空港という場所が、小さい頃からずっと好きだ。空港で誰かに何かを頼まれたら、その通りにしてしまう自信(?)がある。例えば、この仕事をして欲しい、と言われたら頷いてしまうだろうし、告白めいたことをされたら、くらっときてしまう気がする。お金を貸してくださいと言われたら、もしかしたら貸してしまうかも知れない(普段そういう状況に身をおいてはいるわけではないが)。だからこそ、空港では自分の言動によく気を付けよう、とは思うのだけれど、それでも空港に着くとそんなことも忘れてはしゃいでしまうほど、空港が好きだ。先日北海道へ行った時も、出発前に“テンションが上がり”、スターバックスでマンゴー味のフラペチーノの余計に大きなサイズを頼んで、飲みきれなくて困ったりした。待ち合わせの時も、空港だと、とても早く行く。他では考えられないことなので、こういうのを、空港マジックというのかも知れないと思う。
ごくたまにではあるけれど、用もないのに、空港へ行く。
たいていの場合、それは羽田空港の第2ターミナルだ。5年前に新設されたきれいなターミナル。トルネードのような形のエレベーターが往き来する巨大な吹き抜けが気持ちよく、屋外の展望デッキからは離着陸の様子がよく見えるし、ベンチも沢山あって、アップルタイザーも売っている。館内のつるつると光るロビーの床は、早朝や夜がとくにそれらしいと思う。一度、そこをスケートボードで気持ちよさそうに走っていく男性を見かけたことがある。そのひとはTシャツにサングラスといういでたちだったので、ファッションでやっていたのだとは思うけれど、ああ、あの人はきっとこの床を見て、滑りたくて仕方なくなったのだろうな、と分かった。そういう滑り方だった。きっと空港のことも好きなのだろう、と勘ぐる。
旅行の経験は多くないが、印象深い空港が幾つかある。
先にも書いたが、夏に出かけた北海道の旭川空港。(行きは新千歳空港で降りたが、空港から支笏湖へ向かう道路が、緑濃く、ゆたかな起伏のあるとても北海道らしい道だったことをのぞけば、空港自体にそれほど印象はなかった。)旭川空港は、旅程を終えて帰路に使った。その日は富良野から旭山動物園を訪ねて、ラーメンを食して温泉につかり、満喫したところでレンタカーを返すと、辺りは夜になっていた。ターミナルビルは新しく、コンパクトで感じが良かった。搭乗まで少し時間があったので、送迎デッキに行くことにする。入場料が必要で、それがとてもささやかな、微妙といっていい金額(大人50円くらい)だったのが可笑しかった。金網のないオープンデッキは、真正面が発着場になっていて、停まっている飛行機の迫力が凄かった。周囲を静かな丘陵地帯がとりまく夜の滑走路に、点々と青やグリーンの誘導灯が続いている。子供の頃に遊んだレゴにあった、一番小さな色とりどりのキラキラした部品、あれは飛行場の誘導灯だったことに、兄と話していて気が付く。漠然とライトだとは思っていたけれど、そういえばレゴの基礎板の中に滑走路があったことを思い出した。夜の誘導灯は、どこかなつかしくて、見飽きない。
あるいは、大学二年の時に行った、パリのシャルル・ド・ゴール空港。2Fターミナルの出発ロビーは、日本では考えられないほど広々としていて目をみはった。一面ガラス張りの三角屋根がまっすぐにどこまでも広がり、淡い銀の鉄筋の梁がむき出しになったデザインがその開放感を引き締めている。国内便に乗り換えてニースに着いたのが夜だったから、シャルル・ド・ゴール空港にいた時間はちょうど日が翳り出す頃だったと思う。青空からロビーへと降り注ぐ日差しがそれはきれいだったことを覚えている。
