2009年12月17日木曜日

水死

大江健三郎の新しい書下ろし小説『水死』が近くの書店に並んだので、さっそく購入した。
赤い表紙に黒の文字で「大江健三郎 水死」と印刷された表紙は、昔の句集を思わせるシンプルさ。ややグロテスクで、インパクトがある。

読みはじめると、文体がとても平易になっていることに改めて驚いた。
これは『取り替え子』にはじまる三部作からすでに幾分はみられた傾向であるし、前作『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』でも明らかだった。
そして、この最新作においては、その傾向がさらに顕著になっているように感じた。

私は『万延元年のフットボール』や『同時代ゲーム』あたりのゴツゴツした文体が好きである。
おそらくそれは、日本語の曖昧さを極力排除しようとするところから生まれたものなのだろう。
文と格闘するように読むすすむ刺激を楽しみながら、ようやく慣れてきたころには、すっかり物語に夢中になってしまっている。そうなると仕事があろうがなんだろうが、本を手放すことができなくなる。

大江作品のなかでも、終盤、詩的イメージの氾濫が物語の大団円と交錯するようなもの、交響曲を聴き終えたときのような大きなカタルシスを得ることができるものがとくに好きである。
例をあげるなら『同時代ゲーム』『懐かしい年への手紙』『取り替え子』あたりだろうか。
『宙返り』にはエピローグ的な部分がついているが、クライマックスでの昂揚感は凄まじかった。

とは言え、最近のどちらかというと平易な文体が物足りないかというと、そういうわけでもない。
ただ単になめらかで読みやすいというだけではなく、かつてはゴツゴツと表面化していた知性というか批評性が内部に沈潜し、独特の粘りのある文体になっている。
文体そのものの刺激や抵抗感が薄れることによって、物語そのものの力強さが際立ってくるという面もある。

『水死』の「序章」を読んで、表紙の赤色が、物語のキーとなるらしい「赤革のトランク」の質感を再現したものだということがわかった。
本人も作中でやや自虐的に述べているとおり、発端は前作『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』とやや類似したパターンとも言える。
ただし雰囲気はがらりと違っていて、大江本人が投影された老作家の喜劇的な振る舞いは『アワーミュージック』(2004)でのゴダールを思わせるところがある。
散歩道で出会う人物も、前作では同年輩の男だったが、今作ではいかにも大江好みと思われる活動的な女性である。
この女性を相手役にして、おなじみのちょっと変態的な道化を自らの分身に演じさせる様子は、先生やりたい放題ですナと微笑ましくもあるが、本作のタイトルからも容易に想像できる今後の深刻な展開への予兆はしっかりと織り込まれている。

ちょっとした祝祭的な雰囲気を楽しみつつも、すでに物語という装置に絡め取られたというところか。
読後の印象はまた別途。

榾に書く村の記録の失せにけり   中村安伸

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