2010年1月22日金曜日

 ― 勝手に親近感 ―



  剥ぎ取りし皮干す薬喰終へて     青山茂根


 あ、と気がついてしまうことがある。嫌悪感を覚えるとかではなく。だからどうだ、というわけでもなく、自分がそこに気づいてしまう、というだけだ。電車の中で、あるいは、ご飯を食べていて、また、字を書くとき、その他様々な場面で、人の仕草のある特徴に目が行く。自分でも、時々忘れていて、あ、いかん、と直したりする。他の人々には、かなりどうでもいいことのはず。日常の中で、ふと気にかかる些細なことは、人それぞれだろうけれど、自分の場合、気がついてしまう根拠がわかっているだけに、うーむ、である。

 電車の中で、つり革につかまっている人をみると、ふむ。
 人が何か書いているところを見ると、おや、と思う。
 包丁とか、何か道具を使う人を見ても、同じところに視線がいく。
 行儀作法とか、躾とか、そういうことではなくて(自分もそんなこと人に言えた義理ではない)、目が行くのは、
「脇が締まってない。」
というところである。一般的に、「脇が甘い」といわれることだが、これ、武道系の基本なのだ。剣道なら、すかさず、胴に一本打ち込まれる。合気道なら、技が決まらない。いや、たぶん大多数の方には全く関係ない話だろう。

 クラシックバレエをやっている子供にも、つい、「ほら、脇が空いてる。」と口が出てしまう。宿題をやっているときにも、その内容云々より、「脇が締まってなーい!」と言いたくなる。サッカーで子供が転ぶと、「受身が取れてない!」と突っ込みいれたくなる。

 悲しいかな、ちょっとでも武道系に籍を置いた者の、習性なんだろう。クラシックバレエとは関係ないのは確かだが、実は合気道はモダンバレエやダンスの世界では注目されていて、世界中からワークショップとして短期間の研修にダンサーたちがやってくる。かなり世界的に有名な若手ダンサーも来日して、一般の道場に通ってきたりするのだ。アクロバティックな飛び受身や型の美しさに、モダンダンスの方たちは関心を抱くらしい。書道には暗いのでわからないが、刃物や大工道具などは、脇が空いた状態で使うと怪我をしやすいのはよく言われることだ。最近のサッカーの試合を見ていると、日本代表選手の動きなどは、受身を多少習っているのでは、という転び方をしている。確かに、背骨付近を着地させないので(真の飛び受身は空中で身体を回転し、膝下の脚の外側部分と足裏のみで着地して立ち上がる、危険なので安易に真似しないこと)、怪我もしにくいし、派手に転んだように見えるので、審判へのアプローチにもなる。

 なんで正座なんてしなくちゃいけないの、と聞いてくる子供には、「正座していれば、敵が襲ってきたときにすぐ、片膝立てて応戦態勢に入れるんだよ。」と教えてしまう。「ふーん。」と子供は納得したのかしないのか、だが。だって、他の座り方だとそうはいかない。正座の状態から、片膝を立てて自分の身を反転させ、相手を投げてしまう技もある。

 たまに、俳句関係の中でも、そっち方面に関わっていた方にお会いして、親近感を覚える。というより、そういった雰囲気が、どこかにやはり出るのだろう。新撰21メンバーの中にも、そのような若手もいて、ちょっと嬉しい。ほんとは、弓道を習いたかったのだ。駒沢公園へ行くたびに、いや、まだ始められるかな、と思ったりして(立派な弓道場があるのだ)。あの静かな立ち居振る舞い、ものを見据える格好よさに、憧れる。

0 件のコメント:

コメントを投稿