2009年8月31日月曜日

リズム

風邪でダウン。一日中寝ていたらすっきりした。疲れがたまっていたのかな。今回はyoutubeでも貼り付けてお茶を濁そうと思っていたのだけど、俳句のリズムについて少し。


俳句のリズムは五七五。七五調は日本古来より云々という話はどうでもよい。リズムがいい。リズムがある。とりあえずそれでいいのだが、小澤實の『俳句のはじまる場所』で引用されている坂野信彦によると、日本語は二音一単位で発音する言語で、日本語の律文(韻文)はほとんど四拍八音分の音量でできているという。七五調はエイトビートなんだな。で、七と五という奇数がミソ。かならず休符が入る。間ですね。これがリズム、ノリ、グルーヴを生み出すわけだ。上の句と下の句の字余りは許容されるが、中七が中八になるのは禁忌とされるのもわかる。中八になると、間がなくなってしまう。ノリが消える。中七が持っている一拍の休符、これをどう活かすかが大事。中七が俳句のリズムのいのちを握っているんだな。

俳句はリズムが大事、とよく言われるが、多くの場合、それは五七五が大事、という話に終わる。そんな簡単なものではないだろう。五七五になっていればリズムが良いということにもならないし、字余りでもリズムが良いということもある。僕は一時期、五七五より七七五のリズムの方が気持ちいい、ということがあった。五七五だと単調に感じてしまって、つまらなかったのだ。七七五が生み出す、頭から突っ込んでいく感じの、独特のグルーヴ感がたまらなかった。

字余りや、句またがりの持つ複雑なリズムを、単純に五七五ではないからリズムが悪いというのは違う。五七五のリズムをきちんと内在化したうえでの字余りや句またがりは、新しいリズムを提示する。リズムの冒険なのだ。その上で失敗か成功か、気持ちいいかわるいか、面白いかどうか判断してほしい。16ビートの曲なのに8ビートで聴かれて、リズムが悪いと言われても困る。

むかし、ロックのコンサートでは、客の手拍子はみんな「タン、タン、タン、タン」と頭打ちだった。それがいつしか、「ン、タン、ン、タン」とウラ打ちの手拍子に変わった。そういうことが、俳句の世界にもいつかやってくるだろうか。単純に世代の話でもないと思う。「俳句はリズム」というなら、もっとリズムに敏感になりたいものだ。


   穴開きしれんげや冷し担々麺    榮 猿丸

2009年8月28日金曜日

― 足元には歌 ―

              キャラバン
  鈴虫を連れ隊商の最後の一人       青山茂根


 秋の気配の漂い始める夕方ばかりでなく、桜の頃の砧公園も外せないが、万緑の季節、緑の絨緞に寝転がって空を見上げるのも好きだ。世田谷美術館に毎回足を運ぶわけでもなく、ただぼーっと過ごすため(といっても、子供とサッカーやバドミントンをしたりが合間に入る)だけに訪れる。最近の意外な発見は裏手の大蔵公園に近い芝生広場の一角に、平日の昼間、上半身裸の男性が何人も寝転がっていたこと。もしかしてハッテン場なのだろうか、その方面に疎いのでよくは知らない。が、一定の距離を置いた半裸の男ばかりが万緑の中に寝そべるさまは、その静寂さとともになかなか奇妙で印象的な光景である。スーラの絵『グランド・ジャット島の日曜日』(そっちはちゃんと服を着ているし男女とりどり)なぞを唐突に思い出してしまったことに自分でも驚く。 そういえば、あの構図も不思議だ。
 
 用賀駅北口から、一キロほど続いている遊歩道には様々なデザインの淡路瓦が敷き詰められていて、そこに小倉百人一首の歌が刻み込まれている。昨年、学校で五色百人一首の遊びを教わった子供と、一つ一つ辿りながら歩く。といっても子供なので、すでに大分忘れてしまっているのだが。またその刻まれた文字が数種類あって、達筆すぎて判読できないものから、高学年の子供が一生懸命書いた釘文字みたいなものまであって、妙に味わいがある。俳優たちの手形が敷石に埋め込まれたハリウッドのグローマンズ・チャイニーズ・シアターのように、立ち止まって、口ずさみつつ、両脇の水の流れやオブジェよろしく置かれた鬼瓦で遊びながら歩くと、公園の緑が目に入ってくる。

 先日、年賀状の整理をしていたら、親戚の住所に「高師浜」とあるのに今更ながら気がついた。「音に聞く高師の浦(『金葉集』には浦、『百人一首』では浜となっている)のあだ浪は・・・」の地だ。幼い頃、南海鉄道高師浜線(これも今や鉄道マニア向け路線らしい)の伽羅橋駅に降りて、その親戚の家にも行ったことがあるはず。だが、古い歌枕の地であるとは全く知らなかった(自分が無知なだけだが)。コンビナートが立ち並び、すでに白砂青松の面影はないというが、地名さえも、人々の記憶から失われてゆくのは惜しい。

 句碑や歌碑は全国に増えてゆくが、この大きな公園と美術館に続く「いらか道」のように、足元に刻まれた句や歌を辿りながら歩く、そんな道があちこちにもっとあっても楽しいだろう。

2009年8月27日木曜日

ロードムービー

 映画には全くと言って良いほど詳しくないのだけれど、いわゆるロードムービーが好きらしい。自分のことなのに、「好きらしい」というのも変なのだが、気が付くと、観たものの多くをロードムービーが占めている。家が転勤族だったことも関係しているのかも知れないが、つい、そういう映画を選んでしまう。よく、夢はマイホームを持つこと、という言葉を聞くけれど、どうも共感できなくて困惑する。気に入った土地に長く住みたい気持ちはよく分かるのだが、その永続性、というのか、ずっとそこにいなければならないというプレッシャー(?)に耐えられそうにないのだ。いつでも、その住処を手放せる可能性がある、ということが重要で、そんな地に足のつかない私に、ロードムービーのもっている精神はとてもしっくりくる。

 精神、などといってしまったが、いわゆる「旅行」と、ロードムービーにおける「旅」とはやはり異なると思う。旅行は、旅先の観光地なり、目当ての場所を訪ねること自体が一応の目的であるのに対して、ロードムービーでは、主人公は殆どの場合、何らかの「他の目的」を担わされている。分母が少なくて申し訳ないけれど、自分の観た映画のなかでいえば、失踪した妻を捜すとか(『パリ・テキサス』)、19歳になるあなたの子供がいる、という手紙の差出人を捜すとか(『ブロークン・フラワーズ』)、借金をチャラにしてもらう代わりに借金取りと東京を散歩するとか(『転々』)、100万円貯まるたびに住処を変えるとか(『百万円と苦虫女』)。

 勿論、その目的にも大小さまざまがあって、どちらかというと、主人公が偉大な使命を預かって旅立つ物語より(『ロード・オブ・ザ・リング』的な)、渋々、旅に出るタイプが好みだ。昨年観て印象的だった『都会のアリス』(1973年)では、アメリカに旅行記の執筆で滞在していたドイツ人の青年ジャーナリストが、ひょんなことから(このフレーズはロードムービーのあらすじでよく見かける)9歳の少女を預かる。しかし、待ち合わせたアムステルダムに母親は現れず、仕方なく二人は、少女の祖母の家を探して旅に出る。国も毛色もまるで違うけれど、『図鑑に載ってない虫』(2007年)では、主人公の雑誌記者が、死後の世界を見ることができるというモノの調査を編集長に命じられ、ともかくも出かけていくところから始まった。