確かそのとき、一緒に出かけた美大の友達だったか、私だったかに熱が出ていたのだった。初めての海外二人旅であるうえに出発日だったので、少し不安な気持ちのまま、とりあえず乗り継ぎ待ちの時間をラウンジで何か飲みながら過ごした。熱を出したのがどちらだったか覚えていないというのも妙な話なのだけれど(ただ、自分には珍しくないことで、記憶のなかで他人と自分の区別がつかなくなってしまう)、それでもその不安さも気付くと拡散しているほどに、ロビーには光が溢れていて、不思議に神々しかった(事実、友達と私は健康にその後の道中を過ごせたのだった)。そのときも、本当はふたりとも、これから出かけるヴァンスのロザリオ礼拝堂のことで、胸をいっぱいにしていた気がする。
そこに「時間」が生まれること、それが空港の魅力ではないかと思う。旅立つ前の時間や、旅から戻った後の時間。最近は搭乗の手間もかからなくなってきてはいるけれど、それでもチェックインをしたり、荷物検査をしたり、国際線であれば審査をしたり——そういうことのすきまの時間が、空港では、やっぱり一定以上要る。搭乗時間を待つのにも。その、ある限定された時間、けれどどうしても生まれる時間に、旅をする人のひとりひとりが、辺りを見回して、何かを思っている(例えば来し方や行く末)こと。それが、空港に流れているどことなく熱っぽく、けれど冷静な空気の理由のような気がする。
清潔で、機能的で、最も現代的であるけれど、空港には少しの“余分”が存在する。例えば、ホテルに置き換えていうと、その“余分”とは“サービス”や“贅沢”なのだろう。でも、空港でのそれは“浪漫”といってもいいと思う(何しろ、飛び立つので)。だから、私のように用もなく空港に遊びに行っても、せわしなさに居たたまれなくなることなく、居心地よく空港を愉しむことができる。それは、そこに流れている、“旅”を思う余分な時間と空間のためなのかな、と思う。
冬暁の引き締めて滑走路なる 浜いぶき
2009年12月22日火曜日
2009年10月22日木曜日
こっそり出かけて ―「陶猫展」回想―
八月の末のことだから、もうひと月以上前のことになるけれど、こしのゆみこさんの「陶猫展―コイツァンの猫―」を観るために銀座へ行った。最終日で、一人で、はじめていくギャラリーだったので、少し緊張していた気がする。
こしのさんの第一句集『コイツァンの猫』が上梓されたのが今年の四月。その句集と同じ名前の個展がひらかれるという案内のお葉書を、ちょっとしたきっかけがあっていただいた。「陶猫展」というのは、猫の陶芸作品を集めた個展で、今までに何度も開かれているそうだが、伺うのは初めてだった。イタリアの小さな海の町だという「コイツァン」が、きっとこしのさんを魅了したのだろうな。そう思いながら、こしのさんの俳句も陶芸作品も大好きな私は、こっそり出かけていった。(どうしてか、こっそり、という気分だった)。
会場は、細長いビルの4階のフロア。ガラスの扉を開けてギャラリーに入ると、L字形の室内に、まずモノクロの写真に俳句が添えられた作品が並んでいる。写真に映っているのは、こしのさんの「陶猫」たち。一枚一枚の写真と俳句は、それぞれがよく合っていて、しかしちょうどいい距離感がある。お互いがお互いを補完しあっているというより、手をつないで、遠心力でくるくる回っている感じ。
左へ進むと小さなスペースがあって、数十センチの、色も大きさも表情も様々な猫たちが十何匹も展示されていた。そこに、こしのゆみこさんもいらした。ご挨拶すると、久しぶりだったから分からなかった、とのこと。どうぞ見ていってください、とにこやかにおっしゃったこしのさんは、私が名乗る前からずっと目を細めて笑っていらして、猫たちのなんだかたのしげな、優しい雰囲気に溶け込んでいるのだった。
