2009年12月25日金曜日

 ― 森の匂い ―

  鶴の群とは崩れゆく塔のごと     青山茂根



 アフリカ系アメリカ人らしき、ガタイのいい父親が、鼻歌でも歌いだしそうにご機嫌な様子で、もみの木を入れたカートを押していた。黒い髪、少しくたびれた黒い革コート、そしてカートに詰まれた緑の針葉樹とポインセチアの鉢。
 その、本当にうれしそうな、家に帰ったら家族に囲まれて誇らしげな笑顔をみせるであろう姿に、一瞬でノックアウトされてしまった。いや、一応売り場を見て、値札を見て、その赤いシールに、その父親の笑顔の理由もわかったのだが。

 やってしまった・・・。
この極月の、細々とした取り込み事に追われ、気忙しく感じる日々の中で、ふと、エアポケットの瞬間が訪れると、いけない。
 しかも今月は、一週目のマリインスキー・バレエのあと、先週の日曜に今度はレニングラードバレエを観にいったばかりで、お財布の空間も大きくなっているが、気分も高揚しているところだった。
さらに、そのバレエが、会場が国際フォーラム?というマイナス要因に反して悪くなかった。椅子のちゃちさを除けば、生オケの音響もそれほど気にならなかったし、後ろのほうではあったが、センターだったために見難さを感じることもなく、意外と拾い物!とご機嫌になっていたのだ。
 家の中の掃除は終わってないし、クリスマスのクッキーも焼いてないし、料理の買出しもしてないというのに、つい、である。
 ま、この時期よくある、衝動買いというヤツなのだが(12月は特に危ない)、物が、生木、つまりもみの木を買ってしまった。うっ、部屋に入れるとけっこうな場所塞ぎ・・・。
 土曜日の夕方、近所の、小さなホームセンターに掃除用品か何か、ちょっと買いに出たら、見てしまったのだ、その光景を。もみの木を載せたカートを押す、世界一幸福そうなどこかの父親の姿を。

 そもそも、もみの木の生木を買うのはこれが初めてではなく、10年ほど前にも、一度手に入れている。そのときも、ふらりと立ち寄った成城の花屋で、その辺りの外国人宅向けに鉢に入れられて店頭にあったのをつい、買ってしまったのだった。枝ぶりのよい、ウラジロモミで、八ヶ岳から持ってきたのだけれど、かなり根を切ってしまっているから、根づくかわからない、と言われたのに、即決してしまった。場所柄結構な買い物だったのだが、どこを探しても見つからないのでは、と思えるくらいの容姿(枝?)に一目惚れだった。店員の言葉とは裏腹に、冬を無事に越して、春には枝いっぱいに新芽をつけた。見事な枝ぶりに、更に満艦飾のごとく芽吹いたのが、とても誇らしかったのだが、夏の暑さで、枯らしてしまった。

 花のつかない、純粋な観葉植物も好きなほうで、見ると欲しくなってしまう。アレカ椰子の立派な鉢なぞ街で見かけると、もううずうずしてたまらない。十五年くらい家にある八丈島産のフェニクス椰子は、思いがけず、数年に一度、花をつける。地味な、見落としてしまいそうな花なのだが、いかにも熱帯を思わせる、むせるような匂いを漂わせるのが嬉しい。これは、東京の冬なら、屋外に置いた鉢でもそうそう枯れずに元気だ。沖縄なら道端に雑草化しているクワズイモも、この辺の冬は地上部が枯れることもあるが、春にはまた葉を伸ばし、やはり匂いのある質素な仏炎苞の花の後に、赤い実を見せてくれる。

 担いで帰ったもみの木を、枯らした薔薇を抜いたあとの素焼きの鉢に植え替えて、なぜか家に溜まっていた(いえ、原因は私だが)ワインのコルク栓で根元をマルチングし(鉢土の乾燥防止のため)、部屋に入れた。ちびたちは大喜び。飾り付けに夢中である。こんなものでそれほど喜ぶなら、とも思うが、枯らしてしまうにしのびないのでおちおち旅行もできない。室内に置く数日間のことながら、エアコンがあたると乾燥するから、とついつけるのも躊躇してしまう。厄介な買い物ながら、眠る前に電飾を落としてふと葉先に触れたときの、つんとくる針葉樹の香りに、北の冬への遙かな思いが広がる。

 

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