 自ら強く望んだわけではなくして、旅に出ることになってしまった人たち、そこにある、切り開いていくような、巻き込まれていくようなバランス。そもそも、生活というものはそういうものだけれど、その均衡や不均衡をより印象的にみせてくれるのが、ロードムービーという装置だと思う。その中で、でも無理に元気を出したり、やっぱり倦んでみたり、思いがけず、同行者への情が深まったり——。『都会のアリス』で、長い旅路をともにしてきた主人公と少女が、気晴らしに海で泳ぐシーンがある。モノクロの画面のなかで、二人が泳ぎながら喧嘩になって(すでに祖母を探し回って疲弊している)、主人公が少女に水をかけながら彼女をののしる。その言葉といったら、「おたまじゃくし!」。いい年をした男が、9歳の少女と対等になってしまう瞬間。その場面が、ののしる、という表現も適切でなく思えるほど、ほほえましいというのか、とてもいい。台詞がではなく、シーンそのものが、真実をついていて。

 そして、そうやって個人的な目的をもち、特殊な状況におかれた主人公の目を通して旅の風景が描写されていくのだから、旅の景色もやはり、かならずしも新鮮だったり、雄大だったり、美しかったりするわけではない。そこがNHKの“地球紀行”のような番組とちがうところで、でも、たまにその旅路に、ぱっ、と光がさすときがある。『都会のアリス』でいうと、例えば、主人公と少女が証明写真を撮るシーンなどがそうだと思う。もともと気が短く、愛想のない主人公と、くたびれて何となく「ぶう垂れて」いるアリスが、田舎町の小さな自動写真機の前に座る。自分たちの顔をのぞきこんでいるうちに、アリスが急に可笑しいほどの笑顔をみせる。にっこり、というより、にやり、といった風情で。そういう瞬間、二人がかがやくのは勿論だけれど、ぱっ、と、その「土地」がかがやく。観ている者も、突然、二人の居る場所、その土地の景色や街並を思い出す、という感じ。例えばそのかがやきを一緒に目撃できるのも、ロードムービーの醍醐味だと思う。


  助手席の少女越しなる花野かな   浜いぶき


 親との転勤暮らしも落ち着き、今では旅に出なくてはならない事情に巡りあわなくなった。ロードムービーのような体験は、日常ではあまりできない。ただ、一週間ほど前、郵便振替の青い用紙を午後までに300枚用意しなくてはならなくなったのは、ちょっとだけ「そんなふう」だった。住んでいる聖蹟桜ヶ丘駅から近い郵便局を4カ所、自転車や、バスや、歩きを使って2時間ほどで回る。帽子を被っていても暑くて、Tシャツで良かったと思った。どの局にも50〜100枚ほどしかおいておらず、そんなことになったのだが、取り置いてもらうために炎天下電話をかけると、直前に電話した局と同じ名前の人が出る。男の人だし、声も似ている。同じ局にかけてしまったのかと思い、私さっきお電話したでしょうか、と確かめると、していないという。「ああ、○○ね、あの局にもいるんですよ」どうやら同じ名前の局員がいるらしい。そんなことも承知し合っているのが、この辺りの郵便局らしかった。

 ちょっとした山の上の郵便局から、旧道へ降りるルートを、優しそうなご婦人に尋ねながら歩く。その道には、大きな花芙蓉や、数珠玉、あざやかな赤紫色がめずらしい百日紅など、色々な植物がある。俳句の沢山できそうな裏道だな、と思いつつ、ふもとの郵便局へ急いだ。

〈ゲスト寄稿:浜いぶき〉

2009年8月26日水曜日

転害門海龍王寺太極殿

  秋空の一点に吊る転害門   中村安伸

今年はお盆から一週ずらして帰省することになった。
祖父の初盆に供物をいただいた家へ、20日、21日の二日間でおさがりを配る予定になっていたからである。そうした雑事の合間に奈良市内のいくつかのスポットを訪れることができたので、写真とともにご紹介したい。


1. 転害門(てがいもん)周辺
奈良と京都を結んで南北に通う古い街道の途中に、芝で覆われた広場が開けている。そこに大きな鳥が永遠に羽をやすめているような姿の、一層の門があった。
東大寺の他の建造物、たとえば南大門や大仏殿の豪壮さとは違う簡素な美しさに惹かれた。

この門は東大寺のいくつかの門のうち、現存する最古のものであるという。
害を転じる門と書いて「てがいもん」と呼ぶが、近くにあった銀行に「手貝支店」と書かれていたので、地名としてはその字を書くのだろう。

転害門の東には正倉院がある。
しかし、周囲の木々にさえぎられ、校倉造の建物をのぞむことはできなかった。

正倉院の南、戒壇院の裏手にあたる池の周囲に仔鹿をふくめたくさんの鹿があつまっていた。

一頭の鹿が池に浸かり、水草を食べていた。


2. 海龍王寺
転害門を起点とする一条通りを西へゆくと海龍王寺がある。

海龍王寺は、総国分尼寺として有名な法華寺に隣接するちいさな寺である。これら二つの寺は藤原不比等の邸宅の址であるという。

門をくぐって境内へいたるまで細長い路地が続いている。
両側の築地塀がところどころ崩れ、木や草が根を張っている。
塀に沿って木立が高く聳えている。
木立から漏れる陽の光をたどってゆくと、その先にもうひとつの門があり、境内が開けていた。
寺の名に引き摺られてか、竜宮へと海の道をたどってゆくような気がしないでもない。

本堂の厨子の中に安置されたご本尊は、やや華奢な十一面観世音菩薩。
他に、飛鳥時代のものと思われる、素朴な聖徳太子の木造があった。
また、四海安穏祈願のため、各地で採取したという海水が、ガラスの器に収められ奉納されていた。
かつては遣唐使など海運の安全を、ここで祈願したのだという。

西金堂には4メートルほどの高さの五重小塔(国宝)がおさめられている。心柱のない、箱のような構造の仏塔である。


3. 太極殿
海龍王寺からさらに西へ進むと平城宮址である。青草が風に吹かれて波打っている。

きらきらしく復元された朱雀門は、ドラマ『鹿男あをによし』でも印象的に使われていた。
来年、平城遷都1300年記念の年をむかえるということもあって、まあたらしい太極殿が復元中である。
建築中の姿を覆っていた巨大な屋根も撤去されつつあり、朱色を基調とした二層の楼閣が顔をのぞかせている。

この場所がかつての都の跡であることは、すっかり忘れ去られていたらしい。
太極殿があった場所は芝で覆われた土壇で、地元の人から「大黒の芝」と呼ばれていたという。
明治三十年にこの地に赴任した関野貞がこの名を聞いて太極殿を連想し、それをきっかけに調査と保存が行われるようになった。

1300年の間に、都が栄え、そして消え、ただの草原となり、ついには政庁の場所すら忘れ去られた。
そしてふたたび遺構が発見され、極彩色の建造物として復元されようとしている。

2009年8月25日火曜日

自民党の印象

  パプリカのサラダさらさら夜の秋  上野葉月

政治や政党に詳しくないから今度の選挙が終わったら一生自民党のことなんか書く気になりそうもないので、この機会に思いつくままに書いてみたい。

選挙やる前から政権交代が確実視されているのもニョンタカだし、仮に政権交代しても二年もしないうちに自民党が政権に返り咲くような気もするのだが、まあこの選挙をきっかけに自民党が消滅してしまうなんてこともあるかもしれない。さすがに愛と勇気だけがともだち葉月と云えども未来のことまではわかりません。

