2011年10月14日金曜日

 ― 『壜』の明滅 ―

 

 高木佳子氏の個人歌誌『壜』第三号から。


  南へ向かふ列車を想つてほしい、青い列車は叫びごゑで満員だ   高木佳子


  ぢやあこれで決めやうといひボケットゆ取り出さるる一つの銀貨


  逃げないんですかどうして?下唇を噛む(ふりをする)世界中が炎昼


  やはらかく熟れてゆきたる鳳梨<あななす>よ汚れてゐるのはにんげんなのだ


 「kyrie eleison」と題された高木佳子氏の14首。その次に置かれた論考「震災と表現」を読み、また14首の歌へ戻ると、現実の生活からの言葉のなかに、(Jヴィレッジ)(『フラガール』)など、作者の居住するいわき市のモチーフの断片が埋め込まれ、31文字の中で明滅する光を放っているのがわかる。(一つの銀貨)はサッカーの試合前の儀式であり、今は、もうその地では見られない光景。(鳳梨)は、『フラガール』の舞台、いわき湯本温泉郷を想起させ、そこが現在は、通常と異なった盛況を見せていることを。一連の歌のなかで、非常ボタンの赤いランプの点滅のように。


 …もちろん、テロと今回の震災とは異なるが、十年経っても良識や善意が表現を抑制するような図式は何も変わってはいないのだと思う。(中略)
 題材に真向かって歌を詠おうとすることは、言い換えればそれは鏡のなかの自分を見つめる行為でもあり、そのときの一瞬における裸の自分なのだ。更に言えば、詠うことは思想・信条や善悪を取り去った部分の、人間の本性をあからさまに暴くことなのだと思う。
   (論考 「震災と表現」 高木佳子 『壜』第三号 2011、10)

 前北かおる氏の句集『ラフマニノフ』は、作者の身近な人々の序文、挿絵が収められ、あとがきも作者の個人的な身辺の報告から始まる。句の初読のさいに、作者の個人情報が与えられるべきかどうか、疑問といえば疑問だが、そもそも前書きが全ての句につけられているのだから、これはそうした作りとして読むべきなのだろう。最も、前書きがすべてフィクションとして挿入される場合もあるのだが、この句集の場合はそうではないようだ。シンプルながら、作者の趣味性を前面に出した装丁は、好ましく映った。

  蚊柱も昔のままの母校かな     前北かおる

  子供等の吉野ことばのあたたかく

  かはるがはるキッチンに立ち長き夜を

  フェレットが腕よりこぼれたんぽぽ黄

  菜の花の雪のさ中の黄なりけり
      (『ラフマニノフ』 前北かおる ふらんす堂 2011)

 日常の喜びと幸福感に占められた、これらの句に触れながら(しかしこの時代は大体の人々にとって人生の一番幸福な時期でもあるのだろう)、そのはるか向こうにいる、たくさんの人々を思っていた。地震や津波や、その後の事故によって、家族や周囲の人々を、家を職を失い、故郷を追われるかに離れ、窮屈ななかに暮らす沢山の人々。その何万人もの人々が持っていた、この句集に描かれているような幸福な日々の数々を。

 

 

2011年9月23日金曜日

 ― 句集『背番号』 むずむずを追いかけて ―

 



 興梠隆氏の句集『背番号』(角川書店 平成23年)より。

   土壁の中に竹ある朧かな               <「Ⅰ 側転」より>

  食卓は椅子に囲まれ鳥の恋

  春めくやペンギン並ぶ洋書の背

  花種の袋の裏の五ヶ国語

  飛魚や積荷は煙草販売機              <「Ⅱ 梅雨(TO YOU)」というタイトル面白い>

  海軍(ネイビー)の基地の中なる夏野かな

  磨り硝子の向かうにプール洗ふ人          <「Ⅲ ガガーリン」>

  岐阜提灯売り場はギター売り場の奥

  駅伝を終へがじゆまるの根元まで           <「Ⅳ雲の斑」>

 誰も描写していなかったものを、見つけ出す才能。どれも形式としてはみ出すことはなく書かれているが、どの景も確かに現代の一齣である。とにかく面白い句はこのあとに挙げることにして、まず、正確な技巧と写生ながら新しい視点にあるものを並べてみた。景でありながらそこにかかわる人々の暮らしが見え隠れする、どこかに作者の師系である加藤楸邨翁の句を思わせる温かさが。

 …何か自分の中にむずむずしているものがあるんです。普段はよくわからないが、心動かされるものに触れたりすると、思いもかけないときにそれが動き出してくれるんです。その動き出したものを自分でもつかみ取りたいものだから、追いかけていくんです。
      (『加藤楸邨 俳句文庫』 春陽堂書店 平成四年 より「対談 わが俳句を語る」 加藤楸邨の発言)
 
  引き抜けばティッシュ突立つ雲雀かな          <「Ⅰ 側転」>

  梅雨(TO YOU)といふ異国極東支配人        <「Ⅱ 梅雨」>

  ハンモックの前にスーツで来てしまふ      

  乾電池のやうな柄なり秋袷                 <「Ⅲ ガガーリン」>

  ドーナツ齧れば穴なくなりぬ秋の風
   
  花の都は花柄の掛布団                  <「Ⅳ 雲の斑」>

 「乾電池」のような柄という比喩は初めて見たようで、きつねにつままれたような、不思議な面持ちで納得してしまう。「秋の風」を、このようにあっけらかんとしたさびしさに表現した句もないだろう。しかし、どこかで芭蕉の<枯枝に烏のとまりたるや秋の暮>に通じる俳味がある。「花の掛布団」は昭和という時代を描き出し、懐かしみつつこのとぼけたおかしみ。重たくれたところのない面白い句ばかりで、もっと取り上げたい句がたくさんあるが、なるべく他の方がブログなどの句集紹介で挙げていない句を引いてみた。

  白南風や地図の四隅に四人の手            <「Ⅱ 梅雨(TO YOU)>  

  琉金のしだり尾の夜のカモミール

  透きとほる翅の集まる夜店かな             <「Ⅲ ガガーリン」>

  雨の日の晴れの夜のねこじやらしかな
 
  冬眠居と号し鉛筆遺しけり                 <「Ⅳ 雲の斑」>

 そんな中に、こうした詩的昇華ともいえる句が見つけられるのだ。透明な、静かに澄んだ詩精神が根底にあり、作者の幅、詠む領域の広さ深さを感じさせられる句集だった。

 最後に先ほどの『加藤楸邨 俳句文庫』の年表に、ふと手を止める記述があったことを。今は静まり返ったその駅の名に。

 大正四年(一九一五)    (加藤楸邨)十歳  
   (父の)福島県原ノ町の駅長への転任に従い、原ノ町小学校へ転校。