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2012年7月17日火曜日

風づくし02    上野葉月


白南風や世界一周貝柱   葉月

前回と話は前後して去年の出来事である。
昔から好きだったミシェル・ルグランのMoulins De Mon Coeurという曲を好きになったきっかけが、もう三十年ほど前の小林薫が出演していたサントリーウイスキーのCMだったことを何気なく思い出した葉月さんをイメージしていただきたい。
さて次に彼が何をするか。大方の人は想像付くかもしれない。そう、YouTubeで「ルグラン」「小林薫」「サントリーCM」などの語を駆使して検索をかけるわけだ。

結局探していたCMを発見することは適わなかったのだが、Moulins De Mon Coeurの邦題が『風のささやき』であることを突き止めるに至ったのである。なんという僥倖。深夜Displayの前でほとんど躍り上がりそうになった。時はちょうど句会の度に「風使ひ」の句を作っていたころの出来事。

Moulins De Mon Coeurから『風のささやき』への飛躍!
『風のささやき』……、うーん、まるで『男子高校生の日常』の「風使ひ」ヒデノリとやっさん(文学少女)の名勝負を彷彿とさせる邦題ではないか。三十年以上前にこの邦題を思いついた訳者のセンスに舌を巻かざるを得ない。

ここまで読んできてMoulins De Mon Coeurの英語タイトルがWindmills Of Your Mindであることを知っていて、なんで私がそんなに驚き喜びに震えたのか理解に苦しむ読者もあるかもしれない。

実はこの時点で私はフランス語歌詞が英語の歌詞からの仏訳であることを知らなかった。ミッシェル・ルグラン作曲だからフランス語の歌詞の方がオリジナルだと頭から決め込んでいたのである。まさに予断。フランス語で言うpréjugésに他ならない。
あまり私を責めないでいただきたい。ルグラン作曲なんだからフランス語の歌だと思い込むのをそれほど愚かしいことでもないはずだ(力強く断言はできないのは残念だが)。

歌い出しはこうである。
Comme une pierre que l´on jette
Dans l´eau vive d´un ruisseau
Et qui laisse derrière elle
Des milliers de ronds dans l´eau

せせらぎに放り込まれ
そのあとに
いくつもの水の輪を
残す石のように

冒頭の水のイメージが強いのでMoulins De Mon Coeurは長い期間私の中では『我が心の水車小屋』だったのだ。

『我が心の水車小屋』から『風のささやき』、これはかなりの距離を持った跳躍だ。
『君の魂の風車』から『風のささやき』だったら、特に驚きはしなかっただろう。

改めて英語ヴァージョンと仏語ヴァージョンを聞き比べてみると、英語の方が少し長い。でも歌われる内容全体のモチーフはほとんど変わらない。
ほとんど変わらないのだが、仏語ヴァージョン(Moulins De Mon Coeur)の方がずっと良く感じられる。

いつもなら英語が嫌いだからかと自分自身で早々に納得してしまうところだが、どうもそういうものではない。
もとよりフランス語が美しい言語だというのはあまりアテにならないような気がする。少なくとも響きでは日本語やイタリア語の方がきれいだし。
米系企業と十年近く付き合っているけど、あいかわらずアメリカ人の英語は聞き取り難くて困っている。それにアクセントが強すぎて話しているというよりしゃっくりしているようにしか聞こえないこともある。あるいは仕事の話なのにふざけているようにしか聞こえないとか、たいていの場合、相手は大まじめで話しているのだが。あとどこの国のかなり知性的な人間でも英語で話しているとIQが20程度は低く見えるということはあるかもしれないけど、メロディーに乗って言わば歌詞として英語で歌っているときにはそういう風には見えないものだ。
ちなみに印欧語系統ではペルシャ語やヒンディ語で話しているとなんとなく知性的に見えるのはどうしてなんだろう(あれは何言っているのかさっぱり見当がつかないせいかもしれないが)。

閑話休題。

英語ヴァージョン(Windmills Of Your Mind)がオリジナルで仏語ヴァージョン(Moulins De Mon Coeur)が訳詞であるにもかかわらず、仏語ヴァージョン(Moulins De Mon Coeur)の方がずっと自然に耳になじむように感じる。

参考までにオリジナルと仏訳歌詞を掲載しておく。

英語ヴァージョン(Windmills Of Your Mind)
Alan & Marilyn Bergman

Round, like a circle in a spiral
Like a wheel within a wheel
Never ending or beginning
On an ever spinning wheel
Like a snowball down a mountain
Or a carnival balloon
Like a carousel that's turning
Running rings around the moon
Like a clock whose hands are sweeping
Past the minutes on its face
And the world is like an apple
Whirling silently in space
Like the circles that you find
In the windmills of your mind

Like a tunnel that you follow
To a tunnel of its own
Down a hollow to a cavern
Where the sun has never shone
Like a door that keeps revolving
In a half forgotten dream
Or the ripples from a pebble
Someone tosses in a stream
Like a clock whose hands are sweeping
Past the minutes on its face
And the world is like an apple
Whirling silently in space
Like the circles that you find
In the windmills of your mind

Keys that jingle in your pocket
Words that jangle in your head
Why did summer go so quickly
Was it something that I said
Lovers walk along the shore
Leave their footprints in the sand
Was the sound of distant drumming
Just the fingers of your hand
Pictures hanging in a hallway
And a fragment of the song
Half remembered names and faces
But to whom do they belong
When you knew that it was over
Were you suddenly aware
That the autumn leaves were turning
To the color of her hair

Like a circle in a spiral
Like a wheel within a wheel
Never ending or beginning
On an ever spinning wheel
As the images unwind
Like the circle that you find
In the windmills of your mind


仏語ヴァージョン(Les Moulins de Mon Coeur)
Amaury Vassili

Comme une pierre que l´on jette
Dans l´eau vive d´un ruisseau
Et qui laisse derrière elle
Des milliers de ronds dans l´eau
Comme un manège de lune
Avec ses chevaux d´étoiles
Comme un anneau de Saturne
Un ballon de carnaval
Comme le chemin de ronde
Que font sans cesse les heures
Le voyage autour du monde
D´un tournesol dans sa fleur
Tu fais tourner de ton nom
Tous les moulins de mon cœur

Comme un écheveau de laine
Entre les mains d´un enfant
Ou les mots d´une rengaine
Pris dans les harpes du vent
Comme un tourbillon de neige
Comme un vol de goélands
Sur des forêts de Norvège
Sur des moutons d´océan
Comme le chemin de ronde
Que font sans cesse les heures
Le voyage autour du monde
D´un tournesol dans sa fleur
Tu fais tourner de ton nom
Tous les moulins de mon cœur

Ce jour-là près de la source
Dieu sait ce que tu m´as dit
Mais l´été finit sa course
L´oiseau tomba de son nid
Et voila que sur le sable
Nos pas s´effacent déjà
Et je suis seul à la table
Qui résonne sous mes doigts
Comme un tambourin qui pleure
Sous les gouttes de la pluie
Comme les chansons qui meurent
Aussitôt qu´on les oublie
Et les feuilles de l´automne
Rencontre des ciels moins bleus
Et ton absence leur donne
La couleur de tes cheveux

Une pierre que l´on jette
Dans l´eau vive d´un ruisseau
Et qui laisse derrière elle
Des milliers de ronds dans l´eau
Au vent des quatre saisons
Tu fais tourner de ton nom
Tous les moulins de mon cœur


思うにComme quelquechose(何々のように) と始めて、あとから次々に修飾を重ねて行くような言い回しはフランス語では自然な流れだ。
フランス語では(おそらくラテン語系では皆そうなのだろうけど)形容詞は名詞のあとに来る。それにフランス人は日常的にde(英語のofやドイツ語のvonに相当)を頻繁に使用して語の連結を長くする傾向がある。さらに関係代名詞であとから説明を付け加える。

普通に会話していてもフランス人だと話しながら文章の着地点を探っているときが時々あるように見える。日本語だと一文の着地点を設けずに話し始めるのはかなりの冒険になってしまうが。

このMoulins De Mon Coeurの場合、「何々のように」の淀みない繰り返しが風車の回転の連想作用を強化している。

例えば、

Comme un vol de goélands
Sur des forêts de Norvège
Sur des moutons d´océan

この一節を語順になるべく忠実に日本語に移そうとすると

鴎の飛翔のように
ノルウエイの森の上の
海の白波の上の

と日本語にしては据わりの悪い、ある意味詩的な倒置になってしまうが、フランス語では会話でも日常的に可能な語順だ。

続く二行でも同様で

Comme le chemin de ronde
Que font sans cesse les heures
円環の途のように
時を休み無く刻み続けるところの

日本語だとよく考えないと時計の文字盤の比喩だということもわからない。

結局全体の大意をくみ取るようにしかも原詞の語順に即して訳すというのは大変難しいものだなと今更ながら思ったりする。

しかし乗りかかった舟。以下Les Moulins De Mon Coeurの日本語試訳を載せます。もちろん仏語歌詞の語順に忠実ではありません。あきらかな誤訳もあるかもしれないけどあんまり怒らないでください。


せせらぎに放り込まれ
そしてあとに
いくつもの水の輪を
残す石のように
星の馬で飾られた
月の回転木馬のように
土星の輪のように
カーニヴァルの風船
時を休みなく辿り続ける
円環の途のように
ひまわりの花の
世界一周
君は君の名で
いっせいに僕の心の風車を回す

子どもの両手の間の
一束の毛糸のように
または風の竪琴にからまる
聞き慣れた歌の文句
旋回する吹雪のように
ノルウエイの森の上の
海の白波の上の
鴎の飛翔のように
時を休みなく辿り続ける
円環の途のように
ひまわりの花の
世界一周
君は君の名で
いっせいに僕の心の風車を回す

あの日泉のほとりで
君が僕に言ったことを誰も知らない
だが夏はその行程を終え
鳥は巣から落ちる
そしてほら砂の上
僕たちの足跡はすでに消え去る
そして僕の指の下で音を立てるテーブルで
僕はひとりだ
雨粒の下の
泣くタンバリンのように
忘れられるやいなや
朽ちる歌のように
そして秋の葉は
青みを失った空と出会う
そして君のいない秋は
君の髪の色になる

せせらぎに放り込まれ
そしてあとに
いくつもの水の輪を
残す石
四季の風の
君は君の名で
いっせいに僕の心の風車を回す

2012年6月30日土曜日

風づくし01   上野葉月


風薫る緑茶の色のワンピース  葉月

葉月句というのはその時々のお気に入りキャラクタを句会の度に一句は必ず読み込んでしまう傾向があって、これまでも「秋の海」、「東京眼鏡つ子」、「おつかさん部隊」、「足洗ふ女医」などの人気キャラクタが世の多くの心ある俳人達の強い支持を受けてきたのはご存じの通りだ。こういう使いまわしというかスターシステムとも呼べる形態を採用してしまうのは結局のところ手塚治虫や吾妻ひでおのマンガの影響なのだと思う。

そんな私が一年ほど前から句会で頻繁に登場願ってしまうのは「風使ひ」である。
「風使ひ」とは何か説明すると長くなるが、要するにガンガンONLINE連載中の山内泰延『男子高校生の日常』で数多くの名勝負を繰り広げたヒデノリとやっさん(文学少女)の二人のことだと考えてくれて良い。
http://www.square-enix.com/jp/magazine/ganganonline/comic/danshinichijyo/