歴代の幹事長どころか総裁の名前も全部思い出せそうもない政党音痴の私だからなのか、いまだに自民党というと岸信介の名前を思い出す。手短に表現してしまうと岸の死後の自民党は私の想像する自民党とはだいぶ違う。うーん結論急ぎすぎ。
子供時代すでに岸信介が安保の騒ぎで辞職してから長い月日が経っていて、実際に政治の表舞台に立っていた姿を知らないのだが、私が成人して以降も岸信介は常に日本の政治に圧倒的な影響力を行使していた。おそらく80年代後半までその状態は基本的に変わっていなかったのだと思う。私の知っている自民党というのは総理総裁が変わっても根本的な政策にブレのない、そういう政党だった。
私は高度成長期の子供で人生の当初に経験した社会は、世界史上でもまれに見る時代だった。経済成長率は二桁が当たり前、要するに七年間で経済の規模は倍になってしまう訳だがそんな状態が15年も続いた。しかも高度成長期後期には貧富の差は縮小する。まさに世界が賞賛した日本の奇跡である。
今日、二桁成長を続ける国はあるが、どこも貧富の差は増大するばかりだ。それが普通、いわば自然な成り行き。

思うに私が子供時代に経験した経済社会は資本主義なんてものではなかった。あれは企業社会主義である(この言葉は私が思いついたものなのだけど、もし誰か先に言った人があったらごめんなさい、この場を借りてお詫びします)。今より窮屈で情報統制も強力だったが極端に安定した平和な社会だった。
この企業社会主義という言葉を考え付いたせいで岸信介を思い出したとも言える。
岸信介は昭和十年代入閣し戦時統制下の生産活動を指導する立場に立つ前は、商工省から満州国に引き抜かれ当地で重工業の発展を指導した、辣腕家の優秀な官僚だった。理論も現場もよく知っている二十世紀前半の統制経済のエキスパートとしてはおそらく世界でも五本の指に入ろうかという人だ。
大戦中の東條内閣の商工相だったとき、サイパン陥落によって制空権を握られたのち戦争継続に関して首相と意見が対立し辞職しているが、敗戦前の日本政界で無視できるほどの小物であったわけでもなく、A級戦犯として巣鴨に留置されている。三年の留置の末、結局不起訴処分でハンギングを免れたわけだが。このときGHQと岸の間でなんらかの裏取引があったはずだという説はよく見聞きするが結局結論は出ないだろう。私の見るところ、一種のラッキーで命拾いしたように見える。ドイツや日本の降伏以前のヤルタ会談から、すでに戦後処理とその結果招来されるであろう冷戦の萌芽は見え隠れしているので、日本の降伏前からアメリカには日本を反共の防波堤にする意図は十分にあったはずだ。そういう点で米国は日本の指導者の中でも優秀な人間は何人か残したかったはずで、岸もそうしたひとりだったのだと思う。

子供時代、日本の中核にあった大正生まれの男達は「優秀な奴はみんな戦争で死んでしまった」とよく嘆いていて実際私も直にこの耳で聞いたこともあるのだが、今思うとあの頃の日本人はそんなに無能な印象はない(ちなみに岸は明治生まれ)。むしろ現在の日本の中核を背負うべき私たちの方がよっぽど劣化(流行り言葉で申し訳ない)しているように見える。
敗戦は日本人を鍛えたような印象がある(たとえば『七人の侍』があれほど上出来なのはスタッフキャスト全員が負けいくさの経験者だったのも一因だ)。一世代前も現在も日本は歴然と米国の属国であるのだけど、高度経済成長期前後の日本は名を捨て実を取るという点では非常に優秀な敗戦国だった。今日ではほとんど不可能な曲芸のような政策で国内産業を狡猾に保護していたし。物質的な豊かさの追求という点では無駄な動きをする歯車がほとんどないような鉄壁のシステムだった。驚くべき成功の果て1980年代中盤以降、日本には世界中のお金の約半分が集まるような事態すら招来された。
この成功に関して色々な原因を推測することは可能だが、まっさきに思い出してしまうのは岸信介のような満州国と大日本帝国の消滅を目の当たりにした数人の現場指導者たちだ。人間は失敗からしか学ばない。大雑把に言ってしまえば満州国と大日本帝国の消滅が敗戦後日本の企業社会主義国家の直接の要因である。

長年働いていると自分自身の無能さにもすっかり倦いてしまうものだけど、同時にどんなところに行っても優秀な人間というのは少ないものだと自分のことを棚に上げて考えるようになる。特に私の場合、転職の回数が半端じゃないので余計そうなのかもしれない。
どんな組織でも、それが君主国でも共和国でも議会主導でも官僚主導でも、ほんの数名優秀なスタッフがいれば回るものだ。組織の成員の多くが優秀である必要はないし、それが組織である由縁だとも言える。

今日の日本は私が子供の頃知っていた名を捨て実を取る優秀な敗戦国ではなく、すっかり外資の食い物になっているなんだかよくわからないもので国家の体裁すら保っていないのかもしれない。自民党も私の知っている岸信介が生きていた頃の自民党とはまったく別物のような気がする。

現状の日本の国家としての機能不全は、日本ローカルの局地的な出来事なのか、あるいはマルクスの予言したような国家の消滅と何かかかわりのある現象なのかというと、それはさっぱりわからない。

2009年8月24日月曜日

捏造

俳句の季語というものを考えるとき、ぼくの心にふと浮かぶのは、太宰治の「富嶽百景」の有名な一文、

「富士には月見草がよく似合う。」

これには有名なエピソードがある。この小説の舞台となった御坂峠辺りでは、じっさいは月見草はおろか、一般に月見草として認知されている待宵草も自生していないというものだ。これこそ、「言葉で世界をつくりあげる」という、見事な例だと思う。しかもたったワンフレーズで。

富士と月見草の対比、というより配合は、コードを逃れるための、俳句的にはある意味ベタな手法ではあるけれど、でも「ここには月見草は咲きませんよね」という事実の前に、俳人はこういう配合は避ける。ただ、月見草が、言葉で世界を再構成し、捏造するためのケミカル・ワードとして働いているわけで、どっちを取るか。この一文が、人口に膾炙した理由は知らないけれど、季語というものを考えるとき、ふと思い出すのだ。ぼく個人は、あまりこういう配合は好きではないけれど。


ひさしぶりに袋廻しをやる。一分で一句。瞬発力の無さを実感。3枚目か4枚目くらいからやっとエンジンかかる。そのとき作った句。

  襟首に汚れ二すぢ百日紅   榮 猿丸

2009年8月21日金曜日

― Candela ― Buena Vista Social Club

 記憶の中の土地は、再訪すると切ない。まだ4,5歳の頃だったか、母が入院している間、兄弟の中で私だけ子供のいない父方の伯母の家に預けられていたことがある。確か中央線の高円寺の駅から徒歩10分くらいのところにあった、小さな貸家だった。申し訳程度に庭のついた、古い日本家屋の造りで、二階へ上がる薄暗い急な階段の暗い木の色と質感を、今もありありと思い出せる。周りはドラえもんののび太の家のような、ブロック塀が続く町並みで、迷子になったら、駅からこの道をこう行って、ここを曲がってっておまわりさんに言うのよ、と伯母にたびたび教え込まれていた。駅からは、それほど大きな商店街を通らずに歩けたように思う。一度風邪をひいたとき、いつもは行かない、駅と逆方向の医院へ連れて行ってもらったのだが、そのあたりはうって変わって、大きな二車線道路を挟んで様々に商店が立ち並んでいたのを、うらやましく眺めた記憶があるからだ。統一されたデザインの街灯が並び、そこに七夕か何かのような飾りがついていたのを覚えている。今思うと、昔の街道筋のような、道幅と店並みの規模だったか。その後事業に成功した伯母夫婦は、他へ転居して、その場所を訪れることは二度となかった。時折、句会などで高円寺の駅に降り立つことがあるのだが、あまりにも繁華街が充実していて、あの家への道がどこだったのか、思い出せない。どこまでも続くように感じた似たようなブロック塀と、片蔭、夏の日差し、先を歩く日傘、伯母とあまりしゃべることもなく黙々と歩いた町並みは、今もあるのだろうか。

