2010年3月29日月曜日

ギミック

27日に行われたTwitter読書会『新撰21』、第三回「山口優夢+佐藤郁良」、ご参加&ご覧いただいた方々、ありがとうございました。下記から発言をまとめたものをご覧いただけます。

http://togetter.com/li/11288

全21回、ということであと18回あります。12月に刊行が予定されている続編『超新撰21』が出るまでには、なんとかやり遂げたいと思います。ちょっとペースを上げないといけませんね。おつきあいのほどよろしくお願いします。

角川「俳句」4月号購入。新企画「角川俳句賞受賞作家の四季・春」相子智恵の15句が掲載されている。最低でも次の受賞者が出るまで、1年間は角川俳句賞受賞作家をフィーチャーしろと言い続けてきたが、やるじゃねえか。えらいぞ、「俳句」編集部。

もう一つのトピックは黛まどかインタビュー。「俳句」誌では久々の登場ではないか。そしてカラーグラビア付き。まあ本の宣伝なのだけど。俳句の世界ってギミックってないのだけど、この人の登場時は確実にギミック入っていたと思う。俳句アイドル、略して俳ドル路線的な。って誰だそれ。でも、彼女は俳壇ではメインストリームではなく、独自の立ち位置にいってしまった。インタビューによると、彼女の携帯メールマガジン「俳句でエール!」は会員が約1万人だという。メルマガでこの数は、多いのか少ないのかわからないけれど、俳壇内から見ればすごい数だと思う。いずれにせよ、俳壇はギミックが好きじゃないらしい。ぼくはこういうの大好物なんだけれど。

ギミックといえば、ちょっと前にテレビで「デトロイト・メタル・シティ」を最後まで観た。日本の映画界、大丈夫か、と心配になるくらい最低の映画だったが、ロック映画、そしてギミックがテーマというだけで愛せる。

 掻き混ぜて即席汁やしじみ鳴る   榮 猿丸

2010年3月21日日曜日

haiku&me特別企画のお知らせ(3)

Twitter読書会『新撰21』 第三回 「山口優夢+佐藤郁良」

Web同人誌「haiku&me」主催の特別企画として、Twitterを使用した読書会を実施します。
※Twitterについての詳細はこちらをご覧下さい。

昨年末に発行され、各所で話題の若手俳人アンソロジー『セレクション俳人 プラス 新撰21』(邑書林)より、各回一人ずつの作者と小論をとりあげ、自由に鑑賞、批評を行う会にしたいと思います。開催は不定期で、全21回を予定しております。

第一回、第二回ともに多くの方にご参加いただき、まことにありがとうございました。

第三回は山口優夢さんの「空を見る、雪が降る」と、佐藤郁良さんの小論「叙情か屹立か」をテーマとします。

「haiku&me」のレギュラー執筆者三名が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)
また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。(傍聴といっても文字を眺めるだけですが。)

■第三回読書会開催日時: 2010/3/27(土) 22時より24時頃まで

■参加者: 
haiku&meレギュラー執筆者
+
どなたでもご参加いただけます。

■ご参加方法:
(1)ご発言される場合
Twitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。

なお、Twitterアカウントをお持ちでない方はこちらからTwitterにご登録ください。(無料、紹介等も不要です。)

(2)傍聴のみの場合
こちらをご覧下さい。

■事前のご発言のお願い
(1)読書会開催中にご参加いただけない方は、事前にTwitter上で評などをご発言いただければと思います。

(2)ご参加可能な方も、できるだけ事前に評などを書き込んでいただき、開催中は議論を中心に出来ればと思います。

(3)いずれの場合もタグは#shinsen21をご使用ください。終了後の感想なども、こちらのタグを使用してご発言ください。

■お問い合わせ:
中村(yasnakam@gmail.com)まで、お願いいたします。

■参考情報ほか:
・第一回読書会のまとめ

新撰21情報(邑書林)

・-俳句空間-豈weekly、新撰21竟宴、シンポジウム第二部の全記録

・『新撰21』のご購入はこちらから

2010年3月19日金曜日

 ― 風景 その2 ―

 映画館を出て、陽の光のなかを歩き始める。と、自分の歩調が周囲と違うことに気づき、可笑しくなることがある。映画の世界を引きずりながら、雑踏へ踏み出していて。長閑な春の昼下がり、ゆったりと歩く買い物客や親子連れ、ランチ帰りのOLたちの間を、険しい表情で行き過ぎる自分に気づき、ショウウインドウを覗いて顔を通常に戻す。そんなときは、いつもの街が、違う印象で迫ってくるようで、街角の客引きが妙に眼について、ビルのガラスの壁面が不穏な色彩に感じられるのだ。

