2010年10月1日金曜日

 ― 『57501』 ―

 細長い、白い表紙の中央いっぱいに、縦に記された「57501」の墨の文字。俳誌『575』の創刊号を頂いた(ありがとうございます)。表紙の「01」というのは、創刊号を指すらしい。シンプルながらインパクトある版型。高橋修宏氏の個人誌として発行されたもの、しかし、高橋氏の敬愛する作家たちの作品が載っていて、鮮烈な存在感をもって迫ってくる。

  ドアというどのドアあけてみても犀    宗田安正
 
  鳥曇やさしく立てるテロリスト

  地底にも雲雀の揚がりをるならん

  そこに着くまでに燃えなむ蝸牛

  雪明りめざめてのちも馬である

 宗田安正氏、「冥府」から。<蝸牛>の句からは、地底と地上とを繋ぐ神話のような壮大な物語を想像した。また、万葉集にある狭野弟上娘子の歌、「君がゆく道のながてを繰りたたね焼きほろぼさむ天の火もがも」をふと思い出す。蝸牛が愛を引き出すのか。単純に、背後に燃える火と、進む蝸牛の対比としても、滅亡する世界のような美しさだ。

  野遊びの毛のいろいろを吹き分けて   谷口慎也

  墓石を抜かれて弱る春の山

  麦笛や大和というは紐いろいろ

  花氷死して手脚の開き方

  サーカスの夢のほどけて烏瓜
 
 「流離譚」、谷口慎也氏。<野遊びの>の句、冷たさの残る春風の中で、草木に絡んだ様々な動物達の毛や羽、実景を置きつつも、人々の妖しい遊戯へと連想が働く。<毛のいろいろ>とはユーモラスな表現ながら、刹那的な響きに聞こえるのはなぜだろう。

  膝曲げて脱ぐわかものに百合の意思  江里昭彦

  検温のための整列ひつじらは

  産卵のはじまる海に靴を投げ

  グァテマラに蘂湧きあがる花を見き
        
  望の月艦(ふね)は兵士をいれかえて

 江里昭彦氏、「人生は美しい」より。どの句にもみずみずしい暮らしの片鱗があり、生の息吹を盛り込みつつ、過去と現在を自在に行き来する。ときに享楽的に、あるいは冷徹に。それもまた人生、というように。<膝曲げて>の句、デニムを脱ぐ仕草から、青春期のナルシスティックな自尊心を描くのだろうか、少し異端の匂いも。<産卵のはじまる海>のフレーズの魅力、どんな生き物や魚類の産卵期でもいいのだが、海亀の来る海辺の碧さ、島や最果ての地のどこへもゆけぬ感傷を靴が。<望の月>の句、軍艦であろうが、なぜかトロイアの木馬を思ったり。ギリシャの月と夜空が広がる。

  すめらぎがすめらぎ殺め野火走る    高橋修宏

  黄沙降る柩は王を入れかえて

  液晶の並ぶ白夜の秋津島

  花野かな折檻のあとそのままに

  ひそやかにひめをひらけばひらく蘭

 「電子地母」、高橋修宏氏。ほぼ定型であり、有季の句も多い。だが、この印象の違いは何か。史実の、中央や片隅の出来事が、隣の家で現実に起きているような錯覚を起こす。<すめらぎ>を倒す謀反に放つ火は、野を焼く火に重なり。<黄沙降る>の不条理な世。ナム・ジュン・パイクのモニターを積み上げたインスタレーションの不気味な世界、初めて目にしたのは青山のワタリウムだったか、それが<液晶>の句の白夜へ。

 高嶋裕氏の短歌、「終日の水」より。

  少年期少女期永く曳いてきてふたり真昼の窟(いはや)にしやがむ     高嶋裕

  日常をふたり離れて鮮紅のブーゲンビリア眼に宿しあふ

  鳶あまた旋る(めぐる)港を行くときにあなたは錆をまた嗅ぎ当てる

  助手席で灯る子宮に委ねきる。をとこごころも、こどもごころも

 高嶋氏の評論、「短詩型と歴史への問い―『蜜楼』が提起するもの」から以下を。ここまで掲げてきた句の面白さには、定型が関係するのか否か、矛盾と分裂を孕むためなのか考えつつ。

 ・・・前近代の言語環境・文化環境に育まれた和歌の規範性や歳時記の宇宙を出自として背負ったまま、個の表現としての近代文学であろうとすることは、それ自体が矛盾であり、分裂だからだ。
 

           
  

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