 この夏の初めに、和歌山県の海沿いを訪れた。幼い頃、何度か夏休みに遊びに行った、曾祖母の家があった辺りを確かめたくなったのと、その隣町に、白砂の海水浴場があるからだった(いや、白浜生まれの双子のパンダの赤ちゃんを見にいくのも目的だった)。その頃の記憶では、大人たちの会話の中で、たなべ、新宮、という地名をよく耳にしたのだが、現在は白浜町のほうが発展しているように見えた。幼い頃遊んだ曾祖母の家の前の海と同じように、今回訪れた遠浅の白い砂浜には、隅の岩場の辺りに魚や烏賊の小さなものが泳いでいて、海水浴の傍ら、子供たちが網で夢中になって追っていた(捕まえたものが墨を吐くのも面白かった)。曾祖母の家のあった、椿は古来から名の知れたしかしひっそりとした小さな湯治場だったが、今はお隣の白浜温泉に完全に水をあけられているといった風情で、一時代前の雰囲気が漂う場所になっていた。が、裏山からパイプを通して源泉を引いていた曾祖母の家の風呂は、ぬるりとした滑らかな優しいお湯で、小さな母屋とは別棟にあり(落ち込み式の外厠がまた怖かった)浴槽は檜だったし、80歳近かった祖母が焚いてくれた薪の風呂は、とても心地よかったのだ。今思い出すと、寒村ながら我々の現在の都市住みより真の贅沢を享受していたのでは、と思う。

 今回webで検索して泊まった宿も、いささか良い時代を過ぎた名残が感じられる所だったが、泉質は曾祖母の家と同じく、肌の弱い体質の者にもあたりが優しかった。道路が通る前は海から船で向かうか、山越えをしないと行けない宿だったが、夕日の沈む海原が目の前にあった。久しぶりに訪ねた、曾祖母亡き後の家は、既に建て替わっているようで、海へ注ぐ川沿いの道だけがそのまま、家の前の、土を敷いていた木製の橋も架け替えられていた。住居はともかく、夏蜜柑や梅の木があった山の、粗末ながら百年を経ていたという農作業小屋は、朽ちてしまったとしたら惜しい。しかし、確かめるすべも、沢沿いを辿って登る道ももう判らなかった。

 先週、奥道志のキャンプ場へ向かう途中、中央高速に載る道へ向かいながら、10年ほど前に住んでいた場所へ寄ってみた。世田谷区に隣接した調布市の外れで、黒澤明が晩年を過ごしたマンションなどからは歩いて5分ほどの所ながら、目の前が崖になっていて様々な落葉樹が木陰を作り、敷地内は30年ほどの樹齢の桜の木ばかりだった。庭の草刈をしていて知らずに蛇をちょん切ったという住人もいたし、様々な種類の蜂が庭の花にやってきたり足長蜂が窓の下に巣を作ったり、徹夜明けで都内からタクシーで帰宅すると、様々な鳥の声にタクシーの運転手が軽井沢みたいだ、とお世辞を言うような環境だった。部屋の窓から見える満開の桜の向こうに、何か不穏なものが見えた。崖の斜面に、昔の防空壕がそのまま残っているのだった。子供たちが時々入り込んで遊ぶから、カードとか落ちてるのよ、と、その集合住宅に以前から住んでいる人が教えてくれた。しばらくして、その洞穴は木の板で塞がれてしまったが、窓の向こうに、暗い眼がこちらを見ているような、不気味な感じがして、一人の昼間などはそちらへ目をやることはなかった。

 数年前に、住人は皆立ち退きを命じられて、今そこは工事現場になっていた。何か大きな、集合住宅に生まれ変わるようだったが、白い工事用の塀で囲まれて、あの防空壕がどうなっているかまでは伺うことができなかった。

 キャンプ場から戻ると、蜩が鳴き始めていた。


  カンテッラとはかげろふの歓びに      青山茂根

2009年8月19日水曜日

  秋の蚊やジグソーパズルとなる笑顔   中村安伸

またも文楽の話で恐縮だが、三年前の八月に国立文楽劇場で観劇したときのことである。
人間国宝の竹本住大夫が『夏祭浪花鑑』の「釣船三婦内」を語り、いよいよこの場の主役、団七女房お辰が登場したときだった。
住大夫がお辰の声を発した瞬間、藪から棒にけたたましい笑い声がひびいた。
それは、私のすこし前の席に座っていた白人女性があげたものだった。

80歳を越えた老人が女性の声を出して演じるということそのものが、彼女には滑稽にうつったのだろう。
私だって路上や居間でそんなことが起きたら笑ってしまうか、逃げるだろう。
しかし、ことは舞台上で起きているのである。
文楽では一人の大夫が子供や娘なども含め、すべての登場人物を一人で語る(そうじゃない場面もある)のだが、仮にそのことを知らなくても、最低限の芸に対する敬意と公共心があれば、静まり返った劇場の客席で、唐突に笑い声をあげたりなどしないだろう。

さすがにその白人女性も状況を理解したようで、その後、いちども妙な笑い声を立てることはなかった。
おそらく、軽い物見遊山のような気分で、特に予備知識も持たずにやってきたのだろう。
驚きとカルチャーショックが本来の公共心を凌駕し、思わず笑ってしまったのだろう。
迷惑なことではあるが、まあ仕方がないのかもしれない。

 *

上記はやや特殊な例だが、文楽よりも大衆人気の高い歌舞伎の場合、似たような事例はさらに多く見受けられる。

たとえば「最近のお客さんは馬が出てくると笑う」というようなことを、ベテラン役者の芸談で聞くことがある。

『源平布引滝』「実盛物語」の幕切れの斎藤実盛や、『仮名手本忠臣蔵』十一段目の桃井若狭之助など、武将が馬に乗る場面というのがけっこうある。
そのようなとき、大部屋役者が二人がかりで馬を演じるのだが、これが登場すると客席に失笑が起きるのである。


言うまでもないが、歌舞伎にしろ文楽にしろ、始終静かに見ていなくてはいけないというわけではない。
チャリ場とよばれる笑いを意図した場面があるし、意図していなくても、自然なおかしみによって笑いを誘われこともある。
しかし、白人女性の場合も馬の場合も、おかしみによる笑いではなく自分にとって縁遠いもの、たとえば田舎の奇習などを小バカにするような、嘲笑に近い笑いであると思う。

 *

劇場の客席などで遭遇する不愉快な笑いにはもう一種類ある。

こちらはさきほどの例とは逆に、演者が笑いを意図しているときにおきることが多い。
自然な笑い声に混じって、不自然に大きな声の、奇妙に耳障りな笑いが聞こえることがある。
目立つのも道理で、これは人に聞かせようとする笑いなのである。
つまり、自分がいかにこの舞台を楽しんでいるか、それを周囲の観客に、そしてあわよくば演者にまでもアピールしたい。
そのような心理に裏付けられたものであると、私には感じられる。

 *

さて、「週刊俳句」掲載の佐藤文香の記事「夏休みグラスに砂を満たしけり~第12回俳句甲子園 うちらの場合~」に以下の記述があった。

〈審査員の先生は「これは病院の診察室でのことですか」のような質問をした。それは読者が考えることだから、那須くんは「診察室でなくてもいい、七夕に子供に聴診器を渡す、それだけ」のような応え方をした。そしたら観客席の、ある高校の引率の先生が「はっはっはっわからな~い」と手を叩いて笑った。〉

ここに描写されている先生の笑いは、上にあげた二種類の笑い、すなわち自分から遠いものを嘲る笑い、そして(この場合は「わからない」という)自分をアピールする笑い、その両方を兼ね備えているようだ。