てなわけで、この数年「風使ひ」と言えば『男子高校生の日常』、「でもこの風…、少し泣いています」「風がこの町によくないものを運んできちまったようだ」、「急ごう、風がやんでしまう前に」etcが世の常識だった。

しかしながらその平安な日々も長くは続かなかった。2012年2月を境にすべては変わった。今や「風使ひ」といえば緑川なお一色「勇気凛々直球勝負!」「風のプリキュア・キュアマーチ」。
まさに「そのとき歴史は動いた!」である。

100億円玩具市場を背負ったプリキュアシリーズ。キュアピースが「1+2+3+4」を即答できなかっただけで、全国津々浦々のお父さんお母さんが「勉強ができなくてもプリキュアになれるの?」と質問攻めにあってTV局の電話に苦情が殺到するようなコンテンツは、やはりガンガンONLINEとは格が違う。

このところ年を追うごとにTV離れが進みどんな番組でも視聴率の低下傾向に喘いでいるわけだけど、視聴率なんてまるで気にしないでただひたすら玩具の売上げ高だけを注視しているバンダイという企業には学ぶべきところが多いと思う。そういえばプリキュアシリーズの前にやっていた『明日のナージャ』は視聴率も良く視聴者層の保護者の評判も悪くなかったらしいが、玩具の売り上げに結びつかなかったのでシリーズ化しなかったそうだ。

以前ウラハイでもちょっと触れさせてもらったが(http://hw02.blogspot.jp/2012/05/blog-post_05.html)プリキュアは二人が基本である。

しかしながら今期は放映開始早々五人が登場。これなんか玩具の売上げをきわめてセヴェラルに見つめた選択であることは疑いない。プリキュアシリーズですらそこまで追い詰められている今日この頃とも言えるかもしれない。

今期スマイルプリキュアではっきり感じ取れる全体的に明朗な雰囲気も時代の反映に他ならない。世間の暗い雰囲気に反比例する形で明るい方向性が強くなっている。人類史上最悪の事故が進行中のこの国でどこまでの明るさが求められ続けるかは予想し難い。
わずか二年前のこととは今となっては信じがたいが、ハートキャッチプリキュアが未就学児童向け番組としては臨界状況ともいえる過酷な筋立てになってしまったのも、ある意味まだまだ世の中にそれだけの余裕があったからかもしれない。それにしても月影ゆり、最終的には「妹殺しのプリキュア」だもんなあ。いくらなんでもつら過ぎないか。

今期はタイトルからしてスマイルだし、エンディングのダンスなどひたすら明るい。敵キャラもなんか普通にほのぼのしていかにも幼児向けだし。やっぱりプリキュアのような影響力の大きいコンテンツは反作用で世相から影響を同時に受けるものだとしみじみ感じる。

さてスマイルプリキュアの「風使ひ」キュアマーチだが、どこかスタッフ連から強くサポートされているように感じられて仕方がない。『プリキュア5』の秋元こまちが散々「緑は存在感がない、緑は空気」と言われまくった反省なのか、キュアマーチ/緑川なおに関しては、台詞も見せ場もズームアップも他のメンバーより若干多めだ。さらに言えば変身後の髪の毛も多めだ(そういえば、スマイルプリキュアの各メンバは変身後に比べて変身前の方がずっと可愛いのには何か意図があるのだろうか。というか玩具販売的には問題なのではないか)。

「こんなにあざといとかえって清々しい」とまで言われたキュアピース/黄瀬やよい登場時には、このままではコミケが真っ黄色になるのではないかと広く世間で危惧されたものだが、二次創作のフィールドでもキュアマーチ/緑川なおの巻き返しが目に付く。たとえばpixivでの緑川なお関連のタグの量には舌を巻く。「すこぶるどうでもいい」「なおちゃんマジ男前」「風の谷のなおしか」「なおの虫嫌い」「スマプリ7話ノーブラ事件」「腹ペコなおちゃん」「なおれい」「れいなお」「風使い」「もふもふマーチ」「なおちゃんマジ総受け」「なおこれかわいい」「マーチシュート」「なおこれかっこいい」なんというか本当に数え切れない。属性多過ぎだろ。

プリキュアシリーズは年々恋愛要素が希薄になる傾向にあることはよく知られている。具体的には男子キャラの出番が減少しているとも表現可能だ。恋愛がらみの展開は視聴者の保護者に受けがよくないそうだ。気持ちはわからんでもない。
でも最近のプリキュアは水着にもなれないなんて過剰な対応のような気がする(触手を出さないというのは理解できるし賢明な選択だと感じる)。
ともあれ男子キャラの登場が少なくなるほど、大きなお友達は百合方面への妄想に突っ走る傾向が強くなるわけだが、これを負のスパイラルと呼ばずしてなんとしよう(でももしかして正のスパイラルだと感じる人間が少数とは限らないのか?)。
それに緑川なおと青木れいかが幼なじみだというだけで、オタクというのはなんであんなにも食いつくのだろう。口にしても詮無いことだが。
RGBトリオ(わからない人はGoogleで検索!)関連イラストで頻繁にあかねとれいかがなおを取り合っているし。二年前はダークプリキュアと来海ももかが月影ゆりをよく取り合っていたものだけど、あれなら本編のストーリーとの関連性が推測できないこともないが、今期に関しては少し先走りすぎているように思える。

誰も指摘していないような気がするのでこの機会に言っておきたいのだが、今回の緑川なおの声は明堂院いつきを強く意識していると思う。キュアマーチ/緑川なおの声を担当しているのは学習院が世界に誇る“できる子声優”井上麻里奈だが、念願叶ってプリキュア出演を果たしたせいか気合いが入っているのが如実に伝わってきて好感。しかしながら少し固くなっているというか熱情が内部で旋回して外に突き抜けていかない印象もある。

まあ例えばニャル子さん(CV:阿澄佳奈)ような感じで突き抜けた演技になるとプリキュアではなくなってしまうわけだけど。
http://www.youtube.com/watch?v=Z3lLl9Qx6iQ

(つづく)…(つづいてしまった、なんとなくスランプだが、次回を刮目して待て!)

2010年12月15日水曜日

来た!見た!勝った(何に?)

ごきげんよう。スカートのプリーツは決して乱さない俳人葉月です。

コンビニエンスストアに入ると年賀葉書が目に付く季節になりましたが皆さん如何お過ごしでしょうか。今年もやり残したことばかり、なんてことを私なんぞはつい考えてしまいます。
おそらく死に際になってもやり残したことばかりとか思ったりするんでしょう、私の場合。でも、せめて集中治療室で死ぬのだけは避けたい。世の中、孤独死を問題視する傾向がもしかしたらあるのかもしれないけど、あんな24時間明るくてやかましい場所でチューブだらけになって死ぬくらいなら、孤独死の方がよっぽどマシじゃないだろうか。
それにしても生まれ変わったところでまた同じように後悔の多い人生を送るかと思うと今からウンザリである。まだ始まってもいないことを思い煩う辺りが私の駄目なところか。
ところで悟りを得ない限り「無限に」輪廻転生を繰り返すとしたら、どんな生命も最終的には「必ず」涅槃に至ると考えることは仏教的に(社会思想的に?)はともかく数学的に意味があるのだろうか。

そんな訳で『マリア様がみてる』実写映画のこと。何故「そんな訳」なのかと言うと『お釈迦様もみてる』からの連想というだけの話なのだが。
正直なところ自分でも見に行くとは思っていなかった。なにしろあれほどSense of
Wonderが散りばめられSFマインド横溢の作品をアニメ化するだけでもぎりぎり崖っぷちな感じなのにまして実写映画化なんて何考えているのだろうってなものである。
実写版『デビルマン』みたいに日本映画史上に残る愚作ぐらいの評判が立てばもちろん見に行くつもりではいた。
撮影期間が実質一週間程度だったという話も聞いていたので、単なるやっつけ仕事的な映画だろうと予想していた。実写版『キャッツアイ』のように中途半端な駄作ぐらいな印象になるのではないかと。

映画が公開されてすぐWEBで頻繁に評判を目にするようになった。ごく普通にWEBにアクセスしているとどんどん『マリア様がみてる』情報が入ってくる(いやそれはごく普通じゃないから。でも元来WEB上には『マリア様がみてる』情報が大量に出回っている。二次創作・パロディの類の量と云ったら歴代のその手のものが多いので有名な人気作『キャプテン翼』や『テニヌの王子様』を遙かに凌駕しているのではないか。単に人気があるというより極端に愛されている作品である。原作を一度でも読むとどうしてもユニラテラルな「衝撃のスール宣言!」という暴挙に出た上にロザリオの授受を行ってしまうらしい(当社比))。たいていの人は恐る恐る見に行ったけどけっこう良かったという感じ。

なかには祐巳役の役者さんが素で下手なのか役作りの結果ああなっているのかさっぱりわからず何度も映画館に足を運んでしまう人も出ているとか。何度も映画館に足を運んでしまっても結局結論が出ないので、もしかしたらあれは「千の仮面を持つ少女!」なのではないかとも。
「千の仮面を持つ少女!」と聞いてもう居ても立ってもいられず勤め帰りに新宿三丁目で見てしまいました、レイトショー1200円。

面白い。1200円分くらいは絶対に楽しめます。特に祥子と祐巳が体育館でダンス(の練習を)する場面はアニメ版なんかより遙かに良い。映画っていいなあ。祐巳役の未来穂香は確かティーンズ誌のモデル出身だったはずなのだがなんとなく他の役者さん達に比べてずんぐりしているところが良い。
それから藤堂志摩子。世界中の多くの人々と同じように私もまた能登声以外の藤堂志摩子というのはまったく想像できなかったというか積極的に拒絶反応が出るとばかり思っていたのだが高田里穂の演じる藤堂志摩子にまったく違和感を覚えなかった。そのうえ、”魔法少女シマコ”ネタもしっかりフォローしている。
だいたい所謂無印って写真部のエース蔦子さんの出番が多いのでわたし的にポイントが高めなんだよなこれが。

実際のところ私は原作を十回以上読んでいるので映画の内容を理解するのに苦労するはずもないし、滑舌が悪くて台詞が聞き取り難いところをスルーしていまう傾向もあったのだが、原作未読の人にとっては登場人物の名前を憶えることすらもしかしたら難しいかもしれない。
そういう点では観客を選ぶ映画である可能性が強い。しかし『仮面ライダーオーズ』ファン、『マリア様がみてる』原作ファンだったら見て損のない映画だと断言できる。

もう少し時間をかけて丁寧に撮ったらよくなるのにという場面は多い(というか満載なのだ)が、「惜しい」という気が全然しない不思議な映画。
結局、映画っていうのは監督次第なのだなという感慨に行き着く。同じ監督の『デメキング』や『口裂け女2』も是非見てみたいと思いました。

生物部顧問ガーターベルト冬  葉月


2010年11月2日火曜日

「ちっちゃいって言うな!」と小日本は言った   上野葉月

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2010年10月26日火曜日

暮の秋   上野葉月

アッラーの造り賜いし世界は数多くの神秘に彩られているので、三十一歳年下の幼馴染みに「勘違いしないでよ!」と言われてしまう危険性がまったくないとは断言できない(実際その場合ほぼ確実に勘違いである可能性も高い)けど、1US$が100円以上に戻ることなんて、食パントーストを咥えた高校生と街角で鉢合わせくらいありえない出来事のような気がしてきた葉月です。お久しぶりです。そういえば最近久しぶりにウラハイに『恋のハンムラブ法典』という記事も書きました。

