2010年5月7日金曜日

 ― 壜の中身 ―



  座礁せしまま緑蔭の木椅子かな   青山茂根

 遠いところから、一通の手紙が届いた。漂うように、細長い封筒で。以前私が別のところに書いた文の、記載ミスを指摘した内容の短い手紙で、読み終えてとても嬉しくなったのだった。(この場を借りてお礼申し上げます。)異国の作家の名前を、間違えて記載している、という指摘に、そういえばここではなく別のところでその作家の名を出した、と思い出した。慌てて、過去の他のページへ飛んで検索したら、やはり指摘された通りの表記をしていた。しかも二通りの表記をし、そのどちらもが間違っているという体たらくである。確か、その翻訳の書にあたらずに、ネット上の何かを引いてそのまま写してしまったような記憶がある。その国では、その作家の名は、私がカタカナで記したようには省略して呼ばれていないこと、その表記だと全くの別人になる、と教えてくれた手紙だった。あえてここではその内容を書かないが、AOYAMAをA.OYAMAと表記するようなミスである。確かにその国の人には別人としか思えないだろう。英語圏なら、多少は情報も入ってくるし見当もつかなくはないが、そこの国の言語に精通しているわけではない私は全く気がつかなかった。その言語で、その作家に関する文献を読みこなす力は元から私にはない。異国で、長く愛読され親しまれている作家の名を、その国の人々が日常会話の中でどのように語り、通常のメディアなどでどう伝えられているか、遙か離れた国からうかがい知ることは難しい。

 インターネットと俳句の関係について、時折語られるのを耳にするし、自分でも日々様々に利用している。もはやその利用以前の状態には戻れまい、とも思う。インターネットが俳句そのものを変えるわけではないだろう、だけれど、俳句にまつわるやりとり、は確実に変わった。こうして、インターネット上に載せた俳句に関する文の記載ミスについても、遠い国からその現地の情報として、返ってくる。いつどこに書いたものかとの検索も、その記録保存機能が有効に働く場合が多い。そして、過ちを指摘されることは一つ新しいことを知る喜びでもある。寄せられた異論、反論は新たな入り口かもしれない。対話は、そこから始まると思う。 それが全方位へ開かれているのがネット上であり、予測のつかない展開もある。

(今後は、プロフィール欄に連絡先を載せておきますので、何かありましたらどうぞメールでご連絡ください。私のミスで、郵便代を使わせてしまっては申し訳ないです。)

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