こしのさんの創る猫の表情は、その殆どが、はっきりとした感情を指し示してはいない(笑っている顔、とか、せつなそうな顔、とかいうふうに)。それなのに、びっくりするほどそれぞれに表情が豊かだと思う。そしてそれは、観ている私に、説明しがたい色々な感情を呼び覚ます。そしてそれは不思議なくらい、なつかしさと深く結びついていて、淡く胸がざわつく。
思うことには、たとえば“癒される”というほど、こしのさんの猫の性質は“寛大”ではない気がする(結果的に“癒される”というような気持ちになるのは、とてもよく分かるのだけれど)。きっともう少し、好き嫌いのはっきりしている猫(猫だもの)。キャパシティが決して広くない、その“広くなさ”がすなわち純粋さであるような。そして、自分の好きなものをよく心得ていて、だからこそちゃんと自力で満ち足りた気持ちになれる。そんな猫に見える。
実際、猫たちに囲まれてお茶をいただき、俳句と陶芸との関係や、俳句のどこに惹かれたのかなどをこしのさんに伺っているあいだ、おどろくほど私は安らかな気持ちでいた。猫たちの発するオーラが、とても優しくて、静かで、険がないのだ。思わず、「なんだかすごく安らぎます」と言ってしまったほどだった。あの安らかさはきっと、猫たちの寛大さではなくて、猫たちの満足によっていたのかなと思う。
販売コーナーで、横たわった猫(白くて、耳が桃色なので、少しうさぎのようにも見える)の小物入れと、絵葉書を買った。小物入れは、顔と身体の上半分にあたる蓋を開けると、中が浅い器になっていて、底が引き込まれるように深い青色をしている(ガラスを溶かしたものを流し込んで創るのだという)。その猫のそっけない外見と、内側の美しい青の対比が気に入って、(散々迷った挙げ句)それに決めた。茨木のり子の『みずうみ』という詩に、「田沢湖のように青く深い湖」という言葉があったことを思い出した。
帰り道、私はとても満ち足りた気分でいた。何かの展覧会に行って、こんなにいい気持ちで帰ってきたのは久しぶりだった。普段なら、銀座に行くと、何かと寄りたくなってしまう伊東屋や、入りはしないけど前を通ってみたくなる資生堂パーラー、思い出のあるミニシアターなどに、その日はひとつも立ち寄らないで、やっぱりこっそり帰った。その快い気分を、気を散らして逃してしまいたくなかった。
あの日出かけたときも、帰る道でも、どうして「こっそり」という気分だったのか、今になって考えてみる。それは多分、こしのさんの作品が、大袈裟な、飾り立てたもの、巧妙で、目立ちたがるものを好まないからだと思う。こしのさんの創る句や猫は、にぎわいから少し離れた木陰にちょこんと坐っている子供のような感じがする。きっと(まだ社会的には)無力で、華やかに見える場所から少し距離をおいてはいるけれど、すっとして曇りのない、澄んだ目をしている(それは汚れていないという意味ではなく、ごまかしのきかない、という意味)。そういう、小さいけれど完全な猫。
こしのさん自身は、陶芸の分野でも、俳句の分野でも華々しい活躍をされていて、旦那様と世界中を回る生活をなさっているけれど、きっとずっと「そういう部分」を持ち続けている方なのだと思う。こっそり出かけた私が、こしのさんの作品からつよいなつかしさを感じたのも、きっとそのためなのだろう。
こしのさんの第一句集『コイツァンの猫』が上梓されたのが今年の四月。その句集と同じ名前の個展がひらかれるという案内のお葉書を、ちょっとしたきっかけがあっていただいた。「陶猫展」というのは、猫の陶芸作品を集めた個展で、今までに何度も開かれているそうだが、伺うのは初めてだった。イタリアの小さな海の町だという「コイツァン」が、きっとこしのさんを魅了したのだろうな。そう思いながら、こしのさんの俳句も陶芸作品も大好きな私は、こっそり出かけていった。(どうしてか、こっそり、という気分だった)。