私が若い頃は1US$が100円になったら日本沈没なんてことがしきりに言われていたが、今じゃ1US$が80円。本当に安くなったものだ。どういう縁なのか米系企業で働くようになって八年にもなるけど、USって日夜順調に衰弱している印象は拭えない。ドルが紙屑になってしまうのはそんなに遠い将来ではなさそうだ(ま。もともと単なる紙屑なんだけど)。

それにしても世界の主な宗教のほとんどは金銭の貸し借りで利子を得ることを禁止しているのに、今や地球上の主な場所で拝金主義とでも呼べるようなものが蔓延ってしまっているのはどうしたことだろう。資本主義と言えば資本主義なのだけど、だいたい経済成長が永遠に続かない限り存続不可能なシステムなんて早晩機能不全に陥る事なんて誰の目にも明らかだろうに。長期的にはほとんどの人が第一次産業に従事する自給自足的なつつましい社会に戻っていくことは避けようもない。

それにしても最近の円高。もともとが日本の世帯あたりの貯蓄残高は平均でも(平均でも?!)一千万円超だし、そんな預金ばかりでなくそのほかに資産もあるだろうから国民全体としては紛れもなく世界有数の金持ちな訳だけど、この調子じゃ、日本人全員が働かず海外から安いものばかり輸入して貯金取り崩してごろごろ食っちゃ寝していても十年以上はどうにかなりそうだ。さらに円高が続けば、何十年もごろごろできそう。そんなに長い間円高が継続する理由もないけど。

ここのところ、一部若手俳人の間で働かないライフスタイルが定着してきていると言う人が跡をたたないのはそれなりの根拠が確かであるようにも見えるけど、上記のような事情も多少は後押ししているのかもしれない。

我が身を振り返って思うのは、働いたら負けというのは自明なのだが、働かないでいたらもっと負けているような気がするのは何故なんだろうという疑問だ。食うために働いているという錯覚に人間は陥りやすいけど、実際には人から役に立っているように見られたい(誰かに頼られたい)という要求の方が勝っているような気もする。
私も数年後には引退して、どこか暖かくて食料の豊かな物価の安い国に移住する可能性は高い。働いたら負けというより、もう何十年も世界平和のために戦い続けたのでさすがにもう疲れましたという感じではあるわけだが。
私ってけっこう真剣に日本は鎖国すべきだと主張しているのだけど、本人はどこか別の国に移住するつもりであるあたり愛嬌である。この辺の現行不一致が愛されてやまない理由のひとつなのかもしれない。

ひと月ほど前に長年借りていたロードバイクを友人に返して現在MTBで通勤している。あまり予想できていなかったのだけどMTBだと走っていてもあんまり楽しくない。私はそんなに速度を出すタイプではないのだがそれでもMTBだと何かしら緊張感が足りなく感じる。ロードバイクだとタイヤやホイールを痛めるので余程追い詰められないと歩道に乗り上げたりしまいものだが、MTBはタイヤが頑丈なのでちょっと車道が危険だと歩道に移ってしまうせいもあるかも。

どうしたって引越しなければいけない現状なので、住むところを見つけてからロードバイクを買うつもりだった。でも最近ロードバイク禁断症状が出てきていて、いつまで我慢できるか心配だ。考えてみると中学生の頃から自転車でよく高尾山へ行っていたりしたので趣味(スポーツ?)として自転車とかかわるようになってから随分長い年月が流れている。いつのまにかのスポーツ車中毒?

TVドラマ『ゲゲゲの女房』で長女の藍子ちゃんが小学四年生時に行ってもいない高尾山に家族で登った作文を書いたせいでミシュランガイドで高尾山に星がついてしまったりしてけど、ミシュランの日本版はやればやるほど墓穴を掘っている印象があるのは私だけだろうか。オリジナルの赤ミシュランガイドのフランス版イタリア版など住所と電話番号ぐらいしか情報のない質実剛健なうれしいガイドなのに、日本版のふにゃふにゃ感はどうしたことだろう。最近関西版も出たけど、京都ではミシュランに載っている店よりミシュラン調査員なんて入れない一見さんお断りの店の方がずっと格が高く評価されるのは火をみるより明らかではないのか。近いうちに「いきなりぶぶ漬けガイド」と呼ばれないことを祈るばかりだ。

さて東京の一部地域には全ての道は高尾に続くという諺がある。終電でうまいことシートに座れたと思ったら気がついたときには高尾で大量のタクシー代金が消費してしまうなんてことが中央線でも京王線でも頻発するので、まあ諺にもなるだろう。高尾山には天狗も住んでいるし。
調布市民としては天狗と言えばやはり仙川の天狗。江戸時代から昭和初期まで活躍した天狗様で数多くのエピソードを地元に残している。でも昭和48年小学校四年生だったTVドラマ『ゲゲゲの女房』長女の藍子ちゃんは仙川の天狗を知らなかっただろう。それにしてもなにしろ全国津々浦々の善男善女が見るNHKの TVドラマは常に子役選定に命をかけていると言っても過言ではない状態なのだが、今回村井家の長女次女の演じた子役達は本当にもう確実に不退転の決意と言って良いほど力がはいっていた。特に長女四年生次女幼稚園時の配役は神がかりとすら感じました。

結局私が何を書きたいかというと天狗で有名な仙川で10/30(土)に行われる吉祥寺句会番外編のことです。いつも前振りの長い葉月のこととは言え、今回の前振りは本当に長かった。
http://93825277.at.webry.info/201010/article_1.html
サイゼリア仙川店での出句時間は16:15ですが、欠席投句(メール出句)の場合15:15締切です。
出句時間は16:15ですが、欠席投句(メール出句)の場合15:15締切です。
(大事なことなので二回言いました)
ではよろしくお願いいたします。

呼び鈴の乾いた音や父の秋  葉月


2010年9月28日火曜日

何かいいことあったらなんなの   上野葉月

マンガ喫茶で矢吹版『迷い猫オーバーラン』を読んでいたら入浴シーンが12ページも続いたので、ついその足で仙川湯けむりの里へ行ってしまった葉月です、ご機嫌よう。
それにしても私ってどうしてこれほどまでに自分でも呆れるほど素直でわかりやすいのだろう。まあその辺が多くの人に深く愛される由縁なのだろうけど。

「竹下景子さんに200点」という文句が局地的大流行になる元凶となった『ゲゲゲの女房』最終週に至って満を持して(?)一反木綿オープニング登場にはさすがに私も驚きました。そういえば『ゲゲゲの女房』公式HPの写真集と題されたコーナーでタイトルバック・リニューアル撮影風景の写真が公開されているのだけどいくつかの写真が怖ろしく可愛い。
http://www9.nhk.or.jp/gegege/photo/vol06.html

思い起こせば『ゲゲゲの女房』初回を見たとき、オープニング最後のふたりで自転車に乗っている後ろ姿だけで泣きそうになった。ドラマが始まる前から泣かされてどうするんだっ、てなものである。
句会で象、鯨、白熊など大型哺乳類の出てくる句は必ず採ってしまうことはよく知られているのだけど、自転車の句も必ずと言っていいほど採ってしまうような気がする。どうして私はこんなに自転車に弱いのだろうか。謎だ。

最近やや下火になってきた気配もあるけど、世間ではかなり長い間(10年近く?)自転車ブームとでも呼べるものが続いていた印象がある。

職場で私の他に自転車通勤している人がもうひとりいる。彼は今時珍しいタイプ独身貴族なので80万円と150万円のロードバイク2台持っていて、交互に乗って来たりしてます。先日職場近くに停めてあったその同僚の自転車が盗難に遭った。盗まれたのは80万円の方。
そんな出来事がきっかけで自転車保険についてちょっこし調べてみたのだけど、ほぼ完全になくなっている模様。

数年前は10社近い保険会社が参入していた記憶があるのだけど、どうやら昨年ぐらいまでに撤退してしまったようだ。そう言われて見れば商品として成立するとも思えない。
昔っから自転車盗難は窃盗事件の中でも桁違いに多数だったし、自転車の事故も多く、私が子供だったころからずっと交通事故の死者の20%程度は自転車のサドルにまたがっていたはずだ。近年交通事故死者全体の数が減ったので自転車運転中の死者の割合は少し大きくなる傾向があったと思う。

葉月は意図的に出鱈目を書き連ねることも多いのだが、単なる記憶違いや勘違いもそれ以上に多いので、気になる方はご自分で調べてください。筆者が調べるのではなく読者が調べる。これがWEB2.0!!(ちょっこし違う)

近年、日本ではあんまり犯罪が減ったので、90年代ぐらいからそれまで件数が多すぎるため統計に入れてなかった自転車盗難も警視庁の犯罪統計に加えるようになったのではなかったか(これもよく調べないで書いています)。
ともかくこの30年ほどの日本での犯罪の減少は半端無くて、特に凶悪犯罪の類、殺人、強盗、性暴力、子供の虐待死など軒並み十分の一ぐらいに減っている。日本人は本当におとなしくなった。考えてみると成人男性のほとんどが武器の使い方を知らなければ触ったことすらないという状態が三世代にも渡って続くというのは一種の社会実験とすら感じる。

昔だったらマスコミが取り上げなかったような子供の虐待死など最近珍しがってマスコミが詳細に報道するので本当に勘弁して欲しい。ほとんどマスコミに接しないように気をつけている私の耳目にすら入ってくるぐらいだ。ああいう報道はどうにかして欲しい。

さて自転車に話を戻すと、東京の街というのは自転車通勤者にとってかなり辛い場所だ。
元来、自転車というのはかなり危険な乗り物で、人や自動車にぶつかりそうになることはほとんどないのに自転車に頻繁にぶつかりそうになる。そもそも見通しの悪い交差点で一時停止するという、交通法規とかマナーとか以前に正常な神経の動物だったら自然に喚起されそうな行動をあえて起こさない人がけっこういる。

自転車は車両なので車道の左側を通行しなければいけないのにそれを守っていない人が多い。
歩道を走る人も多い。これには理由があって原則車道なのに車道自体があまりにも整備されていないので歩道が自転車通行可になっている場所が多すぎたりするのだが。
だいたい所謂ママチャリだって、長い下りの坂道だったら時速100kmぐらい平気で出るのに、無免許で乗れる上にヘルメットが義務化されているわけでもない。そういう乗り物に小学校低学年の子供とか副腎皮質ホルモンの横溢している妙齢のご婦人などがいくらでも乗っているのだ。

様々な困難を挙げ連ねるときりがないが、総じて東京は自転車通勤者にとって優しくない環境であるのは疑いない。それでも自転車通勤者があまり減る気配を見せないのは、自転車がそれほど魅力的だと言うよりは一度自転車通勤を経験すると満員電車に乗る通勤に戻れないからのような気もする。私自身、雨の日にしか電車通勤をしないので単に雨で憂鬱になるのと満員電車の憂鬱を混同している可能性もあるのかもしれないけど。