   産土やしくしく泉湧くことも    斉田 仁

 『塵風』第二号より(或る方からお送り頂きました。ありがとうございます)。この号の特集は「風景」。様々な方が映画や、詩の舞台や、戦後の建築物、漫画に登場する風景などに焦点をあてながらそれを語っていて面白かった。俳句雑誌として、ここ最近読んだもの(といってもあまり手にとっていないのだが)のなかで一番心に残る特集だったとも言える。掲句は、巻頭のまさしく特集「風景」という掲載句の中にあったものではないのだが、最も印象的な風景の句。「しくしく」のオノマトペは、地中から湧く水音でありつつ、上五の「産土や」の切れから女性の下腹痛、それが出産に伴うものであってもなくても、を想起させる。それはさらに、泉のそばで泣いている女の姿にも。土俗的な信仰の匂いもして。いいさしでの終わり方も、読者の様々な記憶の中の風景を呼び覚ます効果へつながっている。
 
  ゆつくりと落ちるものある秋の庭    雪我狂流
  
  レプリカの巨鯨春風駘蕩区      烏鷺坊
   

  緑陰に置かれて蓋のない薬缶     唖々砂
  
  老人も砥石も乾く南風         長谷川裕
  
  吊り橋のある短夜の眠りかな      村田 篠

 風景は、潜在的な意識とともに、知覚されるものなのだろう。ときに、恣意的に、それは記憶される。たった今見たばかりの、映画の残像が街の風景に重なるように。


   花辛夷とは降伏のための旗            青山茂根
 

2010年3月16日火曜日

仲よしこよしはなんだかあやしい

先週の土曜は、現代俳句協会青年部シンポジウム「『俳句以後』の世界」へ行く。タイトルがもう、かましてる。かまされたぼくは、即申し込んだ。当日は遅刻して、第1部の、橋本直さんの「俳句のはじまり」、宇井十間さんの「俳句の終わり」は聴けず、第二部の「『俳句以後』の作家たち」と題されたパネルディスカッションから聴いた。パネラーは、池田澄子、岸本尚毅、鴇田智哉、四ツ谷龍の各氏、司会の宇井十間さん。

第1部を聴いていないのでなんとも言えないのだけど、パネルディスカッションからは、はっきり言って「俳句以後」というものはよくわからなかった。この顔ぶれが揃っただけで面白いといえば面白いのだけど、あまりつっこんだ話はなかった。顔ぶれはすごいのだけど、ヘンにバランスが取れているため、「俳句以後」というテーマ自体がぼやけてしまったように思う。鴇田智哉、関悦史あたりかなあ、ぼくが「俳句以後」と聞いて想像した俳人は。

懇親会で歌人の斉藤斎藤さん、花山周子さんに始めてお会いして、お話し。斉藤さんから、週刊俳句のサバービア俳句の話が出たのにはおどろいた。

その前夜、テレビで井上陽水のデビュー40周年記念の特番を観る。「澤」の編集の佳境だったのだけど、めちゃめちゃ面白くて、最後まで観てしまった(だからシンポジウムに遅れたのだった)。

たくさんの曲がダイジェストで紹介されていたのだけど、歌詞の奇跡的な言語感覚に圧倒される。天才、って何度も思った。母がレコードを持っていて、小学生の頃から聴いていたし、代表曲ももちろん知っていて、すごい人なのはわかっているつもりだったのだけど、わかっていなかったのだ。

ぼくが小学生のときは、「青空、ひとりきり」が好きだった。フォークっぽいものの良さがまだわからず、ポップでファンキーだったからというのもあるが、歌詞の「ひとりで見るのがはかない夢なら/ふたりで見るのはたいくつテレビ」というフレーズが、大好きだった。子供心にグッときた。

ロックとかポップ・ミュージックには、こうしたグッとくるフレーズがたくさんあって、そんなときふと思うのは、ニューウェイブ以降の現代短歌って、こういうフレーズと比べられちゃうなあと。読者からすると、比較できてしまうんだな。もちろん、現代短歌のなかにも、似ているようで全然ちがう、つまり「短歌」としか言いようのないものも当然あるわけだけど、単純に比べられてしまうものもあって、その点、俳句はいい。比較できるものがない、というより、比較対象にならない。いや、相手にしてくれないというほうが正確か。もちろん、Jポップや歌謡曲のフレーズの切れっ端に季語をくっつけただけのような俳句もあるけど、そんなものはどうでもいい。成仏してください。

話が逸れたが、この特番で、いちばん興味深かったのは、ボブ・ディランの影響を語っていたこと。影響と言っても、「ああ、こういうやり方もあるんだ」と気付いたことで、もともと持っていた言語感覚が花開いたということだが。「氷の世界」とか「傘がない」とか「夢の中へ」とか、ああいう詩の展開は、ディランの影響だったのだ。ひじょうに納得。