会場は、細長いビルの4階のフロア。ガラスの扉を開けてギャラリーに入ると、L字形の室内に、まずモノクロの写真に俳句が添えられた作品が並んでいる。写真に映っているのは、こしのさんの「陶猫」たち。一枚一枚の写真と俳句は、それぞれがよく合っていて、しかしちょうどいい距離感がある。お互いがお互いを補完しあっているというより、手をつないで、遠心力でくるくる回っている感じ。
左へ進むと小さなスペースがあって、数十センチの、色も大きさも表情も様々な猫たちが十何匹も展示されていた。そこに、こしのゆみこさんもいらした。ご挨拶すると、久しぶりだったから分からなかった、とのこと。どうぞ見ていってください、とにこやかにおっしゃったこしのさんは、私が名乗る前からずっと目を細めて笑っていらして、猫たちのなんだかたのしげな、優しい雰囲気に溶け込んでいるのだった。
こしのさんの創る猫の表情は、その殆どが、はっきりとした感情を指し示してはいない(笑っている顔、とか、せつなそうな顔、とかいうふうに)。それなのに、びっくりするほどそれぞれに表情が豊かだと思う。そしてそれは、観ている私に、説明しがたい色々な感情を呼び覚ます。そしてそれは不思議なくらい、なつかしさと深く結びついていて、淡く胸がざわつく。
思うことには、たとえば“癒される”というほど、こしのさんの猫の性質は“寛大”ではない気がする(結果的に“癒される”というような気持ちになるのは、とてもよく分かるのだけれど)。きっともう少し、好き嫌いのはっきりしている猫(猫だもの)。キャパシティが決して広くない、その“広くなさ”がすなわち純粋さであるような。そして、自分の好きなものをよく心得ていて、だからこそちゃんと自力で満ち足りた気持ちになれる。そんな猫に見える。
実際、猫たちに囲まれてお茶をいただき、俳句と陶芸との関係や、俳句のどこに惹かれたのかなどをこしのさんに伺っているあいだ、おどろくほど私は安らかな気持ちでいた。猫たちの発するオーラが、とても優しくて、静かで、険がないのだ。思わず、「なんだかすごく安らぎます」と言ってしまったほどだった。あの安らかさはきっと、猫たちの寛大さではなくて、猫たちの満足によっていたのかなと思う。
販売コーナーで、横たわった猫(白くて、耳が桃色なので、少しうさぎのようにも見える)の小物入れと、絵葉書を買った。小物入れは、顔と身体の上半分にあたる蓋を開けると、中が浅い器になっていて、底が引き込まれるように深い青色をしている(ガラスを溶かしたものを流し込んで創るのだという)。その猫のそっけない外見と、内側の美しい青の対比が気に入って、(散々迷った挙げ句)それに決めた。茨木のり子の『みずうみ』という詩に、「田沢湖のように青く深い湖」という言葉があったことを思い出した。
帰り道、私はとても満ち足りた気分でいた。何かの展覧会に行って、こんなにいい気持ちで帰ってきたのは久しぶりだった。普段なら、銀座に行くと、何かと寄りたくなってしまう伊東屋や、入りはしないけど前を通ってみたくなる資生堂パーラー、思い出のあるミニシアターなどに、その日はひとつも立ち寄らないで、やっぱりこっそり帰った。その快い気分を、気を散らして逃してしまいたくなかった。
あの日出かけたときも、帰る道でも、どうして「こっそり」という気分だったのか、今になって考えてみる。それは多分、こしのさんの作品が、大袈裟な、飾り立てたもの、巧妙で、目立ちたがるものを好まないからだと思う。こしのさんの創る句や猫は、にぎわいから少し離れた木陰にちょこんと坐っている子供のような感じがする。きっと(まだ社会的には)無力で、華やかに見える場所から少し距離をおいてはいるけれど、すっとして曇りのない、澄んだ目をしている(それは汚れていないという意味ではなく、ごまかしのきかない、という意味)。そういう、小さいけれど完全な猫。
