『震災鎮魂句集 釜石①』2012,3/8版を照井翠氏より、高木佳子氏の個人誌『壜 #04』2012,4 Spring を氏より頂く。ありがとうございます。
その簡素なつくり。個人的事情の説明文は全くなく、ただ句を記すのみの照井氏の句集より。
若布浸す桶に身体を沈めけり 照井翠
春昼の冷蔵庫より黒き汁
在るはずの町眼裏に雪が降る
ありしことみな陽炎のうへのこと
春は壁乗り越えなくていいですか
迎火や潮の匂ひの新仏
白鳥の祈りの胸をひらきけり
三月や遺影は眼逸らさざる
(『震災鎮魂句集 釜石①』 2012,3/8)
高木氏の短歌誌『壜 #04』、<論考 「当事者」と「非当事者」のゆくえ 震災と表現について再び考える>には、谷村はるか氏の「ドームの骨の隙間の空に」という作品とその評があげられていて、興味深く読んだ。俳句における震災詠にもリンクする内容と思う。高木氏の<「被爆地」というステレオタイプな切り口に対する是非>、という言葉にもはっとする。部分的な肯定も否定も私には難しいとしか言えないのだが、印象に残った言葉のみここに。高木氏の意図とは違う取り上げ方になってしまうことをお詫びする。「非常にマスコミ的にもてはやされていること」。「マスとしての原爆詠はだめだ、力が全然無い」。「自身の目で見、自身の内部で様々に葛藤しているそれらの問題が、静かに並ぶ。」
<短歌 このままでいい>から。
何が高いのかと問へば内部のですよと答えぬ鱶のごとくに
高木佳子
ないぶとは馴れし響きよすぎゆきにわれの内部のなどと詠ひき
熱傷も瘢痕もなくまつしろな曝されがあり白蓼の垂る
測らずとも分かつてゐたらう、雨降るごとくことばは傾ぐ
排出にバナナのよきとて朝なさな黄の耀けるバナナ食うぶよ
ママいいよぼくこのままでいいと吾子は言ふなり本当にいいか
ゆるやかに汚れてをりしわが身体熱きシャワーを幾度浴びても
(『壜 #04』 2012,4)
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