2009年8月18日火曜日

じゃんけんに負けたぐらいじゃ愛媛に生まれないのか

 零戦に尾鰭背鰭のありにけり     上野葉月

ユースケくんが不景気にじゃなくて不定期に開催している「ババロア句会」はテーマ詠を持ち寄って行う句会なのだが、その本番の句会の前に既成の有名句の季語を季語ではない別の言葉に置き換えた俳句を提出する遊びを行うことがよくある。

たとえば以下のような操作によって一句ひねるわけである。

戦争と畳の上の団扇かな → 戦争と畳の上のメイドかな

遊びと言えば完全に遊びだ。人によっては季語の持つ機能とかはたまた俳句の本質とは何なのかなんて本格的議論を誘発しそうな危険性を含む遊びではあるのだが(よい子は真似しないように)「ババロア句会」では単なる遊びに終始している。
遊びと言っても、これはこれでけっこう役立つ遊びで、仮に俳句に興味のない(あるいは我が師、鋼の錬金術師の如く二つ名を持つ俳人!「こしのゆみこtheともだちがいない」さんのように五七五方向にchallengedな)句会初心者がその場にいても作句に苦労せずに、短冊の提出、清記、選句、披講という一連の句会作業を無理なく体験できる利点がある。

さて前回の「ババロア句会」でもやはりこの遊びが行われたのだけど、圧倒的な点数差で以下の句が最高点となった。

じゃんけんに負けて群馬に生まれたの  岡本飛び地

元句は言うまでもなく池田澄子さんの句である。私は他人の俳句も自分の俳句も記憶するのが苦手なのだが、池田澄子さんの蛍の句ばかりは一遍で憶えた。もう大好きな句なのでうれしくて(?)私もこの飛び地さんの句に点を入れた。
話を聞いてみるとこの句を選んだ人たちは群馬が絶妙だと言う。説得力ある距離感でじゃんけんでの負けに対応しているらしい。
熊倉隆敏のマンガのせいで私にとって栃木が「天国に一番近い県」なので群馬は天国に近すぎるような気がするのだが、どうなんでしょうか。そもそも日本に生まれた時点でじゃんけんに勝っていると言ってもよいような。そういえば某音大生のせいで二十世紀の昔には岐阜が「天国に一番近い県」だった(すぐ話が逸れる葉月)。
私って自称サーファーでジャズダンスのインストラクターで大の漱石ファンなのだけど、パスポートなしで行ける海外と呼ばれる愛媛や熊本にまだ行ったことがない。

熱心な読者のための注: こしのゆみこさんが"ともだちがいない"こしのゆみこと呼ばれているのは、こしのさんの友人関係に由来している訳ではなく、句集の出版前から広く人口に膾炙していた代表句のひとつに

夏座敷父はともだちがいない

があるためです。ちなみに私が"愛と勇気だけがともだち"上野葉月と呼ばれているのは、アンパンマンに容貌が似ているからではなく「こしのゆみこの一番弟子」だからです。


2009年8月17日月曜日

Full of Loneliness

高橋幸宏と鈴木慶一のユニット、ザ・ビートニクスが2001年にリリースしたアルバム「M.R.I」の中に、「Unending Heaven(Full of Loneliness)」という曲がある。この曲名の「Full of Loneliness」は、山頭火の「まつすぐな道でさびしい」の英訳「 This straight road,full of loneliness」から取った、と高橋幸宏が当時のインタビューで語っていた。曰く「アメリカ人にもっとも人気のある俳句」だそうだ。

まつすぐな道でさびしい

じゃ引用しないが、

This straight road,full of loneliness

だったら引用したくなる。たしかに。
よく映画などで観る、ルート66とか、果てのない荒野の中を突っ切るハイウェイの映像が浮かぶ。「Full of Loneliness」というフレーズが、そうした情景を喚起するのだ。そこらへんが、アメリカ人にもイメージしやすいのだろう。ジャック・ケルアックの『路上』なんかも連想させて、ビートニクの詩人が作った俳句だといっても通じそうだ。それにしても、原句と比べると、イメージされる風景はもちろん、空間の大きさから、叙情の質まで、まるっきり違う。原句はなんだか情けない感じだが、英訳句はかっこよすぎるくらいかっこいい。

話は変わるが、ジョン・レノンが俳句に影響を受けたというのは有名な話。インタビューなどでも本人が言っている。だが、具体的にどのように影響を受けたのかがよくわからない。「ジュリア」とか「アクロス・ザ・ユニヴァース」など、ビートルズ後期あたりから、「ラヴ」など、ソロの初期くらいまでの作品が挙げられることが多い。

たしかに、「ビコーズ」や「アイ・ウォント・ユー」や「ラヴ」などは、そのセンテンスの短さに、レノンなりの俳句の影響というものを感じさせる。「ジュリア」あたりも、それまでのレノンの詩に比べると、相対的にだが、イメージとしての俳句の雰囲気がフレーズの端々に感じられないこともない。

しかし、「アクロス・ザ・ユニヴァース」は、芭蕉の句にインスパイアされて作られた、と言われているが、どのへんがそうなのか、さっぱりわからない。詩の世界観が、と言われても、あれはインドのヨガの瞑想体験から来ているのではないか。サビがマントラだし、どう考えても、インドで教えを乞うたマハリシ・ヨギの影響だろう。

ただ、無理矢理捜すと、セカンド・ヴァースが、芭蕉の句への感銘を歌っていると読めなくもない。

Pools of sorrow, waves of joy are drifting through my open mind,
Possessing and caressing me.

「pool」という単語が

古池やかはづ飛込む水のおと

をちょっと思わせる、というだけだが。とにかく資料がない。レノン作品における俳句の影響について、論文とかないかな。読みたい。


  すいかバー西瓜無果汁種はチョコ   榮 猿丸


2009年8月14日金曜日

― グランギニョル ―

 
  八月十五日の紙飛行機を追へば       青山茂根 


 もともと、それほど音楽に傾倒していたわけでもなく、大学に入ると、体育会系クラブの活動の傍ら、芝居やら美術やらを見るほうが面白くなっていった。友達が参加している劇団を覗いたりしつつ、(全ての劇団に当てはまるわけではないし、そうでない人もいると思うが)どうもあの一部の劇団系のフリー×××的傾向(『愛の新世界』1994高橋判明監督作品、の中にもカリカチュアして描かれている)には拒否反応があった。

 東京グランギニョルの飴屋法水が作る世界が一番自分の見たいものに近く、グランギニョル解散後もその芝居やパフォーマンスを追いかけたりした。現代美術と銘打ってはいたが、大森のレントゲン藝術研究所で最初に行われたインスタレーションなどは、エイズ患者の本物の血液を大量に集めて展示する、といったもので、どこが美術なんだかよくわからないが、ホルマリン漬けの標本室に迷い込んだような怪しい空間を作り上げていた。

 その芝居も、グランギニョルの由来から連想されるような退廃の美、学生服姿の登場人物、血のりとびかうスプラッタまがいの演出、廃墟風の舞台美術(実際に廃墟となった工場跡で上演していたときもある)、少年愛に破壊行動(芝居に熱をいれるあまり上演中にほんとに骨折したり満身創痍になったり)、耳をつんざく音楽に彩られていた。しかし、内容は存在とは何か考えさせられるものが多く、1988年にアート・ユニット「M.M.M」を結成して上演したサイバーパンク芝居、『スキン/SKIN』を見て以来、劇中に出てきたバッファローの頭骨(それは今までオキーフと置き換えられるものだったが)を見るとあのメカニックな舞台装置と実験用マウスの肌を戦慄とともに思い出す(家の近くに岩城滉一のバイク・ウェアショップがあり、そこに常に飾られているのだ、バッファローの頭蓋骨)。

