2009年8月21日金曜日

― Candela ― Buena Vista Social Club

 記憶の中の土地は、再訪すると切ない。まだ4,5歳の頃だったか、母が入院している間、兄弟の中で私だけ子供のいない父方の伯母の家に預けられていたことがある。確か中央線の高円寺の駅から徒歩10分くらいのところにあった、小さな貸家だった。申し訳程度に庭のついた、古い日本家屋の造りで、二階へ上がる薄暗い急な階段の暗い木の色と質感を、今もありありと思い出せる。周りはドラえもんののび太の家のような、ブロック塀が続く町並みで、迷子になったら、駅からこの道をこう行って、ここを曲がってっておまわりさんに言うのよ、と伯母にたびたび教え込まれていた。駅からは、それほど大きな商店街を通らずに歩けたように思う。一度風邪をひいたとき、いつもは行かない、駅と逆方向の医院へ連れて行ってもらったのだが、そのあたりはうって変わって、大きな二車線道路を挟んで様々に商店が立ち並んでいたのを、うらやましく眺めた記憶があるからだ。統一されたデザインの街灯が並び、そこに七夕か何かのような飾りがついていたのを覚えている。今思うと、昔の街道筋のような、道幅と店並みの規模だったか。その後事業に成功した伯母夫婦は、他へ転居して、その場所を訪れることは二度となかった。時折、句会などで高円寺の駅に降り立つことがあるのだが、あまりにも繁華街が充実していて、あの家への道がどこだったのか、思い出せない。どこまでも続くように感じた似たようなブロック塀と、片蔭、夏の日差し、先を歩く日傘、伯母とあまりしゃべることもなく黙々と歩いた町並みは、今もあるのだろうか。

 この夏の初めに、和歌山県の海沿いを訪れた。幼い頃、何度か夏休みに遊びに行った、曾祖母の家があった辺りを確かめたくなったのと、その隣町に、白砂の海水浴場があるからだった(いや、白浜生まれの双子のパンダの赤ちゃんを見にいくのも目的だった)。その頃の記憶では、大人たちの会話の中で、たなべ、新宮、という地名をよく耳にしたのだが、現在は白浜町のほうが発展しているように見えた。幼い頃遊んだ曾祖母の家の前の海と同じように、今回訪れた遠浅の白い砂浜には、隅の岩場の辺りに魚や烏賊の小さなものが泳いでいて、海水浴の傍ら、子供たちが網で夢中になって追っていた(捕まえたものが墨を吐くのも面白かった)。曾祖母の家のあった、椿は古来から名の知れたしかしひっそりとした小さな湯治場だったが、今はお隣の白浜温泉に完全に水をあけられているといった風情で、一時代前の雰囲気が漂う場所になっていた。が、裏山からパイプを通して源泉を引いていた曾祖母の家の風呂は、ぬるりとした滑らかな優しいお湯で、小さな母屋とは別棟にあり(落ち込み式の外厠がまた怖かった)浴槽は檜だったし、80歳近かった祖母が焚いてくれた薪の風呂は、とても心地よかったのだ。今思い出すと、寒村ながら我々の現在の都市住みより真の贅沢を享受していたのでは、と思う。

 今回webで検索して泊まった宿も、いささか良い時代を過ぎた名残が感じられる所だったが、泉質は曾祖母の家と同じく、肌の弱い体質の者にもあたりが優しかった。道路が通る前は海から船で向かうか、山越えをしないと行けない宿だったが、夕日の沈む海原が目の前にあった。久しぶりに訪ねた、曾祖母亡き後の家は、既に建て替わっているようで、海へ注ぐ川沿いの道だけがそのまま、家の前の、土を敷いていた木製の橋も架け替えられていた。住居はともかく、夏蜜柑や梅の木があった山の、粗末ながら百年を経ていたという農作業小屋は、朽ちてしまったとしたら惜しい。しかし、確かめるすべも、沢沿いを辿って登る道ももう判らなかった。

 先週、奥道志のキャンプ場へ向かう途中、中央高速に載る道へ向かいながら、10年ほど前に住んでいた場所へ寄ってみた。世田谷区に隣接した調布市の外れで、黒澤明が晩年を過ごしたマンションなどからは歩いて5分ほどの所ながら、目の前が崖になっていて様々な落葉樹が木陰を作り、敷地内は30年ほどの樹齢の桜の木ばかりだった。庭の草刈をしていて知らずに蛇をちょん切ったという住人もいたし、様々な種類の蜂が庭の花にやってきたり足長蜂が窓の下に巣を作ったり、徹夜明けで都内からタクシーで帰宅すると、様々な鳥の声にタクシーの運転手が軽井沢みたいだ、とお世辞を言うような環境だった。部屋の窓から見える満開の桜の向こうに、何か不穏なものが見えた。崖の斜面に、昔の防空壕がそのまま残っているのだった。子供たちが時々入り込んで遊ぶから、カードとか落ちてるのよ、と、その集合住宅に以前から住んでいる人が教えてくれた。しばらくして、その洞穴は木の板で塞がれてしまったが、窓の向こうに、暗い眼がこちらを見ているような、不気味な感じがして、一人の昼間などはそちらへ目をやることはなかった。

 数年前に、住人は皆立ち退きを命じられて、今そこは工事現場になっていた。何か大きな、集合住宅に生まれ変わるようだったが、白い工事用の塀で囲まれて、あの防空壕がどうなっているかまでは伺うことができなかった。

 キャンプ場から戻ると、蜩が鳴き始めていた。


  カンテッラとはかげろふの歓びに      青山茂根

4 件のコメント:

  1. 幼稚園の頃その防空壕跡でよく遊んだと思います。

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  2. 茂根さんの文体が好きでここに来ていますが、椿という地名に反応してしまいました。椿の家にはしばらく行っていません。子どもが大きくなり、遠出が億劫になってしまったのです。おばあちゃん二人がやっていた坂の上のお店、今でもあるのかしら。

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  3. 葉月さま

    隣駅にお住まいでしたでしょうか。
    あの辺の崖一帯は、いくつか防空壕があるのかもしれません。
    旧実篤邸も近くですね。

    麻禰さま

    椿をご存知ですか。といっても幼い頃の
    記憶しかないので、坂の上のお店、どの辺か
    わからないのです。車でしたので、鉄道駅の辺りにも、
    今回足を運べずじまいで。
    あの辺りをご存知の方がいてうれしいです。

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  4. はい、私の幼い頃には防空壕がいくつもありました。今はよくわかりません。
    あの辺りの崖は昭和の初めまで雪が降ると遭難者が出るような土地柄だったので、怪談妖怪談の類が豊富です。こんな風に書くとまるで私は昭和初期の生まれみたいですが。

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