阿佐田哲也(色川武大)からも多大な影響を受けたようだ。阿佐田の話をふられて、語ったエピソードが印象深いものだった。麻雀をしていると、阿佐田は寝てしまう。睡眠障害だったらしい。阿佐田さんの番ですよ、と起こすと、朦朧としたまま、店屋物の鮨のトロの握りを取って、それを場に置いた。

完全にギャグなのだけど、病状を考えれば、シリアスな状況でもある。ギャグでやっているのか、本気なのかわからない。シリアスとユーモアが表裏一体なところ、たしかに陽水の世界である。これもひじょうに納得。じっさい、陽水の歌を聴いていると、爆笑してしまうことが多々あるが、これはもちろん嘲笑ではなく、その真逆で、こういう、すごすぎて笑ってしまうロックって、最近はなくなった。

で、陽水の「ゴールデン・ベスト」を買ってしまった。『陽水Ⅱ せんちめんたる』から一曲も入ってないのはちょっとさみしい。

ボブ・ディラン掛けよ蛙の夜なれば   榮 猿丸


2010年3月13日土曜日

 ― 風景 ―

   砂丘駆け抜け佐保姫の匂ひかな      青山茂根



 叱りすぎてしまった夜は、自分でもざわざわして、読まなければいけない本やしなければいけないあれこれに気分が向かなくて、結局、「もう、自分たちで寝なさい!」と突き放した幼いものの隣にもぐりこんで、「ある日、どんぐり城では・・・。」と自分からお話を始めることになる。

 「・・・二人は、どんぐり城図書館で、『どんぐり城の歴史 第十二巻』の本を抜き出した奥に、鍵が一つ、落ちているのを見つけました。それは、どんぐり城にある、開かずの扉の鍵でした。『どんぐり城の歴史 第十二巻』の最後に、その鍵を使って扉を開けると、秘密の塔があり、不思議なことが起こる、と書かれていました。しかし、それが良い事か悪い事かはそのときによって違うのです・・・。」と、続けると、それまで叱られてすねていた子供達もわくわくしてきて、「行ってみる!行ってみる!」と乗ってくる。「古びた鍵を廻すと、重い扉がぎーっと鳴って、開いたその向こうには、狭い石造りの急な階段が続いていました・・・。」と語りながら、自分で、(あ、これは小さいときに連れて行ってもらった、欧州のお城の光景だ・・・。)などと思い出す。行き当たりばったりで続けているお話なので、ときどき辻褄が合わなくなるときがあるが、記憶のどこかにある何かがふと浮上して、口をついて出てくるものだ。幼い頃訪ねた欧州の城は、外見は優美な姿だったが、敵がくるとすぐ跳ね上げる入り口の橋、分厚い樫の木の頑丈な扉の奥に、捕虜を幽閉する足枷のついた部屋があったり、塔の階段に穿たれた窓は、内壁側が広く、外壁側が狭い開口になっていた。銃身を敵の方向へ向けて自在に動かせるように、外側からは容易に撃ち込めないようにである。そんな恐ろしげな風景ばかり、子供心に残っている。

 「・・・すりへって、ところどころ崩れた階段を、二人はどこまでも上っていきました。と、思うと下っているようでもあり、高いところにある明り採りの窓からの光だけで薄暗く・・・」と言うと、子供は、「怖いよ、もう戻ろうよ。」と弱気になってくる。(この上がったり、下ったり、どちらか判らないってのはエッシャーのだまし絵からだな・・・)と、自分に頭の中で突っ込みを入れながら、「・・・よく見ると、その階段の隅には、昔のおもちゃが落ちていました・・・」と展開すると、子供達は「何が落ちてたの?」と、また眼を輝かせてお話についてくる。「・・・バレリーナのお人形や、兵隊さん、それから・・・。」、(それは、アンデルセンだよ・・・)と自分で思いながら、子供の欲しがりそうなミニカーやら何やら、拾いながら行くことにして続ける。