 17歳で状況劇場に参加していたという飴屋法水の描きだす世界は、今になって考えると、攝津幸彦の俳句世界と通じるものがあったのかもしれない。その頃は攝津幸彦はおろか、俳句なぞほとんど読んだこともなかった。

 一時芝居からも美術活動からも遠ざかって、フクロウ専門のペットショップなどを開いていた飴屋法水だが、一昨年から舞台演出を再開していたようで、ついこの12日までも原宿で芝居がかかっていたのだが、とうとう足を運べないまま過ぎた。

2009年8月12日水曜日

観劇録(2) 国立文楽劇場『天変斯止嵐后晴』

先週この欄に国立文楽劇場夏休み公演第一部の観劇録を書いたが、それを観た前日、午後7時開演の第三部を観ていたので、そちらについても書いておく。

「サマーレイトショー」と銘打たれ上演された演目は、シェークスピアの『テンペスト(あらし)』を翻案した『天変斯止嵐后晴』(てんぺすとあらしのちはれ)である。
「天変斯て止み、嵐のち晴れとなる」と読み下す外題は、文字を奇数にするというセオリーを守りつつ、芝居の内容を象徴するものとして、脚本担当の山田庄一がパンフレットで自画自賛していた。
私も見事な外題だと思う。

言うまでもないが、文楽とは人形遣い、大夫、三味線の三業がひとつとなってつくりあげる総合舞台芸術である。
そして、三者のうちもっとも目立たないのが三味線であろう。

その三味線がずらりと正面舞台に並び、大夫も人形も登場させず、その演奏のみによって吹き荒れる嵐の様を表現する冒頭の場面はとてもすばらしく、三業のなかでも三味線を特に愛好している私にとって、感慨一入であった。

故石井眞木に、マリンバ、打楽器、テープ、それに文楽大夫による曲がある。
補陀落渡海をテーマにしたもので、音響詩 「熊野補陀落」というタイトルであったが、2001年7月、草月ホールにその演奏(大夫は竹本綱大夫)を聞きに行ったとき、曲はともかくとして、パンフレットに「三味線を排除し」などと書かれていて憤慨したものであった。
その仕返しというわけではないだろうが、この「あらし」の場面では大夫のほうが排除されているのである。

『天変斯止嵐后晴』の作曲を担当したのは、先ごろ人間国宝となった鶴澤清治。
正確無比で豪快、繊細にして大胆、金属のように乾いて純粋な清治の三味線の、私はちょっとした贔屓である。
情感のふくよかさといった面では、もう一人の人間国宝である鶴澤寛治に及ばないかもしれないが、それぞれに魅力的である。
寛治がクラプトンなら清治はジェフ・ベックといったところか。

すでに廃業してしまったようだが、清治の弟子に清太郎という若く実力抜群の三味線弾きがいた。
その清太郎が2002年5月、紀尾井ホールで「清太郎の会」という催しを行ったことがある。
自作の三味線曲「夢心」を数挺の三味線をしたがえて演奏していたが、文楽三味線のみによる楽曲演奏を聴くのはそのとき以来かもしれない。

清太郎の曲は、西洋音楽の影響があらわで、演奏はすばらしかったが曲としてさほど面白いものではなかった。
一方、師匠の清治による「あらし」の曲は、音楽であると同時に効果音でもあり、弦楽器であると同時に打楽器でもある文楽三味線というものの特徴を活かしきったものだったと思う。

 *

さて、このように冒頭の場面にばかり行を費やすのは、その後の場面の印象があまり残っていないからである。

睡眠不足のせいもあるが、芝居全体をとても冗長に感じてしまい、ひたすら睡魔と格闘する時間が続いた。
パンフレットには、ピンチヒッターとして脚本を依頼され、時間がなかったなどといった山田庄一の言い訳めいたコメントが掲載されていたが、その脚本にばかり非があるとも思えない。

私が大学生の頃だったから十数年前、資料によると1991年、市川染五郎主演で、当時の東京グローブ座で上演された『葉武列土倭錦絵』という演目があった。
もちろん『ハムレット』を歌舞伎に翻案したものであるが、これも残念ながら印象希薄だったと思う。
古すぎて記憶にないだけかもしれないが……。

『天変斯止』も『葉武列土』も、戯曲を翻案するにあたって、いわゆる「時代物狂言」の世界にあてはめているのだが、先週『化競丑満鐘』の観劇録において述べたとおり、時代物の登場人物に内面の葛藤というものはない。
また、赤姫には赤姫の、若侍には若侍の類型的なキャラクターがあり、それぞれの行動パターンはほぼ決まっているのであり、そこからはずれた行動には、どうしても違和感をもってしまうのである。

このように書きつつも、忸怩たる思いがあるのは、蜷川幸雄演出の歌舞伎版『十二夜』を観ていないからである。
何度か再演されているにもかかわらず、タイミングがあわずに見逃してしまっている。
何度も再演されるほど評価が高いということは、もしかしたら上記の困難さを、蜷川幸雄独特の方法でクリアしているかもしれない。
次の上演を心待ちにしている。

  液晶に秋の天気図指紋捺す    中村安伸

2009年8月11日火曜日

マユゲンヌ!!!  やだ素敵!!

『ネウロ』の連載が終わってしまったせいか、私の唯一の心の拠り所となっていると言っても過言ではない『恋愛ラボ』。

あちこちで話題になっているので今更私が取り上げるのも気が引けるのだけれど単行本第三巻のおまけマンガの定着しなかったニックネームについてはやはり言っておきたい。
「マユゲンヌ!!!」
「やだ素敵!!」
これはすごい。まさしく魂を揺さぶられました。この会話に驚愕しない人たちも世の中には多いこととは思う。ただはっきり言えるのは、男子校で砂漠のような十代を過ごした人間は百年費やしたってこんなネームを考えつけないということだ(そんなことはっきり言ってどうする)。

『あずまんが大王』以降の時代、なんと表現するのだろうか「日常系学園4コマ」とでも呼ばれそうな畑の肥やしにするしかないぐらい大量の作品群に我々は曝され続けているわけだが、『恋愛ラボ』はそのような作品群とは一線を画していることは誰の目にも明らかである(と言って他人を引っ張り込むんじゃない)。

ネットでの反応を見ていて「マユゲンヌ」こと榎本結子がけっこう人気があることに気づいた。意外である。正直言って(特に正直にならなければいけない必要性はまったくないのだが)私はスズのファンである。彼女の言動にはまさに魂揺さぶられっぱなし。「ブラになっても優秀ですね!!」(第二巻26P)、「スズはいっていません!!(そこ喜ぶとこだぞ)」(第二巻61P)、「もれなくプレゼントなのにもれちゃえ」(第三巻23P)。胸を締め付けられました。もう心臓が止まるかと心配するぐらい。
宮原るりは間の取り方のセンスが抜群なのだが、特に全力でフォローしようとして見事にすべりまくる台詞を描かせるともう右に出る者なしとすら感じる。

いやまあこの藤女生徒会の五人はそれぞれきちんと個性的で見事に生き生きとしていて想像を絶するほど可愛らしいわけだけど(大丈夫か葉月?)。

そのくせ、生徒会役員なので中学生にしてはそれなりにしっかりしているはずの設定なのに彼女たちはけっこうよくビービー泣いたりするんですよ(任意の一読者が一緒になってビービー泣いているのは秘密だ)。

  梨硬しメール取り出す塾帰り   上野葉月

2009年8月10日月曜日

ワールドハピネス


ワールドハピネス@夢の島公園陸上競技場へ。空は雲に覆われ、夕方には不穏な風が吹いたりして、いつ雨が降ってもおかしくない状況だったが、奇跡的に最後まで持った。太陽は顔を出さず、結果的に最高の夏フェス日和であった。雨が降ってもきついが、ピーカン照りでもきついのだ。

