彼はすべてのやるべきことを率先して引き受けていただけだった。
軽音楽部に所属するバンドの晴れ舞台はなんといっても文化祭である。一般に公開される日曜日、体育館のステージでライブが行われる。
このときのためだけに一年間、バスケ部やバレー部のみんなに忌み嫌われながら練習を続けてきたのだ。山の中腹にあるひっそりとした学び舎に、その日だけやって来る女の子たちにモテるため、というのがはじめの目的であったにせよ、もうすでに別の感覚がバンドを支えていた。
さて、文化祭といえば公開されない土曜日もまた、私にとって重要な舞台だった。この日の体育館では、中学高校の各学年(高校三年を除く)がそれぞれ演劇を上演するという催しが行われる。一学年あたりおよそ150人程度の生徒が、希望によって展示のグループと演劇のグループに分かれるのだが、私は中学二年以降ずっと演劇のグループに参加していた。ここで毎年自然と中心になったのがM氏であった。
彼は落語研究会のメンバーとしても活躍しており、Y氏とは対照的に厳格な、どちらかというと完全主義者タイプのリーダーだった。5人か6人のバンドと、数十人がさまざまな役割を担ってひとつの舞台を作り上げる演劇とでは、リーダーに求められる役割はまったく違う。彼の最初の仕事は役割ごとのグループ分けを行い、それぞれのリーダーを決めることである。それも年毎に顔ぶれが固定していった。M氏は全体のまとめ役として、各チームリーダーに対して厳しくアウトプットを要求するとともに、役者グループを直接指揮し、演技指導を含めた演出を自ら行った。私は毎回かならず役者として舞台に立ち、うち二回は光栄なことにっ主役をやらせてもらったのだが、主役に対するM氏の演技指導は特に苛烈で、本番直前の一月ほどは毎朝、体育館で彼と二人っきりで、台詞のこまかな抑揚まで、すべてを徹底的にたたきこまれたのである。
演劇において、ひとつの舞台を全員で成し遂げたという達成感は非常に大きいものだった。バンドでの演奏は、たとえ練習であってもそのたびごとに心地よい感覚があって、本番のライブにおける快感はその延長であり集大成という感じであるが、演劇は、たった一回の公演をやりとげた瞬間にすべての喜びが爆発的にやってくるように感じた。
いろんな思い出が芋づる式にあふれてきて書ききれないのだが、ともかくY氏とM氏という、タイプの異なる二人のリーダーのおかげで、私はこれ以上ないくらい充実した中学、高校時代を送ることが出来たのだと、今になって思うのだ。
M氏はアマチュア落語家として活動しており、奈良町で定期的に落語のイベントを開催している。そのイベントで近年実現したのが、M氏のボーカル、Y氏のギターによるユニットである。
M氏は軽音楽部には所属せず、われわれのバンドのメンバーではなかったが、中学のころから独自に作詞作曲を行っていた。
Y氏とのユニットが生まれたのは、われわれが大学生の頃、一度だけバンドを復活させ、大阪で会場を借りて行ったライブのときにさかのぼる。
M氏、Y氏それぞれの結婚式のときなど、断片的な演奏はあったが、一昨年のイベントでひさびさに復活ライブを行い、私も観客としてそれを見に行ったのだった。
そのユニットにY氏の大学時代の友人がギタリストで新しく加わり、今月末再びライブを行うことになった。そして、私も二曲のみだが演奏に参加することになったのである。冒頭で述べたベースの練習とは、このライブのためのものだ。
ここにひそかに告知させていただくので、ご都合の良い酔狂な方がいらっしゃったら覗きに来ていただければ幸いである。
日時:11月29日(日) 14時より
場所:奈良町落語館
http://www.rakugo-town.com/files/rakugokan.html
一筆に含まれてゐる冬の虹 中村安伸
炬燵に入ったままでベースをかかえて適当にぐりぐりやっていると、昔はもっと楽器と自分が一体化していたような気がしてきた。
「週刊少年ジャンプ」に連載されている『NARUTO』を読んでいる人なら、「暁」の干柿鬼鮫が鮫肌という妖刀と一体化して半魚人みたいになったのを見たはずだ。そこまではいかないが、楽器を弾くことに集中すると、それ以外のことをしたくなくなる。仲間とともに演奏すると、その感覚がさらに延長される。聴衆が加わるとさらに増幅する。だからライブの聴衆は多ければ多いほど楽しい。
先週と今週のさるまるさんの記事を読んで、ベースを弾くことに熱中していた高校生の頃のことをひさしぶりに思い出したので、それについて書いてみようかと思う。
一年で一番好きな月は十一月だった。そのことはどこかで書いた覚えがある。
肌寒さと寂しさの具合がちょうどよく、甘美な感じがするということが理由だった。今では前倒しのクリスマスムードに侵食されてしまっているが。
そうした十一月に対する思い入れの原点ってなんだったっけと記憶を辿ってみると、高校の部活動を終えて暗くなった路を自転車に乗って帰宅するときの、顔にぶつかる風の冷たさや、寄り道してほおばった肉まんのあったかさなど、そんな実感にぶつかる。
その頃私は軽音楽部と茶道部に所属しており、週の半分くらいはそのどちらかの練習が入っていた。特に軽音楽部の練習がある日は、重いベースを背中に担いで自転車を漕いだが、慣れてしまえばさしたる苦行でもなかった。
