2011年2月18日金曜日

 ― 『新撰21』と『超新撰21』から <1> ―

 スロウペースながら、これから時折、一昨年末刊行された『新撰21』と、昨年末世に出た『超新撰21』から、それぞれ一作家づつをピックアップして、読んでみたい。特に何か共通項を探すとか、比較対照するわけではなくて、ただそのときの気分で。その日見上げた雲の行方のように、どこへ向かうかわからないけれど、何かその句たちの持つ空間を、少しでも誰かに伝えられれば。

 今回は偶然、どちらも天為という結社に所属する方たち。このお二方とは本でお名前を拝見したのが初めてだが、まだ俳句を始めて数年といった頃に、結社を超えて人が集まっていた句会で、よく天為の若手の方々とご一緒させていただいた。様々な句柄の方たちが、活発な合評を繰り広げていて、その頃の自分にとって得るものの多い濃密なひとときだった。近所の、時々勉強を教えてくれたお兄さんお姉さんに対するような、懐かしい気持ちが今もどこかに。昨年末の超新撰21の集いで、偶然その頃の方に久しぶりにお会いできたのも、不思議な縁と思える。

  土色の足跡ありし四温かな       五十嵐義知

  流域に寺町のあり更衣

  木製のはね椅子たたむ秋の声

  鉄塔を残すばかりの刈田かな

  六つ目の大陸に着く絵双六

  野の音のことごとく雪解かしけり

  物干しにとりのこしある残暑かな

  秋涼し東へ続く廊下かな

    (『セレクション俳人 プラス 新撰21』 邑書林 2009)  

 『水の色』五十嵐義知氏の100句から。風土性、客観描写の確かさ。「流域に寺町のあり」の着眼のように、そこに綿々と続いてきた人々の営みを感じさせて。しかし、古びた印象を感じさせないのは何故か。
例えば、「刈田」を読むにしても、「鉄塔」のほうへわずかに比重が置かれているからだろう。
「土色の足跡」にも、そのころのぬるみ始めた道をさりげなく描き出して、ゆるぎない季節感がある。
「六つ目の大陸」の華やかな句にも惹かれる。もっとこの作者のこうした句を読んでみたい。言葉の的確な省略のセンス、大胆な把握の句をさらに見せて欲しいと思うのは読者のわがままだろうか。
そして、「野の音」が「雪解け」を呼び出すように、「残暑」がとりのこされているかのような名状しがたい空気感を描き出す資質に、より自覚的でもよいのでは、という気もする。端整な詠みぶりの一方で、そんな句もぜひ、とリクエストしたくなる作家なのだ。 未だ訪れたことのない地の雪を、川の蛇行を、我々の前に映し出して。


  遠ざかるものみな青く五月尽      久野雅樹          

  春一番ゴッホの杉の巻き始む

  ぼろ市を見終えてセブンイレブンへ

  冷すもの牛にはあらでコンピュータ

  天の岩戸開けば暑きこともあらむ

  めぐるものあり大試験見守れり

  ここにまた生老病死冷蔵庫

  バカボンもカツオも浴衣着て眠る
    (『セレクション俳人 プラス 超新撰21』 邑書林 2010)

 『バベルの塔』久野雅樹氏の100句から。知性に着グルミを被せたような、綿密に計算された言葉で構成されている。依光陽子氏の小論のタイトルにあるハジメちゃんとはまさしく、恐るべき知性を包む柔らかなユーモアを表して。
「ぼろ市」「冷すもの」の句は、その諧謔性に目がいってしまいがちだが、ぼろ市に実際でかけてもマニアックな古道具屋が店を連ねている、といった風情で、真空管のパーツとかその筋に興味のある人でなくては触手の動かないものばかりだ(理系の知人は、ぼろ市でエアコンの送風部分のパーツなどを見つけてきて、温度センサーを備えた天井のファン装置をこしらえていた。天井付近の温度が上がってくると自動的にファンが動き出し、室内の温度を一定に保つという。凄い。よくぞあのガラクタの中から)。市につきものの飲食物の屋台も意外に少ないわりに、やたらと延々古道具屋が続くのを、ついコンビニに立ち寄ってしまうおかしさ。
「冷すもの」の句は、絶滅危惧種の季語である「牛冷す」という言葉を解体しつつ、現代の都市に暮らす真夏の風景を描き出す。
「ここにまた生老病死」の、シッダールタ王子の出家の原因となった逸話を「冷蔵庫」に取り合わせる構成の力。たくさんの死が詰まった白い扉。日々その前に立ち、その門を覗き込みながら、こちら側の人間もいつか老い、その扉の前に死にゆく。現代社会の都会における孤独死の傍らに、物言わぬ冷蔵庫が。
「バカボンもカツオも」、巷には現在の総理の顔を知らなくても、このキャラクターたちは指で示せる、という人も多いだろう。ギャグ漫画の急速な普及は、その影に戦後の高度経済成長があり、一億総中流と言われた昭和を象徴するものだ。この句に描きだされた昭和は、浴衣というものを用意してくれる祖母や母の姿をも想起させ、現在の、核家族からさらに孤へ分散した人間関係をあぶり出す。


 如何に前のものを引き受けて、どう次へ変化をさせてきたか、これが伝統というものの内部の力だと思うんです。前から伝えられたものをそのまま受け継ぐのではない。 (後略)
  
(「円錐」第48号 <検証・昭和俳句史Ⅱ―昭和の俳人1三橋鷹女 上> 山田耕司氏の発言から 2011年1月)



 



  

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