自転車は危険だらけなので、自転車で無事出社したり帰宅したりすると、それだけで小さな達成感がある。こういう日常のささやかな達成感は心の健康を保つのに有効だという部分もあるかもしれない。
そんな統計があるとは思えないが、電車通勤者と自転車通勤者の自殺率を比較したら統計的に明かに有意な差異が観測されると思う。

ここまで書いてきてふと思い出したけど、古今東西、どんな社会でも独身男性の死亡率と配偶者のいる男性の死亡率は統計的に有意どころか、歴然と差が出ることはよく知られている。奥さんがいるだけで事故死したり病死したりする割合が減じるのである。ほんに奥さんとはありがたいものである。
親愛なる読者諸氏の中には独身の男性俳人もおられることと思うが、とりあえず作句などは自動機械に任せておいて婚活に励むのもよいのではないだろうか。
小さくてころっころっしているの希望、とか、田舎っぽい感じが好き、とか、看護師さんじゃなきゃやだ、とか、若くて眼鏡かけてればなんでもいい、とか、人にはそれぞれ事情があるかもしれないけど、とりあえず結婚しなさい。
死亡率がさがるぞ。

次々と蚤味わうや猿の秋  上野葉月






<句会告知>
来る10月30日(土)、久しぶりに吉祥寺句会番外編を決行します。
今回は”東京で最もおしゃれな街”仙川です。
いつものように挨拶はご機嫌よう、とび入り可、欠席投句可、飲み会のみ参加可。

場所:サイゼリア仙川店
題 :惹、具、リング、仙、川、及び当期雑詠、(ひとり10句まで投句可)
集合:16:00
出句:16:15

清記ののち、16:45からはせんがわ劇場にて某飛び地先生のジャグリング見物。
http://ppqp.web.fc2.com/

18:30
ジャグリングとまったく無関係につつじヶ丘某所で『肉じゃがじゃない会』
サブタイトル:今回は本当に最終回、家具でも食器でもCDでもDVDでも持ってけ泥棒!!

参加表明及び質問は葉月メールかmixiへ。
よろしくお願いいたします。

2010年9月15日水曜日

何かいいことあったらおっぱい

義理なんだから、勘違いしないでよ!!

ヴァレンタインデーまであと五ヶ月となりましたが、皆さんお元気でしょうか?(さすがにこれほどまでに季節感をないがしろにした挨拶だと現○協はともかく○人協会あたりからは苦情が来そう)

それはそれとして、
今のは失敗じゃなくおっぱいだと思え!
所謂bakegirlsの中ではやっぱり神原がお気に入り(フィギアとか買ったことのない私だけどネンドロイド神原は欲しい。誰か誕生日にプレゼントしてくれないかなあ。自分で買えとか言われそうだが)。

柄にもなく先日マーケティング関連の本を読んでいたら、その本の主題とは直接関係ない話題だったのだけど、「第二次大戦での日本の損失を経済的に計算すると当時の貨幣価値で600億円に相当。所謂バブル崩壊後十年間の日本の経済的損失は1800兆円に相当。貨幣価値の違いを考慮して計算し直してもこの十年に大戦の経済損失の2倍以上の損失を被っている」というような記述が目を引いた。
80年代後半以降の日本の金融自由化を「第二の敗戦」と呼ぶ人はけっこういるけど、銃声一発鳴らなかった継続的信用崩壊の損失が、日本中の大都市が焼け野原になったあの大戦の損失を上回るというのはさすがに実感が沸かないものだ。
もっとも日本を代表するワーキンプアとしてこの十年ほども辛苦を舐め続けている葉月としては、経済的流血は一向に治まる気配がないように肌で感じる部分もある。
2002年から2007年の6年ほど、日本企業の収益は伸び続け“いざなぎ景気越え”とマスコミから無理矢理呼ばれたりもしていたのに生活は苦しくなる一方で、おそらく私のような非正規な人間(?)じゃない普通に働いている人たちにも充分流血感を覚えることは可能だったように思う。

日本は1990年代からこっち長期金利2%以下という状況が続いているが、先進国(アクティブな産業国?)が10数年以上に渡ってこういう状態に陥るのは17世紀初頭のイタリア・ジェノバでの金融恐慌以来の実に400年ぶりの異常事態だったりする。失われた10年とか20年とか言っているが要するに近代以降の人類にとっての初めての危機に直面しているということだ。

あのペテン師というレッテルを千回貼り付けたところでおつりが来そうな(前FRB議長)グリーンスパン氏は2008年の経済危機に際して「100年に一度あるかという危機」だと表現したそうだが、実際のところ日本についてはその10年前から「400年に一度の危機」だったのだ。

そもそも銀行(近代金融)というのはイタリア人が始めたもので、それはもうイタリア人が考え出したぐらいだから皆も想像付くとは思うけど「いい加減」と「その場しのぎ」をダ・ヴィンチがデッサンした上にミケランジェロが彩色したようなものすごい出来映えのシステムである。
あんまり不安定なものだから、その後、大航海時代、ルネサンス、産業革命、帝国主義、グローバリズムなど控えめに表現してもかなり傍迷惑だと言える副産物を生み出し続けることとなった。
まあそれくらい銀行というのは人類の近代の本質にかかわるシステムなのだ。大抵の国で大銀行が破綻しそうになると、財政危機で鼻血も出ないと日頃言っている癖に普通の人間にはとても実感できないような巨額の税金を投入して銀行を救済するのも、市民の生活苦よりも国家の存続よりも、銀行というシステムが人類の近代の根幹をなすからである。

現在の産業社会で日本はトップランナーであり、今日の日本で起きていることは明日の世界のいくつかの国の姿なのだと私は(不安と微かな不快感をもって)主張する機会が多いのだけど、やはり日本の今後には期待してしまう向きもある。
日本人の得意技、積極的な引きこもり。鎖国政策と表現してもいい。私はあえてローカリズムと表現したいが。

金融危機とは危機であると同時に金融の軛から逃れるチャンスでもある。

人類の近代は地球上の工業製品を溢れさせ、同時に豊穣な文化の多様性を根こそぎにしてきたが、まだまだ手遅れだとあきらめることはないと思う。

数十年では無理だとは思うが、数世代に渡って慎重かつ丁寧に事を運んでいけば、日本はまた独特な文化を保持する多くの人間の関心を引かない取るに足らない貧乏な島国に成り上がることも可能だと信じる。ほとんど尊皇攘夷と言っていることは変わらないが、さらに言えば地域貨幣のみの流通で経済圏を縮小できればそれにこしたことはないと思う。正直なところ国家なんてものはせいぜいシンガポール程度の大きさでも大きすぎるぐらいの印象がある。それはそれとして、情報についてはともかく人と物と金融の移動をかなり制限できれば、人間はこんなに過剰な生産と消費に追われまくられず、少しはのんびりと雑談に興じたりする暇を持てそうだ。

数世代後には世界中の多くの国や地域が同様の価値観(物を捨て時間を取る)で行動するようになるかもしれない。かつてジャパン・バッシングならぬジャパン・パッシング(PASSING)だと言われた時期があった。今後も努めて身を低くしてスルーされ素通りされ続けるのが良いのではなかろうか。とりあえずこのような方針をガラパゴス・プロジェクト(仮)と名付けておこう。

遮断機のゆるりと降りる星月夜  上野葉月

2010年9月8日水曜日

何かいいことあったらいいです

残暑お見舞い申し上げます。今年に限っては酷暑お見舞いという言葉を使いたいぐらいですが。

あんまり暑いせいからなのかもしれないけど、とことん自分が大抵のことに忌み疲れているようにふと感じました。
生活は安定せず、相変わらず住所不定だし。三界に家なしとは私のような者のための言葉であるかの如く。
友人の中には私がこんな状況を楽しんでいるのではと勘違いしている向きもないわけではないのですが、正直に言わせてもらえば飽き飽きです。
本当に疲れるばかり。しかも回復力が低下しているし。我ながら本当に愚痴っぽくなったなあ。
若い頃は憂鬱が嵩じて自殺するぐらいなら、気晴らしに人でも殺して刑務所に入るぐらいの方がましだと考えられるような人間だったけれど、もうわざわざ人を殺すような元気もない。

考えてみると、これまで惜しみない賞賛に彩られた清廉潔白な人生を歩んできたのは、悪行を重ねて後ろ指をさされるような生活を送ったら両親が悲しむだろうということだけが倫理的な抑止力になっていたためのような気がする。ところが実際に親が死んでしまうような年齢になると、よくしたもので、悪行を重ねるだけの体力もない。
こういう場合、子供の存在というのはあまり抑止力を持たないように思う。私が逮捕されたりしたら子供達は迷惑には感じるだろうけど、あんまり悲しむような印象がない。いずれにしても犯罪に走る元気もないのでこうやって気晴らしに投稿したりしているわけだけど。
家族というのは本当に不可解なものだ。以前どこかに「人類を極端に自己家畜化の進んだ動物であるとする定義はけっこう有効」みたいなことを書いた憶えがあるけどやっぱり「人間は結婚する動物」だよなあ。
昨年『親族の基本構造』を読み返したばかりだけど、また読みたくなってきた。

ご存じのように私の俳号は葉月だが、だからと言って別に八月が好きなわけではないし、今年の八月は何しろ暑苦しくて何もやる気になれなかった。
それでも気になって八月中ずっと追いかけていたニュースがあった。
イラン初のブシェール原子力発電所。
燃料はIAEAの監視下に置かれる方針も通り、8/21には核燃料の装着作業開始ということで、21日までにイスラエルによる爆撃を危惧する声が各方面から上がっていたのだけど、とりあえず爆撃がなかったのは僥倖と言える。
何しろイスラエル空軍にはすでに完成間近のイランの原発を戦闘機で空襲・破壊した前科がある。あれは米国ではレーガン大統領の二期目だったからもう30年くらい前だ。

今回はイスラエル外務省が非難声明を出しただけにとどまっている。このまま進めば無事稼働に漕ぎ着けそうな気配。

イスラエル-英国-米国という連合の相対的な政治力の低下がまた顕わになった印象も強い。
そういえば6月にトルコ船舶をイスラエル軍が攻撃したとき、欧州各国のマスメディアが強い論調で非難したのも記憶に新しい。
本来、欧米のメディアでイスラエル批判を目にすることは少ないのは、ユダヤ系の影響力が強大なせいもあるのだけど、それ以上にどんなにニュートラルな報道に努めても、極右(反ユダヤ主義)または極左(親パレスチナ?大アラブ主義?イスラム原理主義?)どちらかに大きく振れた記事だと見なされてしまう雰囲気が色濃かったせいもあったと思う。どう転んでも極(エクストレーム)っぽく取られてしまう。それが6月にガザ支援トルコ船舶への軍事行動が正々堂々(?)と大きく非難されたのは私には時代の変化を如実に感じさせる出来事だった。
「ユダヤ人が二人集まると政党が三つ出来る」という諺もあるくらいで、ユダヤ人は一枚岩ではもちろんないし反シオニストも少なくないというややこしい状況もあり物事単純に考えるわけにはいかないのかもしれないけど猛暑で考える体力がない。

