古今東西の心理学に精通しついには住処に霊的防衛線を張るところにまで至ったと噂される葉月です(単なる噂です)が、「連合弛緩」が進行した状態が「言葉のサラダ」という医学用語で呼ばれていることは『マンガで分かる心療内科』を読むまで知らずにいました。
「ネコは緑色だから卑弥呼だ」ならそれが「言葉のサラダ」であることに多くの人が気づくだろうし狂気の匂いを嗅ぎ取ることもできるかもしれない。
「メールが来ない…。私は誰にも愛されないんだ」ではどうだろうか?
狂気に関する訓練の行き届いている人でなければ気づかないようなレベルであって、日常性に覆われているとも言えるのではないか。いやむしろポエミーと呼ぶべきだろうか。
さて『豆の木HP』の十月分『二句競作』に見慣れない俳人の作品が二句載っている。
幸福や蜻蛉のたくさん顔へのキャベツ ねここ
順番に日記のあおい虹に水 ねここ
この「ねここ」というのは実在する俳人ではなく、三島ゆかりさんが『犬猿短歌』という短歌自動生成スクリプトに触発されて組んだ俳句自動生成スクリプトの名称である。それにしてもあの「豆の木」と言えども人間でなくスクリプトから投句があったのはさすが初めてではないだろうか(なんか都市伝説みたい)。姉妹スクリプト「木枯二号」と違ってこの「ねここ」は定型という縛りもないので、いかにも「言葉のサラダ」な様相を呈しているとも言える。詳細は三島ゆかりさんのサイトをご覧ください。
広く流通している暗黙の了解の如きものとして芸術と狂気の親和性とでも呼べるものがあると思う(むしろ芸術と非論理の親和性なのか)。「詩的飛躍」とでも呼んでいいのかもしれないしそれこそ「言葉のサラダ」でもかまわないのかもしれないけど、芸術というものを狂気の断崖のぎりぎりのところで爪先立って見える風景のように捉える見解は珍しいものではない。もしかしたらアルチュール・ランボーの私信の中の「詩人は、あらゆる感覚の、長く、無制限かつ、吟味された錯乱によって見者たる(Le Poète se fait voyant par un long, immense et raisonné dérèglement de tous les sens.)」という行が有名になってから一般化したのかもしれない。
俳句が詩の一種であることに私は異存はないが、ご立派な芸術であるかどうかには心もとない気持ちになる。
ただ「ネコは緑色だから卑弥呼だ」ならそのサラダ性(芸術性?)はあからさまだが、「メールが来ない…。私は誰にも愛されないんだ」ではサラダ性(芸術性?)は隠微されやすいということはわかる。そして隠微された毒の方が即効性の毒より手遅れになりやすく致死率が高いということも。
ところでこの『マンガで分かる心療内科』に登場する看護師の官越あすなさんは的確なボケも容赦ないツッコミもこなすスーパー看護師で「簡単に休めたら苦労しませんよね」(第一回)、「バカほどうつになりにくいんですね!」(第八回)などの名台詞のせいかマンガ好きの間では少数ながら熱烈なファンもいるのだが、今回もやってくれました。「この『言葉のサラダ』という医学用語をつけた医者たちの『してやったり感』が目に浮かびますね」。
なんか看護師さんと結婚したがる俳人が後を絶たないのも頷けます。うーん、マンガの登場人物から現実を演繹するという荒業!!(良い子は真似をしないように)
流星やバカと囁かれてみたい 上野葉月
2009年10月8日木曜日
2009年10月7日水曜日
名月
中秋の名月の日、秋葉原でオフ会。
スタート前の18時、会場近くで雲間に見え隠れする月を見た。
そもそも、10年以上前にniftyの俳句関連のオフ会に一、二回参加したことがあるくらいで、オフ会というものに出るのは大変久しぶりである。最近ははじめての句会に参加するということもほとんどなく、今回のように、会う人全員が初対面というシチュエーションもまた、ずいぶん長く経験していないことであった。
会にはtwnovel(ついったー小説)の書き手が18人集合した。
無線LAN環境のあるお店で、ほとんど全員がモバイルPCやiPhoneを手にして、オンライン、オフライン相半ばして、というところは先日のSweet Vacationのライブイベントと似ているようでもある。
実際、専用のタグを用意したということろも共通していた。このタグを使用して、遠方などの参加できない人々を巻き込みつつコミュニケーションをとったり、席題(という言い方はしていなかったが)を出してみんなで小説を作り、合図でいっせいに投稿するなどという遊びをしたりと、なかなかユニークな会合であった。
興味深かったのは、何人かの方が、ついったー小説を書く習慣によって報告書など仕事上のドキュメントを上手に書くことができるようになったと言っていたこと。
つまり、無駄を省き簡潔明瞭な文章を書くということが習慣化することによって、文章の伝達力が増したというわけである。
無駄を省くという点では俳句でも同様の効果がありそうだが、少し違う面もある。
つまり、ついったー小説はあくまでも散文作品であり、短い言葉ではあっても対象をくっきりと描出することが求められるのに対して、俳句は散文としては成立しないほどに言葉を省略するのであって、伝達ツールとしては欠陥品でなければならないのである。
だから俳句の修練が直接的に文章の上達につながるかという点には疑問が残る。むしろ説明不足の文を書いてしまうことが往々にしてあるような気がするのだ。
ところで、先日書かなかったことだが、twitterの特徴のひとつとして、twitterをより楽しむためのサービスを、ユーザーが開発提供している例がたくさんあるということがある。
twitterの機能のひとつに、自分が気に入った発言にfavoliteという☆マークをつけ、クリップしておくことが出来るというものがある。俗にfavoliteをつけることを「ふぁぼる」、つけられることを「ふぁぼられる」もしくは「ふぁぼをいただく」などと言う。この機能を利用したサービスに「ふぁぼったー」というものがあり、自分の発言が誰にふぁぼられたかを見ることができるのだ。
このサービスがついったー小説作家たちに重要視されており、貰ったふぁぼの数をモチベーションにしている作家も多い。
システムとして句会ほど公平ではない部分もあるが、ともかくも読んでもらえているという実感がダイレクトに伝わってくるという点が、創作への意欲をかきたてるのであろう。
オフ会と二次会が終わった頃、名月は中天に昇っていた。
秋葉原駅北口の空間がひらけたあたりで、最後まで残っていた数人が月を眺め、ある女性が月に関するいろんな言葉を教えてくれた。
帰宅後、いつものようにtwitterにアクセスすると、オフ会に参加していた人たちも、参加できなかった人たちも等しくオンラインでタイムライン上にあらわれ、今日の感想やらなにやら話し合っている。
いつものように私はそれを眺めるだけでほとんど発言はしなかったが、すこしばかり文字列に表情がついたような気がした。
月姫のつめたき肌を病みにけり 中村安伸
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