 「長い、長い階段を上がったり、下ったりして、ようやく二人は、階段のおしまいまで来ました。そこには鍵のかかっていない扉がありました。その扉を開けた途端、ぴかっとして眩しい光が二人を包みました。そして、ごうううっと音がして、床やお城全体が揺れだしました・・・。」「うわあ。」「どうしたの?何が起こったの?」と反応されながら、自分でも、(なんかSF超大作っぽい展開だ。どうしよう)と考える。「お城の人が後ろから慌てて上がってきて、地震みたいですね。あれ?ここは?」ととにかく繋げる。「どこだったの?」と言われながら、(さて、どこにしよう?)とまた行き当たりばったりである。「・・・そこは、お城の一番高い塔のてっぺんでした。なあんだ、屋上に出たんだ、と二人はほっとして、辺りを見渡すと、あれ?いつもと景色が違います。」「周りは、見渡す限り海でした。明るい日差しの中で、どんぐり城はどんぶらこ、どんぶらこ、とどこかへ流れて行くのでした。」(うーん、それはももたろうの言葉だ。ついでに、なんかこの風景はマグリットの絵に似てるのがあったような。)と自分で可笑しくなる。子供たちは「大丈夫?」「どこへいっちゃうの?」と心配そうだ。(いや、つまり、大陸移動説だな。)と私は、「そのうちに、どしん!と何かにぶつかって、見てみると、どこかの岸に着きました。」「ええ?」「ほんと?」(まあ、このぐらいだと大陸移動なぞわかっちゃいないしな。)と、「どんぐり城は、地面ががっちりくっついて、歩いてその新しい陸地に行けるようになっていました。」「すごい!」「でも、どんぐり城町の人たちは?」と聞かれ、(う、まずい、前にどんぐり城下町に行く話したんだった)と、あせる。「そうだ!お手紙だせばいいよ。」「そうだ。」と子供達から提案されて、「それで二人は、どんぐり城町の人たちに、お手紙を書きました。」とようよう繋げて〆る。この手紙を書いたり、手紙が誰かから届いたり、という展開も子供うけするものだ。携帯電話や、メールやらが主流の世の中だが、何か手紙というものに、想像力をかきたてる要素があるのだろう。

 知らず知らずのうちに、過去の物語の遺産や、記憶の中の風景が登場し、新たな物語を作り出すというのも、何か俳句というものを思う。どこかで、やはり「景」であるところが、俳句なのだろう。

2010年3月11日木曜日

Everyday I Write the Haiku

ツイッターを眺めていると、毎日たくさん俳句を書いている方がいて、すごいなと思う。
私は句会がないと書けない。締切寸前にならないと書けない。
句会はたいがい都内であるので、電車で小一時間かかる。その間に句をつくる。
着くまでに句ができなかったらどうしよう、という不安と焦燥が、句をつくらせるのである。
で、そういう句のほうが出来がいいのだから、ますます事前に句をつくらなくなる。
一番いいのは、席題句会。句会場に着いて、その場でお題がでる。事前に作らなくてよい。
つまり、行けばいいだけ。その場に行くだけで句ができるのである。なんて素晴らしいのだろう。

澤の仲間と、俳句トキワ荘をつくりたいね、とよく話していた。
手塚治虫や赤塚不二夫や藤子不二雄などが若かりし頃に住んでいたトキワ荘の俳人版。
俳人だけが住んでいるアパートである。
そしたら、毎日句会が出来る。毎日俳句が書ける。酒も呑める。最高だ。
澤の編集も楽になるし。でも、こういう話になるというのは、
つまり、なぜかまわりに独身が多いっていうことなのだけど……。



誕生日の夜は串揚を食べた。20分で腹一杯。昼飯か。

 おまかせの串揚たらの芽でストップ   榮 猿丸

2010年3月5日金曜日

― 煙の中 ―



  風船のからみて夜の樹のゆらぎ       青山茂根


 行き過ぎてから沈丁花に気づく夕べには、湯たんぽをそろそろ支度せずともよいかどうか迷う。自分が小さい頃使っていたのは、乳児用だったという乳白色のなめらかな手触りの樹脂製のもので、真ん中に湯音によって色の変わる小さな窓がついていた。肌に触れても、ブリキ製のもののように熱くなりすぎることもなく、かなり大きくなるまで気に入ってそれを使っていたが、いったいあれはどこにいったのだろう。数年前、家の小さいもののために、その昔の製品に似たものを随分探したのだがもはやどこにもなく、仕方なくゴムの氷枕を小さくしたような、暖かなカバーのついたものを求めてきて使っている。

 もらわれてきたばかりの子犬や子猫が湯たんぽを入れてやると落ち着いて眠るように、人間の幼いものもたやすく眠り落ちる。夜中に寝ぼけて、或いは怖い夢でうなされても、無意識にそれを探して腕に抱いてまた眠る。柔らかさと、適度な暖かさの中に、安心といったものも詰まっているようだ。