いわゆるリーマンショックの数年前ぐらい、00年代前半から、アメリカ外しとでも呼ぶべきものが国際的に拡がっている印象は相変わらず強い。というかすでに「アメリカ以後」の時代に入ってしまっているのかもしれない。
日本に住んでいるとどうしてもインドや中国の経済的な影響力の拡大にばかり目が行ってしまう傾向があるけど、この数年のイランやロシアの政治的影響力の強さはとても気になる。

どろ沼を求めて涼し河馬の秋  上野葉月

2010年8月17日火曜日

何かいいことあったらごめんね   上野葉月

(今回は前回の続きではありません)
日本人が生の魚を食べることはよく知られているけど生卵を食べることはあまり知られていないような気がする。「卵が先か鶏が先か」ということより「攻めが先か受けが先か」というようなことが気にかかる夏も過ぎ去ろうとしておりますが皆様お変わりありませんか(たまには俳人らしく季節の話題)。

このあいだ『わたしたちは皆おっぱい』第一巻の登場人物紹介を見ていて気付いたのだけど、いつの間に「委員長といえば巨乳!」ということになってしまったのだろう。本当に私を置き去りにして全ては通り過ぎていく。
それにしても巨乳という言葉が登場したのは確か1980年前後だったと記憶している。が、まさかこんな下世話な日本語は定着しないだろうと思っていたのだけど、すっかり定着してしまいましたね。全ては私を置き去りにして……。

ところで久方振りに『電脳なをさん』の単行本が出ました。『電脳なをさんVer.1.0』。『新・電脳なをさん①』以来実に六年。
やっと出たと喜んだのもつかの間、その内容たるや単行本未収録の約300話中、最近の127話のみの収録という事態。いくらなんでもあまりといえばあまりにも不憫な。唐澤なをきの単行本ってそんなに売れないのだろうか?
いくらなんでも可哀想マックス(ご先祖さまありがとう)。お兄さんは刺されるし(刺されたのはお兄さんではなく相方です、念のため)。

連載で読んでいて『電脳なをさん』がどこからも訴えられないのが不思議だったのだが、要するに誰も読んでいないってことなのか?
「こんなときウォズニアックがいてくれたら」と遠い目をするスティーブ・ジョブスがあまりにもキュートなものだからきっと全世界のマック信者が買い揃えておかずにしているものだとばかり信じていたのに(念のため断っていきますがいくら私でもそこまでは考えません)。手塚オナ虫先生や麻宮再起動、黒井リサなども印象的だけど『電脳なをさん』のジョブス素敵過ぎる。最高です。何か人類の新しい夜明けを感じさせる。
『電脳なをさん』は連載で読んでいる分には、開いた口が塞がらないと思うこともしばしばありますが、こうやって単行本で読むと作者の恐るべき漫画的蓄積に圧倒されます。あの競争心旺盛で嫉妬深かった手塚治虫が大友克洋に対して「あなたの画の真似ならできるけど諸星大二郎の真似はできない」と言ったとか言わなかったとかいうやや喧伝されすぎているエピソードなどもつい思い出してしまう。
二ページとは云えこんな超弩級の週刊連載が十年にも渡って続いてしかも現在も継続中とは。まあ第111話の「だがこれはけっして手抜きではないのだ。週刊連載とはそれほど奥が深いものなのだ…」というアオリを見て以来私の中では連載中であるにもかかわらず完全に伝説の連載マンガではあるわけですが。身の置き所がないような襟を正さなければならないような気分になります。「マンガの神様」という称号は唐澤なをきのために用意されたものではないのだろうか?

なんでもあとがきに拠るとこの『電脳なをさんVer.1.0』がそれなりに売れたら追って『電脳なをさんVer.0.9』、『電脳なをさんVer.0.8』も出るとか。今までhaiku&meでマンガやアニメを話題にするとき特に買って欲しいとか読んで欲しいとか思って取り上げたわけではなく単に話題にしたかっただけなのですが、『電脳なをさんVer.1.0』ばかりは読んで笑っているだけにはいかない。Sara句会の参加費と同等の1K程度の円でこの傑作が手に入るのです!
これは買ってください。よろしくお願いします。

冷麦に女座りのふたりかな  上野葉月



2010年7月27日火曜日

何かいいことあったらいいな

(承前)
気の早い話になってしまうのだが『ゲゲゲの女房』以降、何期かのNHK朝ドラを担当する人たちは『ゲゲゲの女房』に比べて視聴率が低いことを問題にされて辛い思いをするのが目に見えているので今からなんとなく気の毒なように思います(それにしてもいつになったら『化物語』になるのやら)。
そもそもNHKが視聴率を気にするのがなんか変だ。
それに視聴率なんてもともとサンプル数が少なすぎて統計的にアテになるか怪しい上に、最近は番組を留守録して見る層が主流になってきているようなのでさらに意味がない数字になっているような気がする。
だいたいTV視聴率を一般の視聴者に知らせる意味なんてあるんだろうか。この数字は広告業界内部でだけで流通すれば充分な数字だと思えるのだが。
そういえばデジタル放送オンリーになったら視聴率どころか視聴端末台数の算出だって可能なはずだけど、まさかその台数を一般に公表したりしないだろうに。まさに自分で自分の首をしめることになりかねない。

閑話休題。ヱヴァ破では気になることが多かったのは言うまでもないのだけど、特に気になったのは母親の不在(全然話が戻っていない)。具体的には赤木ナオコや惣流・キョウコ・ツェッペリンが無かったことになっている点。父親の不在というのは扱われすぎた感の強い材料だが、あのEVAで母親の不在というのはちょっこし気になる……、でもこの話だと長くなりそうだから日を改めて。

まあ今回久しぶりにhaiku&meに投稿しようと思ったのは要するに『化物語』の最終話のWEB配信が始まり、ついにBD/DVD最終巻が発売されそうで目出度いと言いたくなったのがきっかけなわけです。
何しろ、当初の発売予定日→2010年3月24日→2010年6月9日→2010年7月28日にと、実に三回もの大胆な発売延期を見ているのでずっと無事発売されるのかと不安を胸に秘めていたのでした。

日本のTVアニメBD/DVDというのは実質30分x2程度のコンテンツで6キロ円も7キロ円してしまうというとんでもない価格の商品で普通の精神状態の人間なら決して購入する気になれないものだ。
それでも私が『化物語』DVDを買ってしまうのは本編の作画の面白さや主題歌CDが付いてくることも助けになっているとは言えないことないかもしれないが、結局は原作者自身が書き下ろしているDVDの副音声に尽きるように思う。いわば西尾維新の新作未発表のセルフパロディがBD/DVD発売毎いきなりラジオドラマの形式で提供されるわけだ。本編も面白いが、この副音声がひどく面白い。
小説を書くとき普通(少なくとも私の場合だと)例えば100枚程度の小説だったら100枚程度の捨てた台詞とか裏設定とは生じるものなので、小説書きにとってセルフパロディというのは改めて考えるまでもなく材料にはあまり事欠かなかったりする。それでもこの副音声の台本は作者が出来上がった映像を実際に見ながら本当にうれしそうに(時には驚嘆しながら)書き進んでいることがうかがえるものなので、聴いていてなんとも楽しい。

羽川/戦場ヶ原の回なんか、表面的にはふたりともおとなしいのに明らかに水面下での火を噴くような緊張関係が感じられるあたり秀逸。
『化物語』のヒロイン五人(一応ファイヤーシスターズと忍を除く)のラインナップの見事さにはすでに定評があるけど、私は神原駿河が一番気になる。「私はそこそこ可愛いと思うのだ!」という台詞にはしびれました。もし長い生涯一度でもこういうことを言う女の子に出会っていたらさすがの私でもあらゆる手段に訴えてなにがなんでもお付き合い願ったような気がする。そうすれば「彼女いない歴=年齢」なんて誹りを免れることができたのだろうか。
それにしても神原駿河って属性過多。スポーツ少女で露出狂でレズで腐女子で礼儀正しく失礼でマゾでネコで片付けられない女な上に猿って同人誌のネタつぶしなのかネタ提供なのかよくわからん。
でももしかして十代の読者相手には、これぐらい過剰に描かないといけないのかなあ。

まあ私は「心に乙女を飼っている俳人」なので「つまり、阿良々木くんみたいなイカサナイ童貞野郎と話してくれる女の子なんてせいぜい私のような行き遅れのメンヘル処女しかいないということよ」という戦場ヶ原の台詞も素敵だと思いますが。
そういえばTV放映の最終回(第12話)は今時どうかと思えるくらいオトメチックだった。BD/DVD第五巻の副音声で羽川が「この後の私のエピソード必要なのかしら」とつい漏らしてしまうくらいのものでした。
そうは言っても第13話のWEB配信開始時、世界中のオタクの同時多発的大騒ぎにも忘れがたいモノが。パジャマでネコ耳だし(……しかも眼鏡)。

ええ、そうですとも、「阿良々木さんはちっとも悪くありません」(c)八九寺。

しかしやはりここでは声を大にして諸君に言っておきたい。でかけりゃいいという訳じゃないだろ。だいたい、「たふんたふん」って何だよ。大きさなんてまったく重要じゃない。別に大きくたって、重くて邪魔になるだけで何の役にも立たないんだぞ、全然。って一体私は誰のために戦っているんだ?

ネット上の反応を見ていると続編のアニメ化の希望は多数あるようだけど、私はあんまり期待していない。『偽物語』あたり忍野メメが登場しないせいが大きいのかもしれないけど、何か水で薄すまっているような印象だし。『傷物語』は見てみたいような気がしない訳ではないけど。
でもアニプレックスの営業担当者が「大変なものが出来てしまいました」と放映前に関係者に見せて回ったと言われている『ひたぎクラブ』初回ほどのインパクトを期待するのはやっぱり贅沢なような気がする。
だいたい最近シャフト仕事もって行き過ぎだし。

すいません、今回も「メメxラギ」の話になりませんでした。ごめんなさい(でも、次回に続くというのはもうありません、たぶん)

おとめ座の少年多情竹の秋
  上野葉月

2010年7月20日火曜日

何かいいことでもあったのかい

『ゲゲゲの女房』でナレーションを担当しているヒロインの祖母役の野際陽子が時折ちょっこし画面に映ると「月影先生!!!」と思わず叫んでしまうのは私だけではないはず(断言!)。

梅雨もまだ明けずなんとなく体力の消耗が気になるこの頃ですが、相変わらずipconfig/renewだったりnet use z:
\\honyala\laだったりして、リニアなというか一次元な生活を送っている葉月です。一方ナウっちいヤングアダルトな皆さんはきっとiPadで真希波を描く練習したりする二次元な生活を送っておられるのではないでしょうか?

