2011年3月25日金曜日

― 食べる ―

 

  語らないこともれくいえむのひとつ。

   

 さて、加藤静夫氏の句集『中肉中背』より。

  水飲むに起出す闇や桂郎忌        加藤静夫

  炬燵より出てねこは猫ひとは人

  歌舞伎座が目の前にある暑さかな

  めしちやんと食つてぽんぽんだりあかな

  日の丸の突き出してゐる道の秋

  怪獣の背中が割れて汗の人

  電球にかるくしびれて冬はじまる

  雛の家とは天井の低き家

  歴史には残らぬ仕事着ぶくれて

  世直しの如く撒水車が行くよ

  食つてから泣け八月のさるすべり

                    以上、「中肉」篇より)

  石鹸玉消えたる電波込み合へる

  持たされし汗の携帯電話かな

  質問がなければ飯や雲の峰

  ごきぶりの畳の上の死なりけり

  差込を抜いて聖樹を黙らせよ

  五十音順にプールへ放り込む

  乗り換へて乗り換へて太宰忌のふたり

  始祖鳥のこゑを思へばしぐれけり

  万歳を三唱したる暑さかな

  春もやうやう机と机くつつけて
                    (「中背」篇より)
         (『中肉中背』 加藤静夫 角川書店 平成二十年)

 ユーモアの中に、言いようのない悲しみが。どこかに、戦後の匂いがして。「水飲むに起出す闇」に何を見るか。「めしちやんと食つて」の句に、今現在起きていることに通じる何かが。「食つてから泣け」の世界も。八月のあの記憶を呼び覚ましつつ、レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』と同じ悲しみ。「万歳を三唱したる」は言うまでもなく。現実を見つめる冷めた視線と、流れ落ちる汗。刹那と、彼岸と此岸。

 ・・・「何か召し上がらなくちゃいけませんよ」とパン屋は言った。「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べてください。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、物を食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」と彼は言った。
 (中略)彼は二人がそれぞれに大皿からひとつずつパンを取って口に運ぶのを待った。「何かを食べるって、いいことなんです」と彼は二人を見ながら言った。
     (『ささやかだけれど、役にたつこと』 レイモンド・カーヴァー著 村上春樹訳 中央公論社 1989)
  

    

  

2011年3月8日火曜日

モラトリアムにサザンを聴く

桑田佳祐復活を伝えるテレビのワイドショーや、ニューアルバム発売で各音楽誌が特集を組んでいるのを目にしたせいで、サザンを久しぶりに聴きたくなった。

しかし、レコードプレーヤーを持っていないので、アナログ盤が聴けない。サザンのCDは持っていない。しかたないのでユーチューブで聴く。

背筋に冷たいものが走る瞬間、というのがあるが、ぼくは一回だけ経験がある。はじめてテレビでサザンの「勝手にシンドバッド」を聴いたときだ。小学5年生のとき、番組は「3時のあなた」だった。曲を聴くそばから、自分の中で何かが変わっていくのがわかった。なんて言うと臭い表現だけど、本当だったのだから仕方ない。感動とか感激などではなくて、ひとつ上のステージに上がった感じ。「勝手にシンドバッド」前と後、ができた。こういう経験はこのときだけである。

ぼくが持っているサザンのアナログアルバムは、78年のデビュー・アルバム『熱い胸騒ぎ』から83年の『綺麗』までで、つまり、この『綺麗』を聴いて、ぼくはサザンから距離を置いてしまった。
『綺麗』は、じつは最初聴いたときは興奮した。それは、サックス奏者・矢口博康が参加していたからである。ちょうどそのあたりから、ぼくはムーンライダーズのファンになっていて、矢口はライダーズ・ファミリー(という呼び名が当時はあったのだ。ライダーズ人脈というくらいの意味)のひとりだったからだ。
ちなみに、彼はその後のサザンのアルバムにも呼ばれて、『KAMAKURA』では、共同アレンジャーにまでなった。しかも、彼のバンド「リアル・フィッシュ」もレコーディングに参加している。

『綺麗』から、ブリティッシュ・ロックやデジタルなサウンドや手法を取り入れていくようになった。当時の流行といえばそうなのだけど、やっぱり、しっくりこないのである。矢口博康のサックスはたしかにかっこいいのだけど、そのかっこよさが浮いて聞こえてしまう。流行の服を着てみたのだけど、着こなせていない、といった風なのである。無理しているように感じられてしまったのだ。

桑田は資質としてポール・マッカートニーに似ている。無理しなくていいのに、無理したがる。
その見方を決定づけたのが、映画「稲村ジェーン」を桑田が監督したことだった。本当にポールである、彼は。
しかし、その「無理」も、小林武史と出会うことで、ようやく落ち着く。有能なスタイリストを得たことで、桑田の作る歌も格段に洗練されていく。
ぼくは、ポップ・ミュージックのメロディというのは、洗練されればされるほど、鼻歌に近くなっていくと思っているのだけど、彼のバラードは、いや、ロックンロールも、鼻歌のように美しい。

それなのに、なぜ離れてしまったのかというと、それは詞である。『綺麗』から、詞が変わった。ストーリーがあったり、設定があったり、社会批判やメッセージ、ヒューマンが入っていたり。「作って」いるのである。それまでの、パーソナルでローカルな直接性が失われて、そのかわり、知的な媒介操作の跡が見えるようになった。それは、一般的にいえば、うまくなったということなのだろう。詩的表現ということでいえば、洗練されたといえるのだろう。じっさいそう思う。あたりまえだが、プロフェッショナルなのである。しかしぼくは、「おれの歌は大学生のマスターベーション」と言っていた頃の歌のほうが、ずっと信じることができた。「言葉じゃなくて」とか「言葉にできない」というフレーズがやたらに頻出するのも、いい。無理に「言葉」にしないのがいい。もどかしさがもどかしいままにのたうちまわっている。

CDがないので、ユーチューブで聴いていると、音源に付けてある映像がビキニのお姉さんやグラビア・アイドルのものがとても多い。まあそうだよな、と思いつつ眺めているうちに、ノーズ・アートを思い出した。
アメリカ空軍の戦闘機の機首に、ピンナップ・ガールが描かれているやつである。ぼくにとって、初期のサザンの曲は、このノーズ・アートのようなものなのかもしれないと、ふと思った。

ユーチューブで聴いた結果、ぼくのサザンベスト10を。
1 C調言葉に御用心
2 いとしのエリー
3 シャ・ラ・ラ
4 栞のテーマ
5 思い過ごしも恋のうち
6 勝手にシンドバッド
7 いなせなロコモーション
8 恋はお熱く
9 お願いDJ
10 真夏の果実 

ぼくのなかでは、サザンは、なんというか、3月の気分なのである。「いとしのエリー」が3月発売だったからだろうか。「別れ話は最後に」が大好きだったからだろうか。3月にはどこかモラトリアムな気分がある。映画「真夏の果実」は大波を待つ映画なのだけど、この、ぼーっと海を眺めながら「待つ」気分が、青春であり、モラトリアムであると、思う。そうか、モラトリアム気分が抜けていなかった頃のサザンが好きなのだな。「ふぞろいの林檎たち」でサザンを使ったのは、まったく正しい。で、ぼくはあいかわらずモラトリアムなのである。

 巣つくらず巣箱にあまた鳥来れど  榮 猿丸