そうはいっても、暑い。汗噴きまくりである。観客がみんなしんなりしていた。芝生に寝っ転がっている姿は、まるで浅漬け。いたるところに人間の浅漬けがころがっていた。中には煮しめたような人もいたが。

肝心のステージは、どれもよかった。ピューパは、やっぱり知世がかわいい。透き通る歌声は野外で聴くと格別。ラブ・サイケデリコは、途中、YMOの「ナイス・エイジ」を演奏するという心憎い演出。このバンド、安定感ある。フェスにもってこいのバンド。スチャダラパー、ずいぶんひさしぶりに観た。「今夜はブギーバック」ではオザケンも声の出演。YMOのバックで小山田圭吾がギターを弾いていたので、奇しくもフリッパーズ・ギターが揃った。

相対性理論は初体験。たのしみにしていたバンド。昭和の香り、80年代の香りがして、ひじょうに好み。ジューシィ・フルーツとかトムトム・クラブなど思い出したりして。演奏もうまい。CD買おう。

今日一番のお目当ては、YMOではなく、ムーンライダーズ。一曲目は、予想当たり、「ヴィデオ・ボーイ」。しかし、「夢が見れる機械がほしい」は野外フェス向きではない。案の定、客が座りだし、寝だした。こういうときファンはやきもきする。

大トリのYMOの一曲目は、なんとビートルズの「ハロー・グッドバイ」。しかも小山田圭吾がヴォーカル。幸宏のドラムがリンゴ・スターであった。最後は、アンコール曲「ファイアー・クラッカー」で閉幕。今回のYMOは、高橋幸宏はドラムに徹し、細野晴臣はエレキ・ベース。幸宏のドラムが存分に聴けたのがうれしい。

しかし、年齢層高いロック・フェスだ。高野寛の「ベステン・ダンク」や「虹の都へ」で、隣の人が跳び上がって喜んでいたくらいだから。私も大盛り上がりだったが。

都会で、芝生に寝っ転がって観られるフェスというのは貴重だ。でも、フジロックとか、だだっぴろいところで観たいな、やっぱり。


ロックフェスティバル先づ麦酒のむ草に坐し  榮 猿丸

2009年8月7日金曜日

― 成就のカタチ ―

  墓石の雲居のしみを洗ひけり     青山茂根

 とりあえず時間が空いたので、というときに、選ぶならウディ・アレン。出先で不意に映画館に入りたくなったとき、まあ退屈はせず、眠り落ちることもなく、大外しもまずない。といいつつも、ウディ・アレン監督作品は好きなほうで、日本で公開されたものはかなり見ているかも。あ、『マッチポイント』(2005)を見落としている。

 で、最新作『それでも恋するバルセロナ』(2008)だ。ベトナムだか韓国人の養女(しかも当時の同居人ミア・ファローの連れ子)に手を出してスキャンダルになったあたりから、ウディ・アレンの映画はいい方向に壊れだして、愛だ×××だと引っ掻き回されるコメディが冴えてきた。でも、オープニングから、状況設定やら人物像をすべてナレーションで片付けちゃうなんて手を抜き過ぎな本作だが、どうしてこれがアカデミー賞やらゴールデングローブ賞やら採れるのかそこが現在の米国映画界のていたらく、ってことだろう(アレン自身はそういったハリウッドの賞が嫌いで、授賞式もすっぽかす)。いや、面白かったのだ、べた褒めするわけではないがこの映画。そんな、手だれ感を見せつけられてもだ。主演に助演のキャスティングがどんぴしゃなのはさすがいつものアレン卿だが、女優が皆いきいきとしてうーん、いい女!と同性の私でさえ唸ってしまうほど(その辺もこの映画の展開のひとつ)魅力的なのも監督の相当な女好きの証しだろう。途中、P・ルコントばりの荒唐無稽な部分もあるが、ロメールを思わせる恋愛模様に軌道修正される。男優もいけてるし、ガウディの建築やらミロの絵画、スペインギターの味付けもあり、スペイン語の会話の冴えは、アレンが若い頃NY大学でスペイン語を専攻したためか。ストーリーとしてはいつものアレン調で、しかし舞台がいつものNYでないせいか理屈っぽい登場人物もいないし、娯楽というかひとときのトリップとして充分な満足感。いえ、そうではない映画も好きですが、夏、だからか。ラスト近くの台詞、―成就しない恋はロマンチック―との〆は、頷けるか否か。

 と、対照的に思い出すのは、英国女流作家の書いた『碾臼』。マーガレット・ドラブルが1965年に世に出した小説だが、惹かれながらも同性愛者だと思っていた男と思いがけず一夜の関係を持ち、子供が出来てしまうというストーリー。相手がバイセクシャルゆえにその事実を告げられず、未婚の母として生きていく姿を描いたものだ。これが1965年という時代に、おまけにケンブリッジ大学首席卒業という作者に書かれたというのにも驚く。風俗小説という面ばかりでなく、現代人の孤独さと他者との微妙な関係の筆致が深く胸に残る。ラストはE・ロメールの『冬物語』(1991) を思わせながら、リアルな苦さだ。

 映画の『ウェディング・バンケット』(1993、アン・リー監督)には、米国に帰化したゲイのカップルが親の手前、ノンケのふりをして偽装結婚する話が描かれる。花嫁に選ばれたのはグリーンカードが欲しい画家の卵。偽装のつもりが同じベッドで・・・、という展開は『碾臼』と同様ながら物事の全くの裏側を見せる。そこで、ゲイ青年の結婚式に台湾からかけつけた富裕な母親の台詞がなんとも。花嫁とショッピングにでかけたが、手ぶらで戻ってきて、「いいなと思って手に取るととみんなメイドインタイワンかチャイナじゃないの。」確かに、DKNYもラルフローレンもジルスチュアートもしかり。日本ではその後揺り戻しが来ているが、米国は今も同じか、いやその生産国はもっと広がっている。



2009年8月5日水曜日

観劇録(1) 国立文楽劇場 『化競丑満鐘』

国立文楽劇場夏休み公演の第一部は、親子劇場と題して子供たちをターゲットにした演目を上演している。
今年は曲亭馬琴作『化競丑満鐘』である。
親しみやすい妖怪たちが多数登場することから選ばれたのであろう。
しかし、これは浄瑠璃のなかでも現代人にとっては難解な「時代物狂言」のフォーマットに基づいた作品なのである。

紛失したお家の重宝「文福茶釜」詮議のため牢人住まいとなった狸。
妻の雪女。
ふたりの間に一子川太郎(河童)。
狸の子は子狸のはずでは、などと突っ込んではいけない。
あくまでも化物たちがそれぞれに割り振られた役を演じているという趣向である。

狸の住居を、主家のろくろ姫が尋ねてくる。
姿は時代物狂言の赤姫そのものである。

不審な時刻に戸の叩かれるのをいぶかしみ、狸は得意の狸寝入りを決め込む。
戸を開けてもらえないろくろ姫は、こんなときこそと首を伸ばして座敷へと侵入する。
白い首がにゅるにゅるとうどんのように伸びてゆく様子。
そして、自らの境遇を訴え、座敷にある顔と戸の外の胴体がそれぞれに嘆く様子など、奇怪で面白かった。

この演目は歌舞伎でも上演されたことがあるようだが、私は未見である。
上記のシーン、歌舞伎ではどのような仕掛けを用いたのだろうか。
首の部分は布などで作るのだろうが、人間の顔との質感の違いが気になってしまうのではないだろうか。
すべてが人工物で出来ている人形ならではの、リアルなろくろ首であった。