こしのさん自身は、陶芸の分野でも、俳句の分野でも華々しい活躍をされていて、旦那様と世界中を回る生活をなさっているけれど、きっとずっと「そういう部分」を持ち続けている方なのだと思う。こっそり出かけた私が、こしのさんの作品からつよいなつかしさを感じたのも、きっとそのためなのだろう。
踊り場の壁のかたさや星月夜 浜いぶき
2009年8月27日木曜日
ロードムービー
映画には全くと言って良いほど詳しくないのだけれど、いわゆるロードムービーが好きらしい。自分のことなのに、「好きらしい」というのも変なのだが、気が付くと、観たものの多くをロードムービーが占めている。家が転勤族だったことも関係しているのかも知れないが、つい、そういう映画を選んでしまう。よく、夢はマイホームを持つこと、という言葉を聞くけれど、どうも共感できなくて困惑する。気に入った土地に長く住みたい気持ちはよく分かるのだが、その永続性、というのか、ずっとそこにいなければならないというプレッシャー(?)に耐えられそうにないのだ。いつでも、その住処を手放せる可能性がある、ということが重要で、そんな地に足のつかない私に、ロードムービーのもっている精神はとてもしっくりくる。
精神、などといってしまったが、いわゆる「旅行」と、ロードムービーにおける「旅」とはやはり異なると思う。旅行は、旅先の観光地なり、目当ての場所を訪ねること自体が一応の目的であるのに対して、ロードムービーでは、主人公は殆どの場合、何らかの「他の目的」を担わされている。分母が少なくて申し訳ないけれど、自分の観た映画のなかでいえば、失踪した妻を捜すとか(『パリ・テキサス』)、19歳になるあなたの子供がいる、という手紙の差出人を捜すとか(『ブロークン・フラワーズ』)、借金をチャラにしてもらう代わりに借金取りと東京を散歩するとか(『転々』)、100万円貯まるたびに住処を変えるとか(『百万円と苦虫女』)。
勿論、その目的にも大小さまざまがあって、どちらかというと、主人公が偉大な使命を預かって旅立つ物語より(『ロード・オブ・ザ・リング』的な)、渋々、旅に出るタイプが好みだ。昨年観て印象的だった『都会のアリス』(1973年)では、アメリカに旅行記の執筆で滞在していたドイツ人の青年ジャーナリストが、ひょんなことから(このフレーズはロードムービーのあらすじでよく見かける)9歳の少女を預かる。しかし、待ち合わせたアムステルダムに母親は現れず、仕方なく二人は、少女の祖母の家を探して旅に出る。国も毛色もまるで違うけれど、『図鑑に載ってない虫』(2007年)では、主人公の雑誌記者が、死後の世界を見ることができるというモノの調査を編集長に命じられ、ともかくも出かけていくところから始まった。
自ら強く望んだわけではなくして、旅に出ることになってしまった人たち、そこにある、切り開いていくような、巻き込まれていくようなバランス。そもそも、生活というものはそういうものだけれど、その均衡や不均衡をより印象的にみせてくれるのが、ロードムービーという装置だと思う。その中で、でも無理に元気を出したり、やっぱり倦んでみたり、思いがけず、同行者への情が深まったり——。『都会のアリス』で、長い旅路をともにしてきた主人公と少女が、気晴らしに海で泳ぐシーンがある。モノクロの画面のなかで、二人が泳ぎながら喧嘩になって(すでに祖母を探し回って疲弊している)、主人公が少女に水をかけながら彼女をののしる。その言葉といったら、「おたまじゃくし!」。いい年をした男が、9歳の少女と対等になってしまう瞬間。その場面が、ののしる、という表現も適切でなく思えるほど、ほほえましいというのか、とてもいい。台詞がではなく、シーンそのものが、真実をついていて。