 また、寝る前のお話して、と催促が始まったときに、とっさに口をついて出てきた話は、「・・・二人がぐっすり眠っていたら、足元で何かボコボコと膨らむ感じがしたので、目を覚ました途端、ポン!と音がして二人の蒲団の中の湯たんぽの口が開いて、煙と一緒に何か出てきました・・・。」だった。ここで、あれ、もしかして、と思った人はたぶん私と同世代だろう。「・・・煙とともに、出てきたのは湯たんぽの精でした。」と続けたら、子供たちは大喜びした。そう、最初は1969年から70年に放映されていたアニメ番組『ハクション大魔王』のパクリである(私が見たのは再放送かもしれない)。現在また何度目かの再放送をされているらしいことは、今日知った。もともとは「アラジンと魔法のランプ」の設定を模したアニメなのだが、子供心に強く印象に残っていて、現にこうして不意に記憶が蘇ってくる。その後に読んだ『アラビアンナイト』の本でも、金色のランプの挿絵を飽きもせずずっと眺めていた。ランプをこする仕草の描写を真似して、お茶のポットとか色々なものをこすってみたりしたものだ。似たようなものがもしや売られてはいないかと、古道具屋などを見かけると覗いてみたりした。

  父の背の広さよ江ノ島鯨ショー        山田耕司      『大風呂敷』

  積木つむ音をちひさく春の雪          小川春休       『銀の泡』

 雛飾りなどから受ける印象もそうなのだが、古い物語などにまつわる価値観は時代とともに変化するが、そのもの自体から受けるwonderや、そこから感じるfantasyといったものは時が経っても色あせない。どの時代にも人を魅了し続ける。俳句も、同じことだろうと思う。

2010年3月4日木曜日

マッターホルン     広渡敬雄

悴みて登頂時刻のみ記せり     広渡敬雄
 
(1) ツエルマット
 年が明けて早々、NHK・BSハイビジョン「世界の名峰(グレイトサミット10)」、「世界遺産への招待」アルプスのアルプ(牧草地)・少女ハイジ&クララが放送され、20年前に登ったマッターホルンの尖峰&ゴルナー氷河、メンヒ山麓(ベルナー・オーバーラント)の広大なアルプを思い出した。
 日本山岳会の岳友4名と年号が平成と変わった1989年8月パリ経由ジュネーブ空港に降り立ち、レマン湖を巡って、マッターホルンの登山口、ツエルマット(1620米)に着いたのは、夕刻だった。
 夏のスイスの夕暮れは8時近く、しかも薄暮が長い。自動車が締め出された駅前は、馬車と電気自動車が迎える。氷河から豊かな水量の乳白色の川が、町の真中を流れており、その両岸に瀟洒なホテルが連なっていた。
 ホテルのどの窓にも赤いゼラニュームの鉢が飾られ、流石に観光立国の感がした。
 この町は、本格的な登山者、ハイカー、山岳リゾートの人達、観光者と様々な人で溢れていた。感心したのは、欧州のハイカーの姿(服装、身振り、醸し出す雰囲気等)がスマートに決まっていることだ。
 日本人のハイカーの姿はどうしても野暮ったい。国民性によるのだろうか。
 早速、山岳博物館を見学。初登攀者ウインパー愛用のピッケル、悲劇の滑落の要因となった切れたザイル等が展示され、ひしひしとこれからの厳しい登攀を実感した。             
 マッターホルンは幾多の困難な試みの末、1865年7月14日、エドワード・ウインパー他6名が、今般の我々の登山ルートと同じヘルンリ稜から初登攀に成功するも、帰路に頂上直下の肩の雪田で1名の墜落が他の3名をも巻き込み、無事下山しえたのは、3名のみという悲劇的な結末となり、魔の住む山と畏怖されたことで有名である。
 その後、より危険な困難なルートからの登攀が試みられた。
 その北壁は、アイガー、グランド・ジョラスとともに欧州アルプスの3大北壁とされ、それを征服しうるのは、先鋭的なエリート登山家とされた。(※1)
 それらの北壁をさらに冬季に単独でなしえた日本人登山家・長谷川恒夫氏は、現在でもその栄誉を当地で語り継がれているが、その後ヒマラヤ・ウルタンⅡ峰で雪崩で遭難死した。
 参考:写真①、②






