当時のバンド仲間であり、小学校時代からの友人でもあるY氏とは家も近かったので、しょちゅう二人で自転車をならべ、さまざまな議論を交わしながら帰宅した。
将来のことをあれこれ夢想するのは、小学生のときからのお決まりの話題だったし、音楽のことはもちろん、冷戦時代のことゆえ政治のこと、男子校ならではの恋愛のこと、それにアイドルのことなどが当時二人の間でホットな話題であったと記憶している。
この季節ではなく、夏頃のことだったと思うが、いつもどおり法隆寺から西へ向かって伸びる道を二人で通っていると、新聞記者と名乗る人に話しかけられインタビューされたことがあった。いつも通っている道から見えていた田んぼの中のこんもりした土盛が、実は古墳であり、調査したところ見事な壁画のある石室が発見されたということを知らされ、感想を求められたのだ。それが「藤ノ木古墳」だった。翌日の新聞にY氏のコメントが掲載されていた。
Y氏はバンドの顔であり、大黒柱であり、中学時代から高校卒業まで、一貫してバンドに所属しつづけたのは彼と私の二人だけである。
彼はリードボーカルとギターを担当し、コピー曲の選定、オリジナル曲の作詞作曲などを一手に行うリーダーであり、バンド名には彼の名前が冠されていたが、誰ひとり異議を唱える者はいなかった。それでいて威圧的な印象を与えることは一切なく、わがままや不平を言うのはいつも私であった。彼はすべてのやるべきことを率先して引き受けていただけだった。
軽音楽部に所属するバンドの晴れ舞台はなんといっても文化祭である。一般に公開される日曜日、体育館のステージでライブが行われる。
このときのためだけに一年間、バスケ部やバレー部のみんなに忌み嫌われながら練習を続けてきたのだ。山の中腹にあるひっそりとした学び舎に、その日だけやって来る女の子たちにモテるため、というのがはじめの目的であったにせよ、もうすでに別の感覚がバンドを支えていた。
さて、文化祭といえば公開されない土曜日もまた、私にとって重要な舞台だった。この日の体育館では、中学高校の各学年(高校三年を除く)がそれぞれ演劇を上演するという催しが行われる。一学年あたりおよそ150人程度の生徒が、希望によって展示のグループと演劇のグループに分かれるのだが、私は中学二年以降ずっと演劇のグループに参加していた。ここで毎年自然と中心になったのがM氏であった。
彼は落語研究会のメンバーとしても活躍しており、Y氏とは対照的に厳格な、どちらかというと完全主義者タイプのリーダーだった。5人か6人のバンドと、数十人がさまざまな役割を担ってひとつの舞台を作り上げる演劇とでは、リーダーに求められる役割はまったく違う。彼の最初の仕事は役割ごとのグループ分けを行い、それぞれのリーダーを決めることである。それも年毎に顔ぶれが固定していった。M氏は全体のまとめ役として、各チームリーダーに対して厳しくアウトプットを要求するとともに、役者グループを直接指揮し、演技指導を含めた演出を自ら行った。私は毎回かならず役者として舞台に立ち、うち二回は光栄なことにっ主役をやらせてもらったのだが、主役に対するM氏の演技指導は特に苛烈で、本番直前の一月ほどは毎朝、体育館で彼と二人っきりで、台詞のこまかな抑揚まで、すべてを徹底的にたたきこまれたのである。
演劇において、ひとつの舞台を全員で成し遂げたという達成感は非常に大きいものだった。バンドでの演奏は、たとえ練習であってもそのたびごとに心地よい感覚があって、本番のライブにおける快感はその延長であり集大成という感じであるが、演劇は、たった一回の公演をやりとげた瞬間にすべての喜びが爆発的にやってくるように感じた。
いろんな思い出が芋づる式にあふれてきて書ききれないのだが、ともかくY氏とM氏という、タイプの異なる二人のリーダーのおかげで、私はこれ以上ないくらい充実した中学、高校時代を送ることが出来たのだと、今になって思うのだ。
M氏はアマチュア落語家として活動しており、奈良町で定期的に落語のイベントを開催している。そのイベントで近年実現したのが、M氏のボーカル、Y氏のギターによるユニットである。
M氏は軽音楽部には所属せず、われわれのバンドのメンバーではなかったが、中学のころから独自に作詞作曲を行っていた。
Y氏とのユニットが生まれたのは、われわれが大学生の頃、一度だけバンドを復活させ、大阪で会場を借りて行ったライブのときにさかのぼる。
M氏、Y氏それぞれの結婚式のときなど、断片的な演奏はあったが、一昨年のイベントでひさびさに復活ライブを行い、私も観客としてそれを見に行ったのだった。
そのユニットにY氏の大学時代の友人がギタリストで新しく加わり、今月末再びライブを行うことになった。そして、私も二曲のみだが演奏に参加することになったのである。冒頭で述べたベースの練習とは、このライブのためのものだ。
ここにひそかに告知させていただくので、ご都合の良い酔狂な方がいらっしゃったら覗きに来ていただければ幸いである。
日時:11月29日(日) 14時より
場所:奈良町落語館
http://www.rakugo-town.com/files/rakugokan.html
一筆に含まれてゐる冬の虹 中村安伸
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