そして、そうやって個人的な目的をもち、特殊な状況におかれた主人公の目を通して旅の風景が描写されていくのだから、旅の景色もやはり、かならずしも新鮮だったり、雄大だったり、美しかったりするわけではない。そこがNHKの“地球紀行”のような番組とちがうところで、でも、たまにその旅路に、ぱっ、と光がさすときがある。『都会のアリス』でいうと、例えば、主人公と少女が証明写真を撮るシーンなどがそうだと思う。もともと気が短く、愛想のない主人公と、くたびれて何となく「ぶう垂れて」いるアリスが、田舎町の小さな自動写真機の前に座る。自分たちの顔をのぞきこんでいるうちに、アリスが急に可笑しいほどの笑顔をみせる。にっこり、というより、にやり、といった風情で。そういう瞬間、二人がかがやくのは勿論だけれど、ぱっ、と、その「土地」がかがやく。観ている者も、突然、二人の居る場所、その土地の景色や街並を思い出す、という感じ。例えばそのかがやきを一緒に目撃できるのも、ロードムービーの醍醐味だと思う。
助手席の少女越しなる花野かな 浜いぶき
親との転勤暮らしも落ち着き、今では旅に出なくてはならない事情に巡りあわなくなった。ロードムービーのような体験は、日常ではあまりできない。ただ、一週間ほど前、郵便振替の青い用紙を午後までに300枚用意しなくてはならなくなったのは、ちょっとだけ「そんなふう」だった。住んでいる聖蹟桜ヶ丘駅から近い郵便局を4カ所、自転車や、バスや、歩きを使って2時間ほどで回る。帽子を被っていても暑くて、Tシャツで良かったと思った。どの局にも50〜100枚ほどしかおいておらず、そんなことになったのだが、取り置いてもらうために炎天下電話をかけると、直前に電話した局と同じ名前の人が出る。男の人だし、声も似ている。同じ局にかけてしまったのかと思い、私さっきお電話したでしょうか、と確かめると、していないという。「ああ、○○ね、あの局にもいるんですよ」どうやら同じ名前の局員がいるらしい。そんなことも承知し合っているのが、この辺りの郵便局らしかった。
ちょっとした山の上の郵便局から、旧道へ降りるルートを、優しそうなご婦人に尋ねながら歩く。その道には、大きな花芙蓉や、数珠玉、あざやかな赤紫色がめずらしい百日紅など、色々な植物がある。俳句の沢山できそうな裏道だな、と思いつつ、ふもとの郵便局へ急いだ。
〈ゲスト寄稿:浜いぶき〉
精神、などといってしまったが、いわゆる「旅行」と、ロードムービーにおける「旅」とはやはり異なると思う。旅行は、旅先の観光地なり、目当ての場所を訪ねること自体が一応の目的であるのに対して、ロードムービーでは、主人公は殆どの場合、何らかの「他の目的」を担わされている。分母が少なくて申し訳ないけれど、自分の観た映画のなかでいえば、失踪した妻を捜すとか(『パリ・テキサス』)、19歳になるあなたの子供がいる、という手紙の差出人を捜すとか(『ブロークン・フラワーズ』)、借金をチャラにしてもらう代わりに借金取りと東京を散歩するとか(『転々』)、100万円貯まるたびに住処を変えるとか(『百万円と苦虫女』)。
勿論、その目的にも大小さまざまがあって、どちらかというと、主人公が偉大な使命を預かって旅立つ物語より(『ロード・オブ・ザ・リング』的な)、渋々、旅に出るタイプが好みだ。昨年観て印象的だった『都会のアリス』(1973年)では、アメリカに旅行記の執筆で滞在していたドイツ人の青年ジャーナリストが、ひょんなことから(このフレーズはロードムービーのあらすじでよく見かける)9歳の少女を預かる。しかし、待ち合わせたアムステルダムに母親は現れず、仕方なく二人は、少女の祖母の家を探して旅に出る。国も毛色もまるで違うけれど、『図鑑に載ってない虫』(2007年)では、主人公の雑誌記者が、死後の世界を見ることができるというモノの調査を編集長に命じられ、ともかくも出かけていくところから始まった。