(2)ゴルナーグラード
 翌日の早朝、散歩の途中で初めて見たマッターホルンは、これまで写真で見たのとはまったく違う圧倒的な高度感で迫り、少し左に頭を傾げた独特の鋭鋒が一気に天に直立する岩峰である。
 朝日が頂上から徐々に下方へ金色に染めあげ、吸い込まれるような神々しさであり、あの山頂に立つかと思うと思わず全身が身震いした。
 まず、ツエルマットの最もポピラーなハイキングコースでの脚馴らしの意味もあり、赤い登山電車で3135米のゴルナーグラードの展望所に向かう。
 既に高度は日本No2の高峰・南アルプス北岳とほぼ同じだが、高山病の兆候も出ず安心した。
 眼前には圧倒的迫力で、アルプス第二の高峰モンテローザ(4634米)、「白銀の鞍」との美しい異称を持つリスカム(4527米)、ブライトホルン(4164米)そしてお目当てのマッターホルン(4478米)、さらにダン・ブランシュ(4357米)等々がほぼ360度に広がる絶景!
 マッターホルンは、海抜では他の岩峰には劣るものの、ドイツ語で「平地から突き出た角」の名の通り、周りの氷河から一気に1500米を突き上げる高度差は、他を圧倒する雄姿である。
 明日からあの頂上を目指すかと思うと身体が熱くなり興奮を押さえるのに困った。
 また、モンテローザ直下からのゴルナー氷河の白い眩しい大河の流れには、ただただ圧倒された。
 平成11年に上梓した第一句集『遠賀川』のあとがきに「始めたばかりの俳句でこの稀有な広大な氷河を表現しえないだろうか」と書いた心の高ぶりは、今にして思い出しても懐かしい。欧州最大の氷河はこの世のものでないオーラを発していた。

   いにしへの音秘め氷河謐かなり

 記念撮影のあと、のんびりとハイキングコースをリッフェルベルグ駅(2582米)迄下る。このコースはマッターホルンを常に正面に見つつ、アルプ(牧草地)を下る。
 途中に同峰を逆さに映す有名なリッフェルゼー(湖)を通るため、人気コースでもある。
 快晴の中、風ひとつない湖面にやや青みを帯びた逆さマッターホルンが映っていて、皆で歓声をあげた。
 牧草地の所々の岩陰から顔を覗かせる「マーモット」という草食系のネズミ目リス科の可愛い動物が時々見かける。危険を予知するとホイッスルのような警戒の鳴き声を放つ。みやげもののログマークにも多く使用される人気者だが、中世にはペストの伝染病の媒介者として恐れられた。(※2)
  参考:写真③、④、⑤、⑥




























(3)ヘルンリヒュッテ
 いよいよマッターホルンの頂上を目指す日となった。
 1620米のツエルマットからロープウェイでシェバルゼー迄上がる。ここの屋外レストランで、燦々とした陽光と爽快な山気の中、至近距離からのマッターホルンは覆いかぶさる感じである。
 8月でも風雪があると聞くと只々好天を祈るのみ!
 2時間かけて本日のベース基地ヘルンリヒュッテ(3260米)まで、マッターホルンの山懐に吸い込まれる様な径をゆっくりと登る。
 程なく、風もなくスイス国旗がだらんと垂れているヒュッテに着く。綺麗に清掃されていて気持ちが良い。
 早速、ビッヘル・メインレッドという長身の30歳くらいのガイドを紹介される。
 彼に命を託すザイルを組んでもらうわけだ。がっちり握手して、ヘルメット、ハーネス(安全ベルト)、アイゼン、カナビラの点検を受けた。後から聞く所によると、彼らガイドは、この点検時に請け負う登山者の力量を即座に判断するという。
 この時、自分が持っていたリチウム電池のライトに彼のみならず他のガイドも大変な関心を示し、マ峰登頂後に是非譲って欲しいと懇請して来た。
 普通の電池のライトとの光度の強さ、耐久性の違いを仄聞していたのだろうか。
 マ峰登頂後にもアイガーの隣のユングフラフかメンヒに登るので譲れないと告げると、残念だ!と首をすくめ無念さを手振りで示した。
 最近では、LEDライトが主流になっているのを思うと隔世の感がする。
 マ峰は午後からは必ず天候が悪化するので、未明から登攀し、昼過ぎにはヒュッテに戻らないと滑落、落石、疲労凍死、雪崩等のリスクが高い。
 標高差1218米、平均斜度39度の岩峰を、途中のポイント迄所定の時間で登り切らないとガイドは強引に降ろす。
 一緒に行った4名全員の登頂を期したが、結果的には、頂上を踏めたのは自分含め2名だけだった。
 明日は真っ暗闇な未明に岩壁登攀のスタートとなるため、夕暮れ時に視察を兼ねて取り付き地点に出かけたが、最初から15米の岩場。ガイドが誘導はしてくれるが、一応ルートを頭に叩き込んで、眠りについた。
  参考:写真⑦









(4)マッターホルン山頂
 翌朝未明4時起床、食事後同25分スタート。
 外は暗いので明るいヒュッテ内でガイドとザイルを結んだ。いよいよ登るんだ!と緊張が走る。扉を出ると、寒い! 氷点下か。
 満天の星と下弦の月のなか登り始める。
 遥か下に、ツルマットの町の明かりが鮮やかなイルミネーションのように輝く。
 まずは、4003米のソルベイ小屋までの高度差750米の登り。
 休みなく(水、食料の補給なく)3時間内で登らなくては降ろされてしまう。
 登り始めて1時間強で日の出。自分の顔に眩しい朝日が、刻々とマ峰の頂上から下に向けて岩峰を紅に照らし染める。その美しさは別世界の感もするが、岩壁に取りついていてのんびり鑑賞する余裕なんてない。

