2010年8月13日金曜日

 ― 着物の『アングル』 ―

 角を曲がると、いつも三味線の音がしていた。勤め始めた頃、会社があった辺りはまだ色街の面影を残していて、大物政治家が車で毎夜乗りつけるという超高級料亭の黒塀もあったが、表通りに面していた会社の建物の脇を入ると、三味線のお師匠さんの家があり、いつもお稽古の音が聞こえた。草履を商う店、足袋や帯紐などの和装小物の店や、季節ごとの着物や帯や反物で表を飾る店も何軒かあったし、洗い張りや染物の暖簾もまだ見かけた。祭りのときには山車に乗った芸者衆のお姐さんたちを、休日出勤の会社の窓から見下ろしていたものだった。いつの間にか、そうした店が一軒、二軒と消えていき、よくある繁華街と大して変わらない街になってしまい、そうして自分も勤めを辞めた。

 向いの席に久保田万太郎さんがいらっしゃって、
「あれ、幸田さんもう帰るの、もう少しいいでしょう」
と声をかけて下さったのにお辞儀をして、出口の方へ行こうと、ぐるっと体を廻して立ち上った、と大向うから声がかけられたように、
「ああいい取り合せだ、如何にも江戸の女だね。振りの赤がきれいじゃないか」人の目が”振り”に集まった。
     (『幸田文の箪笥の引き出し』 青木玉 著 新潮社 平成7年)

 劇作家であり、長く演劇界に君臨した俳人久保田万太郎にまつわる、幸田文の思い出話。その俳句からも滲み出る、粋、というものが伺えて、心楽しくなるエピソードだ。そのときの幸田文の着ていたものは、<何時もの間違い無しの紺の縞のこまかいものを着て、その季節に合った染め帯の極くあっさりした取り合わせ>だったが、<この着物を作った時、あんまり地味になるのもつまらない、袖の振りのところだけもみを付けて、年をとっても赤い色のかわいらしさを楽しんだのを見付けられてしまった>のだ。対照的な、明確な色の別布を袖の裏側にだけ付ける、着物の遊び心だろうか。

 先日届けられた、小久保佳世子氏の句集『アングル』から引かせて頂く(ありがとうございました)。色彩の対比への視線、諧謔味がとても印象的な句集なのだが、着る物を素材にした句が多くあり、しかもその取り合わせ・着眼点が滅法面白い。

  一万歩来てぼろぼろのチューリップ

  蝶止まる広場のやうな背中かな

  アロハシャツ着ると十歳年を取る

  衣更へて高所作業の男なる

  舟遊び殺すなとTシャツにあり

  外套を放るやシャドーボクシング

  毛皮着て東京タワーより寂し

  鶴帰る頃かマフラー仕上がらず

  纏はずに湯舟を洗ふ豊の秋

  来賓のコート次々壁の中

  窮屈な夏帽の中考へる

  白シャツからアフリカの腕伸びてをり

  秋祭かくも羨ましき汚れ

     (小久保佳世子 句集 『アングル』 金雀枝舎 2010)

 生涯和服で通し、晩年の幸田露伴の着物の支度ばかりでなく、自身も様々に和服を着こなして小説や随筆を残した幸田文の視点を少し彷彿とさせる。どこかに芯の通った、伝統的な日本のセンスの心地よさ。一歩引いたお洒落心を感じるのだ。俳句、こんなに楽しいものでもあったのかと。


  
 
  
  

2 件のコメント:

  1. 茂根さんの文章はいつも涼しい。

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  2. 麻禰さま

    ありがとうございます。
    昨日は、蓮の花を見てきました。日差しは強いのですが、涼しげに首をもたげていて、蕾もなんともいえない良さがありますね。

    東京でも、
    夕方には鉦叩きも鳴き始めていますし、萩もこぼれかけてきて、少しずつ秋の気配です。
    暑さももう少しでしょうか。ご自愛ください。
                     青山茂根

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