さて、狸がろくろ姫を匿っていることは敵方に知れていた。
鎌鼬に呼び出された狸は、丑三つ時に受け取りに行くから姫の首を渡せと言われ、思案しつつ帰宅する。
ろくろ姫のかわりに、面差しの似ている妻の首を差し出すことを思いつき、川太郎も見る前で雪女を殺害する。
雪女も夫の意図を察し、よろこんで死ぬ。
「寺子屋」「熊谷陣屋」などでおなじみの偽首の趣向である。

あわれなことに、雪女の首はすぐ水になってしまう。
偽首に気づいた鎌鼬は手下の小化物らを従え取って返すのだが、悲しみの涙で頭の皿を満たした川太郎が千人力で彼らを追い払う。

時代物狂言では、主君への忠義こそ絶対至上である。
そのためには、一時しのぎの方策としてすら躊躇なく身内の命をさしだす。
もちろん主人公は大いに嘆き悲しみ、犠牲となった妻や子を惜しむのだが、迷いや葛藤はない。
あらかじめ定まった優先順位に従って行動するのみなのだ。

『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」における武部源蔵の「せまじきものは宮仕え」という台詞は、観客の慨嘆の声でもある。
同時代の観客たちは、登場人物たちの悲惨な境遇に同情しつつ、わが身をふりかえってほっと胸をなでおろし、涙を流しながら拍手喝采したのだろう。

さて、私が観劇したのは日曜日で、多くの観客が親子連れであった。
時代物狂言の約束事など知る由もない子供たちに、こうしたシーンはとても理不尽なものに映っただろう。
何が起きているのかさえよくわからなかったかもしれない。

終演後、ロビーでは狸、川太郎、ろくろ姫の人形が出迎えてくれていた。
女の子がちいさな手で、さらにちいさなろくろ姫の白い手を握りしめ、離そうとしない様子が印象的だった。


    赤姫に臓腑の無くて日傘かな      中村安伸






2009年8月4日火曜日

 ― ホースラディッシュ ―

 
   空耳やキャンプファイアーの闇に  青山茂根


 夏はバジル。だいぶ前に、植物を育てるのが趣味の人たちのメーリングリストに参加していたとき、とにかく皆それぞれバジルを育てていた。春、種を蒔くことから始まり、それも3月のまだ肌寒いうちに早蒔きし、部屋の中で管理して(だって誰よりも早くからその味を楽しみたいのだ)、ばら撒きした芽がある程度育ったらポットに植え替え、本葉が2,3枚になったらプランターに上げて、と手間がかかる。だが、夏の間中、摘んでも摘んでも増える葉はいろいろに活用できた。ピザやパスタ、サラダに載せるのはもちろん、イタリア料理の定番前菜のブルスケッタ、鯛などの白身魚のカルパッチョもこれを刻んで散らす。タイバジルの代用にも使う。ナンプラーで味付けしたトマトと鶏肉のバジル炒めもおいしいご飯のおかずだし、ベトナムの生春巻きにもミントとバジルの葉を巻き込まないと現地っぽい味にならない。そして、大量に使う楽しみはなんといっても自家製バジル・ペースト、所謂ジェノベーゼソース。本式には大理石のすり鉢でごりごりやるのだが、冷凍庫で冷やしておいたコンテナを使えばミキサーでも簡単でかなりおいしい。自家製の新鮮な香りと色の楽しみ。皆で育ち具合の情報交換をしたり、多く作りすぎた苗をやりとりしたり、食べ方の新しいレシピを教えあったりしていたのも楽しかった。

 そんなメーリングリスト仲間で、日本では手に入りにくい種を海外の種苗会社に皆で注文したりしていたが、どうしても私のほしいものがトンプソン&モーガン社のカタログにも、サットン・シーズ社のにも載っていなかった。他にはだれもそれを欲しがっていなかったし、どうしようかな、と書き込んだら、メールが届いた。「ローストビーフにはホースラディッシュ、欠かせないですよね。うちの近くの園芸店で根っこを売ってますから送ってあげますよ。」という親切なメールで、とにかくホースラディッシュを育てたい!と思っていた私には願ってもない申し出だった。それは、アメリカ在住の日本人の方で、現地の方と結婚して、その親御さんと一緒に昔のままの生活で、ほぼ野菜類は自給自足だということだった。しばらくして届いた根茎は、時折スーパーの野菜売り場でみかけるものよりひねこびていて、本当にこれが育つの?という印象だったが、やがて芽が出て、本葉が茂ると、「サラダに入れるとぴりっとした味わいがある」という葉を摘んで食べるのが楽しくなってしまった。夏の暑さや、葉を摘んでばかりいたせいか、その年の冬に掘り上げてみた根はかなり小さく、でも自家製ローストビーフにほんの少し添えるには事足りた。本来は2年目までおいて太らせるものらしかった。 今になって調べてみたら、北海道では明治時代に輸入され、栽培されたものから野生化もしているという。

 育てている間のメールのやりとりに、彼女の家の夏の終わりの収穫作業の様子、自家製のインゲンや人参やトマトなどをどんどん水煮して冬に備えて家で瓶詰めを作るさまなどが書き綴られていて、まさに幼い頃読んだアメリカ開拓時代の話『農場の少年』などの世界そのものなのが、羨ましく、自分の今の暮らしが、少し寂しく思えた。

 そういえば、趣味で俳句を少しやってるんですよ、と書いたら、あ、うちのハズバンドもhaikuやってるんです、と返信が来た。見せてください、とお互いにメールで俳句を送りあった。そのアメリカ人のハズバンド氏のhaikuは、自然詠の3行詩といった趣きで、海外では俳句はこのように認識されているのだろうと推測はできた。だが、数日後の彼女からのメールにはこうあった。「実は、あなたの俳句を彼に見せたら、怒り出してしまって。これは俳句じゃない、って言い張るんです。日本で現在詠まれている俳句なのだ、と言っても聞いてくれなくて。夫婦喧嘩になっちゃいました。」そもそも私の句なぞどうでもいいようなものなのだが、自分の非とも言いきれない事に、私がメールで謝るわけにもいかず、相手はアメリカ人なので、それは奇異に映るだろうし、と大したことでもないのになんとなく気まずいやりとりをしているうちに、お互い連絡が途絶えた。

2009年8月3日月曜日

アイスキャンディーを毎日食べている。決して噛まない。舐める派だ。正確に言うとしゃぶる派だ。

至福の時である。「ながら舐め」はしない。本を読みながら、テレビで映画を観ながら、電話をしながら……他のことに意識がいっている間に気が付いたらなくなっていたなんてことになったときの、驚きと悲しみ。愛しいものが突然目の前から消えてしまった喪失感に呆然とする。そんなの嫌だ。だから、アイスをしゃぶるという甘美な道程だけを愉しむ。

佐藤文香の句集『海藻標本』に「アイスキャンディー果て材木の味残る」という句がある。句集のなかでいちばん好きな句だ。「果て」がいい。そう、アイスキャンディーの最後は「終わる」ではなく「果てる」なのだ。この「果て」感覚は「しゃぶる派」にしかわからないだろう。


ガリガリ君ぶどう味をしゃぶり尽くし、のこった材木の棒に「一本当り」の焼印が。当たった!

ひとりで食べていないでよかった。ぞんぶんに見せびらかす。当たりマークを、ぐっと、突き出し、携帯電話で写真に撮ってもらう。


しかし、交換に行くタイミングがわからない。というか、四十を過ぎるとさすがに恥ずかしい。こういうとき、堂々と交換できる大人になりたい。とりあえず、机の上に抛りっぱなしにしてある棒を、カバンの中に入れておこう。


  ひるがほや錆の文字浮く錆の中  榮 猿丸