   くれなゐの朝焼け沁むる岩の肌

 小屋の直下のモズレイスラブは、狭く上からの下山者との離合時が最も危険とは言われていたが無我夢中で記憶にはない。
 とにかく水を飲みたかったが、ガイドに「NO!小屋まで我慢!」と言われ辛かった。
 滑落のリスクがあるから許さないと聞いた。
 必死な登攀の末、何とかam6:20にソルベイ小屋に着く。
 ガイドから「お前は抜群に早い!」と言われ、嬉しかった。
 頂上まで行ける!
 十分に水、食料を口にする。無事下山すると、小屋の登頂記録ノート(永久保存?)にサインが出来ると励まされる。冷気の中、遥か下に望まれる谷間のツエルマットがようやく明るくなって来た。宿泊したヘルンリ小屋もマッチ箱のようだ。
 ガイドはヘルメットも装着せず、小屋まで常に先頭立ち、勝手知ったルートをわけなく登る。
 ロープを固定してルートや手足をホールドする位置を指示し、登ってこい!と言う。
 ガイドを雇わない登山者はルート探しに時間を要して、下山時の大渋滞の要因となるため、スイスのガイド達からは悪評である。
 いよいよ核心部を経て頂上までの高度差490米。
 しばらくして有名な北壁の縁の雪田に出る。傾斜35度。
 アイゼン装着し、慎重にステップを切って登る。既に3時間以上900米近くもの岩壁登攀を続けているので、腕力、指の握力が疲労で弱まっている。
 頂上近くに7~8米の直立の岩場があり、息も乱れてきている上にグリップが弱く、折角太いロープが張られているものの、もたもたしていたら、ガイドがアイザンレンしたロープを引っ張り上げ、身体ごと持ち上げてくれて有難かった。
 無我夢中で疲れて痺れる腕を励まして攀じ登った。もう一度小さい雪田を登り切ると、頂上のマリア像が見えてきた。(これはどうか定かではない。)
 頂上だった。ガイドとがっちり握手し、抱き合った。
 彼がGood! you are good!と言ってくれた。
 こちらはthank you!と二度叫んだ。
 文字通り雲ひとつない快晴!
 フランスのモンブラン方面、これから登るベルナー・オーバーラントのアイガー、メンヒ方面、ゴルナーグラードで見た四囲の鋭鋒が見渡せる。
 眼下には雄大なゴルナー氷河、そしてツエルマットの町。
 煙草を一本吸う。
 やや遅れて同行の仲間のひとりも到着。熱い握手、抱擁、自然と目頭が熱くなった。記念撮影は仲間&ガイドと。頂上は80米くらいの長く細い岩稜で、両方ともスパット切れ落ちている、世に言うナイフエッジだ。
 ガイドが30米位先のイタリア側の頂上(山頂表示板か国境の十字架が指呼に見え、何人かの登攀者が見える)まで行くかと訊ねる。体力的にも限界に近い(下山は登り以上に神経、体力を使う)。
 苦笑しつつno thank you!と答える。
 もう二度と見ないだろう絶景に名残りを惜しみつつ15分位で頂上をあとにする。
  参考:写真⑧、⑨





















(5)下山そしてメンヒ
 下りは登りとは逆にこちらが先に下りる(ガイドはザイルでホールド)。
 雪田では怖いもの見たさに、その縁近くまで行ってかの北壁を望む。
 下から1500米の絶壁。かってここを登攀した女性登山家今井通子の偉業をひしひしと感じつつ、ソルベイ小屋に寄り、登頂記録ノートにサインをする。
 ガイドが証明のサインをしてくれ、おめでとう!と言ってくれる。
 体力的には疲労のピークに達していてきついが、心は満足感で満ち溢れている。
 さらに、慎重に慎重に岩壁を750米下りて登山基地のヘルンリヒュッテに到着。
 ザイルを外す。やった!という感激よりももう死ぬことはないという安堵感が先に出た。ガイドと固い握手をし、抱き合いお互いの背を叩きあった後に記念撮影。
 そのまま、休息もせずツエルマットまで戻る。
 夕方に着き、初登攀者ウインパーの墓に詣でる。
 そして、多くの他のマ峰登山の犠牲者の墓に深々と頭を垂れた。
 その後、登頂成功を祝して仲間達とドイツビールの乾杯を重ねて夜が更けていった。
 翌日、やや二日酔いのまま、改札口もないツエルマット駅からアイガー、メンヒの登山基地であるグリンデルワルトに向け、発車ベルもない電車が走り出す。
 広大なアルプの上のそそりたつ、アイガー北壁と氷雪のメンヒ。
 翌々日の朝、ユングフラフ氷河のクレパス(割れ目)を慎重に越え、岩壁に取りついた。
 そして、昼過ぎに氷結した雪のメンヒ山頂にアイゼンを踏み込み、ピッケルを打ち込んだ。キャンキャンという氷雪の音がいまだに耳に残る。