今や旧聞に属するので恐縮ではありますが、ヱヴァ破のDVD or BDなんですけど、初日で合計31.9万枚って凄かった。しかも初日と言いながら発売日前日だったりするし。
最初のTVシリーズから壱拾余年、その間、旧劇場版、少年エースの貞本版漫画、育成ゲーム、数多の同人系二次創作、果てはパチスロまで、無数のバージョンの大波小波に洗われた末の新劇場版なんだから、それはそれで面白くなかったらそれこそ詐欺のようなものなのだが、それにしても紛れもなく面白い。校舎の屋上で眼鏡を探す真希波に、いい歳して私だって何かに目覚めそうになってしまうぐらいで。でも初日で31.9万枚ってやっぱり売れすぎ。
昨年、『化物語』BD初動が4万枚で大騒ぎになったのが、まるで一夜の夢のようでした。TVアニメと劇場版を単純に比較するわけにはいかないのはもちろんなのだけど、まったくもって返す返すもヱヴァンゲリヲンの強さを見せつけられたのは否定しようもないです、はい。

TVアニメと云えば『Working!!』無事(?)ワンクールで終了しました。ヤングガンガンで人気連載を長年続けていた印象が強いのだけど、さすがにアニメ化されるとネット上で二次創作が一気に増加。
それで気付いたのだけど、相馬くんってけっこう人気キャラだったりするんだ。佐藤x相馬というカップリングは以前からよく見かけたものだけど、今回はそういうのとは別のタンタティヴというか何というか。女性イラストレータに顕著なような気がするのだけど、山田(仮)に感情移入した上で相馬くんを兄のように慕いたいという傾向が散見されるように思われます。
「ウザ可愛い」という新ジャンル(?)を開発した山田(仮)は私も高く評価したいのですが、それにしても長年原作を読んでいても、そういう山田(仮)経由相馬行きという視点による読みにはまったく気付かなかった。

いわゆる句女子の行動、たとえば二物衝撃(ギャップでドッキリ♪
彼のハートを狙い撃ち!)みたいなものはそれなりにトレース可能なように感じていたのです(はっきり言ってそれも迷妄です)が、F音で始まる女子の皆さんの発想って本当に大胆でとてもついて行けそうもない自分がいます。
ところで『Working!!』長期連載のような気がしていたのですが、まだ単行本は七巻しか出版されていないんですね。
世の中、四コマ漫画が溢れているけど、四コマで食っていける人っているのだろうか。あんなペースでしか単行本が出ないのなら余程の人気タイトルでも印税は限られるから、たいていの人は漫画だけで食えているとは思えない。なんか別の収入でやりくりしているのか。外資系企業のシステム管理者とか。……、まさかな。

しまった。『化物語』の話をするつもりだった(といってもメメxラギの話にしようと思ったわけではない)のに『化物語』の話にならなかった。
うーん、次回に続く(続いてしまった)。

惜しみなく五月十七日の烏賊  上野葉月

2010年4月25日日曜日

界遊004   上野葉月

カーオブザイヤーの表記がいつまでもカーオブジイヤーにならないのは県民感情にそぐわないからではないかというようなことが気にかかる「心に乙女を飼っている俳人」葉月です。皆さん、如何お過ごしでしょうか。今日は別に間違いだらけのクルマ選びの話ではありません。

こんなご時世でも紙媒体でミニコミ誌(死語?しかし一発でIMEでも変換した)を発行している感心な若者たちがいて『界遊』という雑誌を作っています。今回は第4号でなんとなく縁起の良い数字。今ふと思ったけど感心な若者なんて書くと皮肉っぽいだろうか?
本当に感心しているんだけど。私って竹を割ったような性格な割には言動が皮肉に取られてしまうことが多いような気がする。結局文字通り散文的な体質が災いしているのかもしれない。ポエミーが足りないというか。ポエミーの足りない私がハイミーに投稿する(なんて書くとまるで『化物語』副音声みたいだが)。ともあれいつの世にも文学青年が絶滅しないというのは心うれしい限りだ。

3/31(水) ジュンク堂書店新宿店にkai-you vol.2 「自動生成時代の表現!」と銘打ったトークイヴェントを見に行ったのだけど、なんか色々な意味で感心しました。俳句世間でも話題の例の『星野しずる』という短歌自動生成スクリプトをたたき台にしたトークイヴェントだったのに、特に文学めいた話にならず情報工学的な(?)話に終始したのが気持ちよかった。ニコ動のタグ争いについてパネラーがまじめに語るところなんてあんまり生でお目にかかれそうも無い。
紙媒体の『界遊』誌のほうも小説や短詩系ばかりでなくアニメなどにも手を伸ばしていて私の嗜好に合っているように強く感じる。楽しく読ませてもらっています。

今回『界遊004』では古川日出男の新作が読めるのがわたくし的には目玉なのだが、これってけっこうすごいことのようにも思う。うん、豪い。考えてみると現役で活動中の小説家で所謂ラノベ系の数人以外で私が新作を待って読むのは古川日出男と万城目学ぐらいのものだ。

それに付録的(?)企画「界遊句会」では私もちょっと顔を出しています。はい、熱狂的葉月ファンを自任するそこの貴殿! これは買いです! 必ず購入するように。
野口る理vs上野葉月の世代を超えた壮絶なガチバトルも観戦できます(うそです)。仮に貴殿が葉月ファンではなく、る理ファンであったとしても私は全然気にしません。ええ、ちーとも気にしませんとも。

ご購入はこちらから。

クリック、クリック~!

食卓に辞書置忘れ春の雪  上野葉月

2010年4月13日火曜日

俳句は愛   上野葉月

やっぱり『マリア様が見てる』の登場人物では水野蓉子さまが好きです(「やっぱり」って何だよ)。

さてSara句会の参加費が今月から千円になった。所謂「いつか来るとはわかっていたが今日来るとは思わなかった」状態。五百円から千円。実にインフレ率100%である。

さすが常に時代を切り開いてきた炎環若手句会、かたや3%のインフレターゲットでも首を縦に振らない日銀のような組織もあるというのに、100%はすごいとしか言わざるを得ない。それにしても日銀というのはいったい何なのだろう。一応役所の一種なんだろうけど。最近とみに検察への風当たりが激しいけどまだ検察なら何をやりたいのか推測がつこうというものだが、日銀となるともうさっぱりである。あれは一応政府から独立した機関だからもしかしたら役所とは言わないのかもしれないけど何もやらないことがお役所体質の芯だと仮定した場合、日銀こそ役所中の役所だと言えよう。

Sara句会の中核を担っているのは所謂「団塊ジュニア」である。失われた十年(+α)にもっとも苦しめられてきた世代。
デフレというのは即効性の毒ではないので身を切られるような痛みは少ないが経済の常識に沿った場合、長期的なデフレの流す害毒は甚大である。
おおよその企業が収益を下げるので当然人件費削減の圧力が長期に渡ってかかる結果、非正規労働者の解雇や新規採用の減少など主に若い世代へのしわ寄せが激しくなる。この二十年近くの日本経済の状況はまさに若者いじめに終始していたと言っても過言ではない(とはいうものの所謂先進国、ある程度の物質的な豊かさを達成した国では大抵の場合、失業問題とは若年層の問題であるのは否めないのではあるがそれにしても近年の日本はひどすぎると思う)。何か今回の五百円から千円への変更というのは若い世代の社会に対するルサンチマンを感じさせる(それにしても呪詛と漢字で書くのに比してルサンチマンとカタカナで書くとなんとなく救いがあるように感じられるのは何故だ)。

一方短期的に見る場合、デフレは高齢者など貯金で生活している層にとってはプラスに働く。放っておくだけで手持ちのお金の価値が若干増すわけである。
そして俳句人口のほとんどが中高年齢層であることは忘れるわけにはいかない。そういえば最近haiku&meというタイトルを見るとつい貯蓄&ミーと読んでしまう。

そういえば合衆国では個人の預金高の平均がついにゼロを切ったそうだ。アメリカ人があまり貯金しない習慣なのは今に始まったことではないが、それにしても世界唯一の超大国の国民の大半が「日本を代表するワーキングプア」として名高い葉月さんと同等かそれ以上に貧しいというのにはさすがに危機感を覚える。

ソ連崩壊後、たしか二年間で7000%のインフレを見たように記憶している。大雑把に言って物価が70倍程度になったわけである。ルーブルの価値が70分の1になったとも表現可能だ。
ドル崩壊に当たってはどうなのだろうか。70分の1で済むだろうか。まあ神原駿河も言っているように「裸で物を落とした試しなし」なので葉月さんのようにお金に縁のない人間にはどうでもいいことなのだが。もっとも世界一の貯金を抱える日本の高年齢層にとってはまさしく対岸の火事ではない。当のアメリカ人より日本の俳句界のほうがよっぽど大きな影響を受けそうな気もする。

「アメリカ以後」ということが熱心に語られるようになってもう十年以上は経つ。その割に「お金以後」ということについてはあまりビジョンが提示されていないようにも思う。近世以降の金融システムに慣れすぎてしまっているので多くの人が想像力の欠乏に悩まされているのかもしれない。現在のように物は溢れているのに時間とお金はいつも足りないという状態とか世界の多く人々が極端な貧困状態に置かれていることの原因の大半は現行の金融システム(いわば銀行)のせいで、お金さえ流通しなければ多くの問題が解消するのは確かだ。もちろんお金がなくなったところで人間の抱える全ての不幸から自由になるわけはないだろうが、お金のくびきから逃れることは多くの人(特に若者)にとって歓迎すべき事態である。
二三十年ぐらいの短期的なスパンに立ってみれば、なるべく合衆国と距離をとって新興国の市場相手に今まで通り付加価値の高い製品を売って行くことで日本もそれほどの苦境に立たされない可能性もあるかもしれない。ただ長期的には世界が生き延びるにはローカリズムしかないように思う。もっとも私のいうローカリズムとは「可能な限り自給自足、可能な範囲で伝統的な生活習慣遵守」程度の薄っぺらなものなのだが。
いうまでもなく未来なんて誰にもわからないけれど、どう転んでも今後は自殺数は減る傾向を見せるような気がしてならない。犯罪数は増えるかもしれないけど。

白薔薇の花筏かなググレカス  上野葉月

2010年2月25日木曜日

コンセール・デグラッセ第四回演奏会

早春の大河の如き小川かな  上野葉月

一年ほど前から楽しみにしていたバッハの『ロ短調ミサ曲』。行って参りました東京文化会館小ホール。

割と好きな曲なので録音メディアでは三十年以上に渡ってもう数え切れないくらい聴いたのだけど、生で聴くのは初めて。

CDで聴いても胸を押しつぶされそうな緊張感が漂う「Kyrie」冒頭なのだが、生演奏を目の当たりにすると筋肉がつるんじゃないかと思うほど緊張しました。酸素不足の金魚鉢内の金魚のごとき有様で聴き入る葉月。今回の演奏会は果敢にも古楽器のアンサンブルなので、ただでさえ緊張感漂う『ロ短調ミサ曲』が冒頭から緊張感過多に。

そういえば私はバロックやそれ以前の古楽が好きでよく聴く割には古楽器での演奏には常々疑問を感じている。古楽器は一般に音量が小さいしピッチが不安定なように感じる。私のように音痴な人間がそんなこと言っても何の説得力もないのだけど、クラシックの演奏会というのは私にとって概ね緊張感過多なので古楽器の生演奏ともなるとパニック寸前なのである。

古楽器の音色は典雅で捨てがたいのはもちろんなのだけど、例えば今日チェンバロを用いることが常識になってしまった感のある『ブランデンブルグ協奏曲』なんかもピアノを用いた古い録音のCDを聴くのは嫌いじゃない。ただし今回の演奏会に関して言えば、やはり古楽器はいいなあとしか言いようがなかった。特に独唱に対してオーボエ・ダモーレと通奏低音という編成になる数曲のオーボエ・ダモーレの音色は正に天上的だったと言っていい。あんなに美しい音をこの世のものと信じるには努力が必要だと思います(エッチなのはいけないと思いますという台詞を堀川由衣さんが言うような調子で読んでください)。

話は変わって今回も中田八十八さんは手ぶら、完全暗譜状態でしたね。あの大曲を。なんと猛々しい。俳句など短詩系は端正な作風なのに、前にピアノ独奏のブラームスを聴いたときも思ったのですが、ミュージッシャンとしての八十八さんにはなにか猛々しい印象がある。

生で見るまで三十年以上知らなかったのですが、「Sanctus」と「Osanna」ではコーラスの編成がそれまでのソプラノ2部アルト1部からソプラノ2部アルト2部あるいは全部2パートに変わるのに今回初めて気付いた。この編成変更の効果といったらとにかく凄まじくて完全に幻惑されました。なんか「群盲象を撫でる」という顰みもあってバッハについて直接言及することを多くの人は避けがちだが、素人の気楽な立場で声を大にして言っておきたい。すごいぞ、ヨハン・セバスチャン・バッハ!!

