2010年12月17日金曜日

 ― バラバラ ―


  短日の印度孔雀のうらにまはる     青山茂根 



 サンタクロースは、袋をふたつ持っているのだと信じていた。グリコのおまけのように、男の子用と女の子用の。25日を過ぎて、近所の男の子の家に行くと、なぜか増えている鉄道模型の車体や、パーツや、小さな緑の木。それがサンタクロースによるのか父母かおじいちゃんおばあちゃんからなのかは聞かなかったが、姉妹のみの自分の家にはついぞ届いたことのない贈り物だった。

 デパートのおもちゃ売り場へ連れて行ってもらうことがあると、まず、ガラスケースの中に恭しく並べられているジオラマのパーツのところへ向かう。磨かれたガラスに両手と鼻の頭をくっつけて、その微細に、精巧に作られた駅のベンチや、通勤客や、踏み切りの信号を眺めていたものだった。あれが欲しい、と言っても、これは鉄道模型に使うものだから、と諭されて、さあ、行こう、と手を引かれてしまう。小さいのにとても高いものだ、ということは子供心にも感じ取られて、それ以上ねだってぐずることも出来ずにその場を離れるのだった。

 大きくなって、家に子供という存在が増えると、一歳のクリスマスには真っ先に、自分が買いたくてたまらなかった、木のレールと電車のセットを置いた。ついにその日が来た!という感じである。それは女の子だったが。幼いころからの刷り込みは功をなすものか、電車でよく遊ぶので、またどんどん車両やパーツを増やしていく。いや、親が嬉々として遊んでいるから真似をしただけか。ものが増えていくから遊ぶようになるのか、ベビーカーに載せると下を覗き込んでばかりいる子供だったせいかもしれない。いったい何を、そんなに危なっかしいほど頭を出してじっと見ているのか、と思うと、ベビーカーについている車輪だった。車輪の回転が興味を引くものらしく、出かけている間中、飽かずそれを眺める。しかし、わりとその手の子供はよくいるようで、丸い輪と、回転運動、が脳のどこかに訴えかけるのか、などと空に弧を描いている観覧車を見て思う。  

 その次に男の子が家に登場すると、自分の欲しい願望に拍車がかかり、ネットで専門店を検索したりオークションに手を出してさらに次々と車両やらレールや方向転換器や駅や車庫が増えていった。もっともすべて木製のものとNゲージだけで、もう少し大きくなったらゆくゆくは鉄道模型を揃えていくのだ、と一人でわくわくしていた。しかし、男の子というのは、破壊と分解のためにある生き物だったのだ(そうでない子もいて羨ましい)。ある日気づくと、ミニカーの車輪を外してどっかにやってしまっていて、がーん!だった。それからはもう止める間もなく、ちょっと静かにしているなと安心していると、トラックの荷台は外す、はしご車のはしごはばらばら、オルゴールの取れるパーツはすべて消えている、といった具合だ。組み立て直せば、と思うと、すでにうっかり自分が掃除機で車輪を吸ってしまったりしたあとだったりして、目覚まし時計や懐中電灯など、ばらばらにされて困るものは手の届かない高いところにおくしかないのだった。

 さすがに近頃は、黙って分解するということはなくなり(まあそのたびに私が怒ったからだろう)、壊れたり点かなくなったノベルティもののライトやブザー、腕時計などを見つけると、もらっていい?と一応聞くようになった。まあこれならいいか、と許可を与えると、嬉しそうにばらばらにして、また組み直したりしているのだが、元どおりには絶対にならない。元どおりになるのなら、そろそろ鉄道模型も、と思いながら、もう何年も経つ。

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