   ピッケル弾く万年雪や天近く

   参考:写真⑩、⑪、⑫





























(1) ※1:マッターホルン北壁初登攀 (1931年、標高差1500米)
      グランド・ジョラス 同上  (1935年 同上 1800米)
      アイガー     同上   (1938年 同上 1800米)
   話題の映画「アイガー北壁」は、3月20日より、全国一斉に上映される。
   また、新田次郎『アイガー北壁』も好書である。 

(2) ※2:マーモット:ウイキペディア(wikipedia)
  
(3)写真
写真① ツエルマットとマッターホルン
       (正面がヘルンリ稜、右側が北壁)
写真② ツエルマットのホテル、氷河からの乳白色の川
       (どのホテルのどの窓にも赤いゼラニュームの鉢が飾られている)
写真③ 朝日を浴びるマッターホルン
写真④、⑤ ゴルナーグラードの展望台から
 ④ 左:モンテローザ、中央:ゴルナー氷河、その右:リスカム
 ⑤ マッターホルン
写真⑥ リッフェルゼー(湖)の逆さマッターホルン
写真⑦ ヘルンリヒュッテとマッターホルン
写真⑧ ヘルンリ稜を登る
写真⑨ マッターホルン山頂とガイドのビッヘル・メインレッド
    後方はイタリア側山頂
写真⑩ 下山途中 雲の湧くマッターホルン山頂
写真⑪ ツエルマットのウインパー他の遭難者の墓
写真⑫ ベルナー・オーバーラントの広大なアルプ(牧草地)
    左:アイガー(北壁)、右:メンヒ  

(4)参考文献:『スイスアルプス・ハイキング案内』(小川清美著、山と渓谷社)

2010年3月2日火曜日

モノよりポエムより、ヴァイブ

ミュージックマガジン増刊『THE GROOVY 90'S』を立ち読みした。と、PCのキーを打っていると恥ずかしくなるようなタイトルだが、内容は「90年代日本のロック/ポップ名盤ガイド」である。
思わず手に取ってしまう悲しい性。オザケン復活というタイミングは偶然らしいが、それがまた微妙に感慨を誘う。

結局、買ってしまった。懐かしさと恥かしさがせめぎ合うなか、最終的にレジにぼくを向かわせたのは、巻頭の、小西康陽、スチャダラパー+TOKYO NO.1 SOUL SET、曽我部恵一のインタビューである。90年代を代表するミュージシャンたちが、今だからこそ語れる、肩に力の入っていない話しぶりが興味深かった。共感したわけだ。

とくに小西康陽の話がよかった。
「お馴染みすぎて誰もなんとも思わないものが突然、違う意味を持つっていうのは、やっぱりカッコイイと思ったんですよね」
「ダサいものの価値がある日逆転するというのがダイナミックでいいよなって、いつも思っていたんです」

ぼくにとっての俳句もこういうようなもので、感性としてはまったく地続きの状態で俳句をつくったり読んだりしている。だから、たとえば「写生」と言うと、「なにそんな古くさいこと言ってんの」みたいな顔をされることがあるけれど、そういうとき、俳句史的な文脈で捉えられているんだなと、思う。俳句史的にみれば古くさいんだろうけど、そういう目で見てないのだ。90年代に、古いラテン音楽やジャズが、新しい聴き方をされたように、「写生」がある。自分のいま生きている気分、時代の空気を反映できるものとして、新たに「写生」が立ち上がってきたと言ってもいい。だから、「写生の時代は終わった」とか大げさに今更言われても、困る。もともとそこに立っていないから、もともとすでに終わったところから始めているのだから。べつにぼくは写生至上主義ではないし、写生という「モノ」のリアリティより、そこから立ち上がる「コト」のアクチュアリティの方に興味があるのだけど、この本を読みながら、ふと自分を省みて思った。いまの気分は、なんか削ぎ落としたい気分。「詩」もうざい。いらない。ほんとうに小さな、稀薄な、粒子のような気分が残ればいい。現実という具体のみが持つ、未だ言語化されない意味や、そこから生じる気分が。

 水足して電気ポットや春の宵   榮 猿丸