いと高きところへ オザンナ

2010年2月13日土曜日

反米という常識   上野葉月

私も俳人のはしくれなので常識というものが嫌いだ。

と、短い割に突っ込みどころ満載な一文で始まってしまいましたが、思うに反米という態度が世界の常識になったのはソ連崩壊後、冷戦という枠組みがなくなってからではないだろうか。
もちろん冷戦以前だって金持ちというだけで嫌だったり戦争ばかり仕掛けるので嫌だったりという反応は世界のあちこちであったし、中南米の人たちはどう転んだって今も昔もエルグリンゴ(白んぼ)が嫌いだったりする。

しかし今日の反米感情の世界的な蔓延は金持ちとか唯一の超大国に対する反感というものとは別のところに由来しているような気がする。だいたい合衆国は貧富の差が激しい場所なので本当に金持ちなのはほんの一握りだけで大半は貧乏だったりする。貧乏なほど肥満しているという笑うに笑えない状況もあるけど。

冷戦はキャピタリズムとコミュニズムの対立という仮想的な図式を世界に対して押しつけていたのだが、終わってしまえばそんなものは効力を失ってしまうのは自明だ。そもそもキャピタリズムとコミュニズムも同根なのであって、「生産力の拡大は人類の幸福につながる」というとんでもない楽観論から出発している。
どのくらいとんでもないかというと「アナルセックスは近親相姦にならない」とか言って性行為を妹に強要する兄くらいとんでもないのだが、キャピタリズムもコミュニズムも発達段階の違いであって方向性はまったく同様である。どちらともグローバリズムだと言える。

今日ある反米感情は要するに反グローバリズムなのであってアメリカ合衆国はグローバリズムの象徴にしか過ぎない。
いずれにせよ大量消費連鎖の末、もう売る物にすら困り、地球温暖化という根拠もなにもないものを持ち出しながら二酸化炭素すら売り買いしようという世の中である。しかも国家間で。心ある人たちが反グローバリズムに走るのは無理もない。いくら人間の愚行には限りがないからと云ったって二酸化炭素排出量の売買なんて無茶もいいところである。どれくらい無茶かというと「アナル(中略)くらい無茶なのだが、それにしても私には妹萌えというものが未だによくわからない。

ともあれ世界中に反米感情が蔓延するようになって長いが日本だけはずっと親米国であり続けてきた。
生まれたてだった米海軍のペリー提督が浦賀に元気よくやって来て以来の付き合いなのでアメリカ側の感覚ではけっこう古い付き合いだと言えないこともない。
結局、日本はアメリカ合衆国とはまったく異質なので嫌いになりようもないという部分もあるのかもしれない。合衆国は社会契約の果てに成立するいわば演繹的な国家、人工的な国家の代表格でリンカーンに言わせれば民主主義の実験だったりもするわけだけど、日本は海岸線という自然的風土に依存したいわば帰納的国家の代表格である。物理的にも精神的にも距離があるし、その他諸々違いが大きすぎて結局理解不能なので嫌いようもない。第二次大戦後半ば占領状態が続いているけど、近隣諸国のように「日本列島は我が国固有の領土である」とか決して言い出しそうもないところもプラス要因かも。

そんな日本でも最近ネット上などでは反米的な発言がやたら増えてきたように感じる。昨今では民主党の複数議員へのごり押し的な捜査のせいか東京地検特捜部(この言葉を見るといつも安永航一朗のマンガに出てきた性感痴漢側頭部(星間地検特捜部)を思い出してしまう)は合衆国の手先だという非難が盛んだ。そりゃ東京地検特捜部はGHQの肝いりで発足した組織かもしれないけど今更そんなこと持ち出さなくたって敗戦後60年以上も属国として付き従っているのだから日本政府なんて全体的に合衆国の手先以外の何者でもない。当節ネットで濫用される言い回しを使えば売国奴である。ごく短期間だけど私は日本政府から給料の出ている時期があったので自信を持って言えるのだが、日本政府には合衆国内の州政府程度の独立性もない。水道局がなくなれば水道が出なくて困るだろうし消防署がなくなれば火事のとき消防車が来なくて困るかもしれないけど、仮に霞ヶ関のキャリア・ノンキャリア全ての職員をリストラしたところで地球上で誰一人困らないことだろう(当人たちとその家族を除いて)。国家機能が脆弱になっているのは世界中どこの地域でも共通しているとは思うけど日本の場合は格別な感じがする。
そう言えば去年の総選挙で有権者の多くが民主党に流れたのは民主党に期待してということでなく自民党に投票したくないということだったのだと思う。いわば合衆国の経済に関して将来的な期待を寄せられなくなったので、狡猾とも言える庶民的な勘に基づいてCIAの後押しで誕生したような政党から逃げたのだ。なんというか「金の切れ目が縁の切れ目」みたいな話であるがまあまあしぶとい選択ではある。

そういえば今年は中国のGDPが日本を抜いて世界第二位になる見込みであることをマスコミはよく取り上げる。
18世紀までは二千年以上、中国GDPが世界のトップであり続けたのだから今更騒ぐようなことではないはずだ。阿片戦争での中国の敗北が当時の東アジアの知識層にもたらした衝撃は大きく、その後の日本の西洋崇拝の遠因ともなっているのだがその話になると長くなりそうなので今日のところは華麗にスルーしておきます。

日本に住んでいると少なくない日本人が自分たちのことを頭が良いというイメージを持って見ているのに驚くことがある。そりゃまあドイツ人は自分たちにちょっとユーモアが足りないんじゃないかと滅多に思ったりしないし、フランス人にとってフランスは理性と科学の国だったりするので、どんな民族でもセルフイメージは予想しがたい方向にずれてしまうのは仕方ないことではあるけれども、言語能力が極端に低い挨拶もろくにできない精薄児みたいなイメージの強い日本人が頭が良いというのはかなり大胆な発想だとは思う。それでも日本人の頭の出来に関してとりあえず保留しておくとして、日本では他の国では決して起こらないような出来事が起こるのは否定できない事実である。

たとえば織田信長の時代、日本は地球上の鉄砲の約半数を生産するような軍事大国だったのだけど秀吉の刀狩りを経て徳川政権の時代には鎖国と大幅な軍縮が進んだ。17世紀の日本では人と物の流れが極端に固定される中で軍縮が進み人口爆発があり経済が大きく発展するというとんでもないの事態が進行したのである。どれくらいとんでもないかというと、…、とんでもなさは置いておいてもこういう不思議な出来事はまあ日本でぐらいしか起こらない。

第二次大戦の結果、合衆国に世界の富の半分が集中するという出来事があったため戦争は儲かるものだとする偏見が未だにアメリカ人の一部にはあるのかもしれないけど、戦争は長い目で見れば割に合わないものである。しかしながら割に合わない行動、無駄な行動を人間から取り去っていったら何が残るんだという問題もあるのだけど。

今までの日本歴史の中で何か教訓にすることができるものがあるとすればそれは鎖国政策であって明治維新のようなものではないと思う。また同時に鎖国のような引き籠もり的な心性こそが日本人の精神を形成する根源的な要素のひとつであるように感じる。
現在日本の農業は壊滅的な状況にあるが、なにしろ日本人というのは何を始めるか予想がつかないのだから、唐突に食料自給率を上げてあっというまに鎖国なんて行動にでないとも限らない。
遠くない将来ローカリズムは世界の大きな潮流になっていくだろうけど、もし日本が世界に貢献できるとしたらこの引き籠もり的な精神性が軸になるのではないか。

もっとも士農工商であると同時に相互監視的な社会が到来するとわかっていたら私なんて真っ先にそこから逃げ出すだろうけど。

妾宅へ向かう電車や春の雨  上野葉月

2010年2月2日火曜日

ドラマCD

はい、すみません。買ってしまいました。『恋愛ラボ・ドラマCD』。ああ、生まれてきてすみません。ごめんなさい(いったい誰に謝っているんだ)。それにしてもドラマCDなんて代物買ってしまったのは生まれて初めてです(ついでに「初めてだったんです、私」と書こうとして止めました)。

実をいうとあまり期待してなかったんですが。リコ役が釘宮だというあたり、なんとなく?マークだったんですよ。なにもあんな売れっ子もってこなくてもというか。『恋愛ラボ』に限らずマンガを読むとき登場人物の声を具体的にイメージすることはないので、やはりリコ役はあまり聞いたことのない声を当てていただきたいと漠然と願っていた。

でも予想に反して釘宮のリコが悪くないんです。原作のイメージ通りと言ってしまうと月並みだけど全然違和感がない。”乙女リコ”バージョンも充分笑える出来になってるし。そういえばマキマキオも悪くなかった。

マキ役が堀江由衣というのには誰も文句ないでしょうけど、現時点ではどうしても(どうしても!!!)シャフト『化物語』の「メガネオッパイ」じゃなくて「あの抱き心地の良さそうな委員長(by八九寺真宵)」を思い出してしまうのでなんとなく損しているような気がしてしまう。

決して悪い出来じゃないのだけど、なんとなく物足りない。『恋愛ラボ』は台詞回しが異様に巧みでしかも四コマ漫画だから気付きにくかったけど、けっこう絵の説得力で見せているマンガなんだと改めて気付きました。すごいぞ、宮原るり。

でも、これだけ人気声優を集めたってことは、やはりアニメ化への布石なんでしょうか。新房監督が好んで使う人も多いし。まさか、シャフト制作・新房監督で『まりあ†ほりっく』みたいなことに、なんてことはないだろうな。まさか。ないない。

それともGONZO制作で『ストライクウィッチーズ』のようなことに? ないない、それだけはないないない。

ぬばたまのフレンド軒のライスカリ  上野葉月

2010年1月26日火曜日

DNA解析   上野葉月

先日、ニホンザルの群に関する記事を読んでいたら気になる事例が書いてあった。ある群の生まれた子猿たちのDNAを調査したところ、観察されていた生殖行動とは違って、下位の雄の遺伝子を受け継いだ子猿の方が多いということがわかったそうだ。

ニホンザルはボスザルを筆頭に上位の雄ほど交尾の回数が多いことが長年の観察の結果よく知られているのだけど、実際は下位の雄の方が子供を残しているらしい。ヒトの雌は(一部の例外を除いて)浮気が大好きなことはよく知られているが、どうやらサルの雌の同様だったようだ。