自ら強く望んだわけではなくして、旅に出ることになってしまった人たち、そこにある、切り開いていくような、巻き込まれていくようなバランス。そもそも、生活というものはそういうものだけれど、その均衡や不均衡をより印象的にみせてくれるのが、ロードムービーという装置だと思う。その中で、でも無理に元気を出したり、やっぱり倦んでみたり、思いがけず、同行者への情が深まったり——。『都会のアリス』で、長い旅路をともにしてきた主人公と少女が、気晴らしに海で泳ぐシーンがある。モノクロの画面のなかで、二人が泳ぎながら喧嘩になって(すでに祖母を探し回って疲弊している)、主人公が少女に水をかけながら彼女をののしる。その言葉といったら、「おたまじゃくし!」。いい年をした男が、9歳の少女と対等になってしまう瞬間。その場面が、ののしる、という表現も適切でなく思えるほど、ほほえましいというのか、とてもいい。台詞がではなく、シーンそのものが、真実をついていて。
そして、そうやって個人的な目的をもち、特殊な状況におかれた主人公の目を通して旅の風景が描写されていくのだから、旅の景色もやはり、かならずしも新鮮だったり、雄大だったり、美しかったりするわけではない。そこがNHKの“地球紀行”のような番組とちがうところで、でも、たまにその旅路に、ぱっ、と光がさすときがある。『都会のアリス』でいうと、例えば、主人公と少女が証明写真を撮るシーンなどがそうだと思う。もともと気が短く、愛想のない主人公と、くたびれて何となく「ぶう垂れて」いるアリスが、田舎町の小さな自動写真機の前に座る。自分たちの顔をのぞきこんでいるうちに、アリスが急に可笑しいほどの笑顔をみせる。にっこり、というより、にやり、といった風情で。そういう瞬間、二人がかがやくのは勿論だけれど、ぱっ、と、その「土地」がかがやく。観ている者も、突然、二人の居る場所、その土地の景色や街並を思い出す、という感じ。例えばそのかがやきを一緒に目撃できるのも、ロードムービーの醍醐味だと思う。
助手席の少女越しなる花野かな 浜いぶき
親との転勤暮らしも落ち着き、今では旅に出なくてはならない事情に巡りあわなくなった。ロードムービーのような体験は、日常ではあまりできない。ただ、一週間ほど前、郵便振替の青い用紙を午後までに300枚用意しなくてはならなくなったのは、ちょっとだけ「そんなふう」だった。住んでいる聖蹟桜ヶ丘駅から近い郵便局を4カ所、自転車や、バスや、歩きを使って2時間ほどで回る。帽子を被っていても暑くて、Tシャツで良かったと思った。どの局にも50〜100枚ほどしかおいておらず、そんなことになったのだが、取り置いてもらうために炎天下電話をかけると、直前に電話した局と同じ名前の人が出る。男の人だし、声も似ている。同じ局にかけてしまったのかと思い、私さっきお電話したでしょうか、と確かめると、していないという。「ああ、○○ね、あの局にもいるんですよ」どうやら同じ名前の局員がいるらしい。そんなことも承知し合っているのが、この辺りの郵便局らしかった。
ちょっとした山の上の郵便局から、旧道へ降りるルートを、優しそうなご婦人に尋ねながら歩く。その道には、大きな花芙蓉や、数珠玉、あざやかな赤紫色がめずらしい百日紅など、色々な植物がある。俳句の沢山できそうな裏道だな、と思いつつ、ふもとの郵便局へ急いだ。
〈ゲスト寄稿:浜いぶき〉
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