なんか科学技術というのは改めて言うのもなんだけど野暮なものだと思う。

こういう記事を読みながら気になるのはやはりサルではなくヒトのことだ。なにしろニホンザルの雌はDNA鑑定についての知識はないがヒトの雌は実際にどんなことが行われているか説明できなくてもDNA鑑定の結果どのようなことがわかるかについてある程度把握している。

生まれた子供の父親が誰なのか産んだ当人でなければよくわからない(時として当人にもよくわからない)という状況と、地球上の多くの人間の個体は父親の社会的経済的地位によってスタート地点が決まってしまうように見えるという状況、この二つの矛盾するベクトルが長いあいだ人間社会のダイナミズムの原動力のひとつだったはずだ。にもかかわらず今日、生まれた子供に関して父親の候補者を絞れる状態だったらほぼ特定できるし、社会的な父親と遺伝的なつながりがなかった場合ほぼ100%つながりがないことを立証できるようになってしまっている。かなり大がかりなパラダイムシフト。日本などは元来太平洋の島国で性的なおおらかなところがあるからそれほどシフトしないのかもしれないけれど、人間の文明のスタンダードな部分、ユーラシア大陸の大文明地帯などではけっこう深刻な事態のようにも思える。たかが塩基配列を記号化してパターンを調べただけだというのにえらい騒ぎだとも言える。

そもそも人生の大半は思い込みと誤解で成立しているので、ヒトには動かし様のない事実なんてものを歓迎する謂われはない。それはやはり野暮というものではないだろうか。たとえば一昔前までは「日本人の祖先はどこからきたか」なんてお題を出された日には百家争鳴の盛況を呈したものだったが、いまでは盛況のセの字もない。DNA解析の成果でおおよその事柄ははっきりしてしまっているのだ。食材研究家も人相研究家も神話学者も言語学者も民謡収集家も出番なしである。

ヒトは胎児状態で生まれてしまうせいもあって子育てに無闇に時間をかけざるをえない。一匹の雌が生涯育てられる子供の数は限られるので子孫を残すためには数で勝負するわけにはいかず、勢い質での勝負になる。

仮にここに二匹のヒトの雌がいて、片方は同じ父親の子を四匹産んでもう片方は各々違う父親の子を四匹産んだとする。ヒトがインフルエンザ天然痘AIDSなどウィルス性の疾患の攻撃に極端に弱いことを考えれば、どちらの雌が産んだ子供達の方の生存率が高いかは分子生物学の専門家でなくとも火を見るより明らかだ。どの程度生存率が変わるかの計算はとても難しそうだけど。そんなことが数千世代にもわたって繰り返されてきたなら、太古の昔もし一匹の雄に尽くす行動が目立つ一群の雌がいたとしても新石器時代を迎えるのを待たずにそういう雌達の遺伝子が失われたことも火を見るより明らかだ。

いつものように紋切り型の締め方を許してもらえれば、遺伝的な父親が誰であろうが安心して子育てができる社会制度や法律を整備していかなければ今後少子化は歯止めの効かないところまで行くしかないだろうと言っておきたい。もっともヒトは増えすぎたので減らすべきだという声がすぐにでも聞こえてきそうな話ではあるが。

初夢の毛深い平行従姉妹かな  上野葉月

2010年1月19日火曜日

デビルイヤーは地獄耳   上野葉月

ごきげんよう、親愛なる読者の皆様。
句会への出席も順調に(?)減少している葉月です。如何お過ごしでしょうか?
ともあれ今年もよろしくお願いいたします。

ところで最近、俳句に関して作風が変わったと複数の俳句仲間から何回か指摘された。
本人としてはまったく自覚がないので、よく聞き質したところ、結局のところ以下のような感じのものを詠まなくなったということを意味しているらしい。

新しいパパが来た希望のパパだ  葉月

言うまでもなく無季である。もともと俳句ですらないことは多くの俳人が同意してくれるはずだ。
実はこういうものを読むと元気が出ると言ってくれる人が何人かあることは知っていた。
しかし、これが俳句なのか出来がいいのかそもそも作品として語る価値があるのかという疑問をすべてすっかり置き去りにして言わしてもらえば、こういった類のものは宇宙の深度にも匹敵するような魂の相克の果てに偶然出現するようなものなので、しょっちゅう作れと要望されても戸惑うばかりだ。

まあ元来そういう傾向だったとは言えるのだが、最近とみに句作に労力を傾けなくなったというか集中力が持続しなくなったのは確かなような気がする。

寒椿父の表札外しをり
狩人の袋に甘き玉いくつ
大寒の風降りてくる秩父かな


先週のSara句会で短冊回しをしたときの句。一分程度で作ったので手癖のままの作句だが、短冊回し袋回しでなくて三十分ぐらい時間が与えられているときでも昨今は一句作るのに数分程度しか時間をかけないように思う。集中力が持続しないし、もとより私には俳句を推敲する習慣がない。
句集をほとんど読んだことがなく同時に句会でしか俳句を作らない者の偏見かもしれないが、私にとって俳句は徹頭徹尾「座の文芸」である。まあその場で面白ければ後のことはどうでもいいというか。いやむしろ文芸というほどのものでもなく、日常の会話でもあるように人前でちょっと気の利いたことを口にしてみたいというか。見かけほど頭が悪くないんだよと虚勢を張りたいという程度のささやかな煩悩に基づく行為と言ってもいい。
少なくとも、言語の新しい可能性を追求したいというようなことを考えていないのは確かだ。
そういうことじゃいけないんでしょうね。いけない? ん、いけてないのか? やっぱり、いけない?

2009年10月8日木曜日

メールが来ない(私は誰にも愛されないんだ)

古今東西の心理学に精通しついには住処に霊的防衛線を張るところにまで至ったと噂される葉月です(単なる噂です)が、「連合弛緩」が進行した状態が「言葉のサラダ」という医学用語で呼ばれていることは『マンガで分かる心療内科』を読むまで知らずにいました。

「ネコは緑色だから卑弥呼だ」ならそれが「言葉のサラダ」であることに多くの人が気づくだろうし狂気の匂いを嗅ぎ取ることもできるかもしれない。
「メールが来ない…。私は誰にも愛されないんだ」ではどうだろうか?
狂気に関する訓練の行き届いている人でなければ気づかないようなレベルであって、日常性に覆われているとも言えるのではないか。いやむしろポエミーと呼ぶべきだろうか。

さて『豆の木HP』の十月分『二句競作』に見慣れない俳人の作品が二句載っている。

幸福や蜻蛉のたくさん顔へのキャベツ  ねここ
順番に日記のあおい虹に水  ねここ

この「ねここ」というのは実在する俳人ではなく、三島ゆかりさんが『犬猿短歌』という短歌自動生成スクリプトに触発されて組んだ俳句自動生成スクリプトの名称である。それにしてもあの「豆の木」と言えども人間でなくスクリプトから投句があったのはさすが初めてではないだろうか(なんか都市伝説みたい)。姉妹スクリプト「木枯二号」と違ってこの「ねここ」は定型という縛りもないので、いかにも「言葉のサラダ」な様相を呈しているとも言える。詳細は三島ゆかりさんのサイトをご覧ください。

広く流通している暗黙の了解の如きものとして芸術と狂気の親和性とでも呼べるものがあると思う(むしろ芸術と非論理の親和性なのか)。「詩的飛躍」とでも呼んでいいのかもしれないしそれこそ「言葉のサラダ」でもかまわないのかもしれないけど、芸術というものを狂気の断崖のぎりぎりのところで爪先立って見える風景のように捉える見解は珍しいものではない。もしかしたらアルチュール・ランボーの私信の中の「詩人は、あらゆる感覚の、長く、無制限かつ、吟味された錯乱によって見者たる(Le Poète se fait voyant par un long, immense et raisonné dérèglement de tous les sens.)」という行が有名になってから一般化したのかもしれない。

俳句が詩の一種であることに私は異存はないが、ご立派な芸術であるかどうかには心もとない気持ちになる。
ただ「ネコは緑色だから卑弥呼だ」ならそのサラダ性(芸術性?)はあからさまだが、「メールが来ない…。私は誰にも愛されないんだ」ではサラダ性(芸術性?)は隠微されやすいということはわかる。そして隠微された毒の方が即効性の毒より手遅れになりやすく致死率が高いということも。

ところでこの『マンガで分かる心療内科』に登場する看護師の官越あすなさんは的確なボケも容赦ないツッコミもこなすスーパー看護師で「簡単に休めたら苦労しませんよね」(第一回)、「バカほどうつになりにくいんですね!」(第八回)などの名台詞のせいかマンガ好きの間では少数ながら熱烈なファンもいるのだが、今回もやってくれました。「この『言葉のサラダ』という医学用語をつけた医者たちの『してやったり感』が目に浮かびますね」。
なんか看護師さんと結婚したがる俳人が後を絶たないのも頷けます。うーん、マンガの登場人物から現実を演繹するという荒業!!(良い子は真似をしないように)

流星やバカと囁かれてみたい  上野葉月

2009年9月15日火曜日

『東のエデン』

ビートルズのリマスターCDのモノラル盤なんだけど、なんでBOXしかも初回限定盤なのだ。一枚一枚バラで売ってもまるで問題ないと思うのだが。なにしろ栄光のビートルズなんだから。それにあの値段。ネットオークションでいくら程度で落札されるか野次馬的興味が掻き立てられる部分はあるけど、なんか元の値段自体が変に高いし、むしろ高いと言うより迷惑な値段って印象が強い。いえ別に私は買っていないんですけど。以上、時候のご挨拶。

さて『東のエデン』。第一印象は「ハグがちっちゃくない」。

その後の印象も「ハグがちっちゃくない」。

そういえば映画『ハチミツとクローバー』のときも「ハグがちっちゃくない」と誰もが口にした。
そしてTVドラマ版『ハチミツとクローバー』の撮影時、成海璃子はたしか15歳ぐらいで大学生を演じるには若すぎたわけだけど、やっぱりみんなして「ハグがちっちゃくない」。
地球上のいわゆる炉な人たちを敵にまわす可能性もあるけどあえて言いたい、若けりゃいいというものではないだろう、と。

そもそも『ハチミツとクローバー』読者の八割以上は「がんばれ山田!
負けるな山田!」だったわけで、ハグのことなどどうでもよかったはずである。それが実写化のたびに「ハグがちっちゃくない」。もうコロボックルの呪いとでも言おうか?

その点『3月のライオン』は何しろ三姉妹なので、もう誰も「ハグがちっちゃくない」とは言わない。
むしろ「ハグがちっちゃくない」とはもう誰にも言わせまいという強い決意が感じられる。
羽海野チカ…恐ろしい子!(昭和三十年代風に表現するなら、お主伊賀者だな?!)

そういえばこの間、根来さんという比較的珍らし気な苗字の同僚のPCのシステム設定を直したとき、自前の外付キ-ボードがおしゃれで使いやすそうだったので「素敵なキーボードですね」と誉めたら、「キーボードを誉められた!!」と大騒ぎになってしまった。すません。ほかに誉めるところたくさんありました。本当にすみません。生まれてきてすみません。

(今回は『東のエデン』の話になりませんでした。すみません。生まれてきてすみません。)

鍵盤を滑る指先秋桜   上野葉月